竹内紗苗
2020.04.18 UP

連載 | SOTOKOTO mtu 人の森 | 94 長崎県・新上五島町『花野果農産加工グループ』2代目 竹内紗苗

PEOPLE

2015年に長崎県五島列島の上五島へIターン移住した竹内紗苗さん。
まったく知らなかった土地で過ごした2年半の間に、彼女は島に途絶えていた小麦栽培で畑を復活させ、島に伝わる食文化の継承者として生きることを決めた。
その決意の裏には、かつて新聞記者として取材を続けた福島県・双葉町への思いが横たわっている。

オール上五島産のうどんを目指し、ムギ部を立ち上げた。

 首都圏で新聞記者として働いてきた竹内紗苗さんは、同業の夫と共に一念発起。新聞社を退職して長崎県五島列島の北部に位置する新上五島町(上五島)にやって来た。ここは江戸時代に隠れキリシタンが移り住んだという、独特の歴史を持つ島だ。

 上五島を選んだのは、町がたまたま地域おこし協力隊を2人募集していたから。夫の好きな釣りが思う存分できることも大きかった。

上五島は今も4人に1人がカトリック信者で、29の教会が信者によって守られている。竹内さんが島を初訪問したときに見た大曽教会。
上五島は今も4人に1人がカトリック信者で、29の教会が信者によって守られている。竹内さんが島を初訪問したときに見た大曽教会。

 特に思い入れがあったわけではなく、旅行で訪れた土地でもない。それでも一歩足を踏み入れた瞬間から、彼女は島の歴史や人の暮らしに魅せられていく。

 移住2年目、周囲の協力を得て小麦栽培をスタート。そこでつながった仲間と共に、島伝統のお菓子作りを受け継いだ。農業もお菓子作りもド素人だが、熱い思いと行動力で道をきつつある竹内さんに話を聞いた。

たけうち・さなえ●1984年生まれ。奈良県出身。2007年、中日新聞社の記者になり、15年に退社。同年、長崎県・新上五島町に夫と共に移住し、地域おこし協力隊として勤務する。まもなく3年の任期が終了。花野果農産加工グループを受け継ぎ、2代目となる。
たけうち・さなえ●1984年生まれ。奈良県出身。2007年、中日新聞社の記者になり、15年に退社。同年、長崎県・新上五島町に夫と共に移住し、地域おこし協力隊として勤務する。まもなく3年の任期が終了。花野果農産加工グループを受け継ぎ、2代目となる。

ソトコト(以下S) 上五島に移住して、まだそれほど時間がたっていませんよね。

竹内紗苗(以下竹内) はい、Iターンして来たのは2015年の8月です。

S 島に来られたときの第一印象はどうでしたか?

竹内 初めて来たのは面接のとき。近くの教会で夕方のミサが始まるところで、鐘が鳴ってお年寄りや子どもたちが集まっていて、「穏やかだなあ。ここで暮らすっていいな」と思いました。あのころ私は、仕事にめちゃくちゃ追われていたので。

S 新聞記者をされていた時期ですね。

竹内 そうです。実際、移住してからは釣りや畑もやって、「幸せだな」「おいしいなあ」「これが旬なんだ」と感じることが増えました。以前はコンビニのサラダやお弁当でローテーションを組めるくらいでしたから!

 別居結婚だったので、二人暮らしも初めてだし、夕飯を6時ごろに食べるのも初めて。収入は半分になりましたが、そこはあまり気になりません。生活面では本当に来てよかったと思います。

S 地域おこし協力隊ではどんな仕事を?

竹内 記者経験を生かし、島の情報発信をしてきました。期限は3年なので、その間に自分の生き方を見つけなければいけません。2年目に入るころ、役場の人から「五島うどんの手延べ職人が減っている」と聞き、業者さんを紹介してもらいました。うどんは島の名産品。自分が担い手になってもいいし、うどんを切り口に島の歴史や人を伝えられたらと思ったんです。

S まず、うどん作りを学んだのですか?

竹内 はい。今は機械を使う業者さんも増えていますが、手延べの技術はかっこいいんですよ。ご夫婦で息を合わせ、見事な速さで手を動かしていくんです。

竹内さんにうどんの技法を手ほどきしてくれた平岩勝行さん・和野さん夫妻。
竹内さんにうどんの技法を手ほどきしてくれた平岩勝行さん・和野さん夫妻。「この子が来ると元気が出るとよ。明るいしパワーがあるとやけん!」。

 五島うどんの材料は小麦粉と塩と椿油。今も塩と椿油は上五島で作られていますが、小麦粉だけは違います。それが残念で「オール上五島産の五島うどんを食べてみたい」と思いました。このあたりは50年ほど前まで、黄金色に輝く麦畑が見られたそう。耕す人がいなくなり、草ぼうぼうの土地が多いけれど、黄金色の景観ってステキじゃないですか。そこで、自分たちで小麦を作る「ムギ部」を立ち上げたんです。

S 島のみなさんに声をかけたのですか?

竹内 はい。最初はなかなかアクションが起こせなかったのですが、農家さんに畑を貸していただいたので、SNSで声をかけました。「やりたい」って言ってくれた7〜8人で開墾。種まき、麦踏みと、だんだん人が増えて、収穫のときは延べ20人くらい集まったかな。大人も子どもも大はしゃぎでした。

毎朝午前2時起きで作業を行う。「この子が来ると元気が出るとよ。明るいしパワーがあるとやけん!」。
毎朝午前2時起きで作業を行う。

S 聞いているだけで楽しそうですね。

竹内 本当に畑が黄金色になったんです。収穫はわずか10キロでしたが、一部はうどんにして食べました。それが昨シーズンのこと。今年はもう少し畑を広げています。

小麦の裏作は芋。島の大切な2つの食を紡いでいく。

S うどんではなく、お菓子作りを引き継ぐそうですね。

竹内 手延べうどんは設備が必要で、ゼロからやるのは難しいんです。行き詰まりを感じていたとき、『花野果農産加工グループ』の加工場が広いと聞いて訪ねました。場所を借りたいという下心もあって。

S なるほど。

竹内 二人の女性が切り盛りしていたのですが、行ってみたら「うどんもいいけど、かんころもちを作らんか。私らトシやから、ここを継いでくれんかな」と言われました。「えっ、いきなり?」って思いましたが、以前からかんころもちにも興味があったんです。

この仕事を始めるまでお菓子作りはほとんど未経験だったというが、1年間の修業の成果でとても手際がよい。
この仕事を始めるまでお菓子作りはほとんど未経験だったというが、1年間の修業の成果でとても手際がよい。

S これも島の名産品ですよね。

竹内 はい。さつま芋をゆがいてカラカラに干し、もち米と一緒に蒸してつくお菓子です。島の北部では、段々畑にかんころを干す風景が文化的景観として残されています。かんころは各家で作っても、もちをつくのは大変なのでこの加工場が引き受けていました。

 この島は「芋と小麦で、命と信仰をつないできた」といわれる場所です。でも彼女たちがやめたら、もうかんころもちは作らないという人が出てくるかもしれません。

S それで後を継ごうと決めたのですね。

竹内 一人じゃ無理だと思ったのですが、ムギ部の活動で出会った岡本幸代さんに話したら、すぐに「やりたい!」と言ってくれました。彼女はすごく元気なムードメーカー。二人一緒ならできると思い、すぐに通い始めました。去年の1月から1年間修業して、今は岡本さんと二人で2代目としての仕事を始めています。

花野果農産加工グループで、岡本幸代さん(下写真の右)とふくれまんじゅうを製造中。
花野果農産加工グループで、岡本幸代さん(下写真の右)とふくれまんじゅうを製造中。

S 模索しながら、この場所に行きついた。

竹内 そうなんです。本当に人生はわからないものですね。もう一つ、この加工場に来た決め手は、小麦粉を使ったふくれまんじゅうを作っていたことでした。

S それはどんなお菓子ですか?

竹内 シンプルな蒸しまんじゅうで観光客にもあまり知られていませんが、隠れキリシタンがパンの代わりに作っていたともいわれています。今もカトリック教会ではお祝いのときに振る舞われるそうですよ。ふかしたてはすごくおいしいんです。

ふくれまんじゅうを製造中。

S おもしろいですね。歴史を聞いたら食べてみたくなりました。

竹内 そうでしょう! ちょうど麦の裏作がさつま芋なんです。麦が終わったら芋、芋が終わったら麦。かんころもちを作るからには芋を栽培したいし、せっかくうどんと関わったので、今後も麦を作って黄金色の風景を見たい。ふくれまんじゅうも、私たちらしく工夫して新しい味を作りたい。忙しいけれど、どれも大事で手放せません。

「岡本さんがいなかったらこの仕事は始めていない」という竹内さん。明るい二人、笑顔が絶えない仕事場だ。
「岡本さんがいなかったらこの仕事は始めていない」という竹内さん。明るい二人、笑顔が絶えない仕事場だ。

双葉町の人たちの故郷への思いを聞き、生き方が変わった。

S 上五島に来るまで新聞記者をなさっていましたが、その記者時代と今は、違和感なくつながっているのでしょうか?

竹内 命をつないできた大事な文化がなくなっていく。それを残したいという思いが大きいです。記者のときには文字で紡いでいましたが、今は歴史そのものを自分で紡いでいけたらなあ……と。私、高校生のころからずっと新聞記者になりたかったんです。社会をよくするために日の当たらない場所にスポットを当てたり、人の声を吸い上げて世に問うたりできる。いい仕事だと思っていました。

S それなのに、やめたのはなぜですか?

竹内 2011年3月に埼玉県羽生市に転勤になりました。月曜日に赴任して、金曜日が東日本大震災。その後、隣の加須市に福島県・双葉町の人たちが役場ごと避難してきました。一番近い支局だったので、これは縁だと思い、避難所に毎日のように通って話を聞いたんです。

 故郷ってなんだろう、この町は消えてしまうのだろうかなど、いろいろなことを考えました。双葉町がどんなに素敵だったかを聞き、いつになるかわからないけれど彼らが故郷に帰るまで見届けたい。その記録をライフワークにしたいと思っていました。ところが、会社員なのでまた転勤になるんです。

S 当然、そうなりますよね。

竹内 後任が来るから、もう双葉町の取材はしなくていいと言われました。社会部に行きたかったのにそれも叶わず、自分の仕事に熱くなれなくなってしまった。じゃあ働き方を変えよう。もっと人に寄り添い、がむしゃらに生きていきたい。ちょうど夫も同じように悩んでいたので、思いきって二人で生き方を変えました。

S 人生の大転換ですね。

竹内 島での暮らし、人の生き方、時間の流れ。そういうものを、志を持って受け継ぎたい。その気持ちは、避難所に通い続けて双葉町の話を聞いていたときと、たぶん一緒です。たまたま出合ったこの島で、たまたま継いでほしいと言われた仕事ですが、自分の人生を懸けてもいいかなと感じています。

記事は雑誌ソトコト2018年4月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

photographs by Noriko Yamaguchi
text by Seiko Suga

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竹内 紗苗

たけうち・さなえ
1984年生まれ。奈良県出身。2007年、中日新聞社の記者になり、15年に退社。同年、長崎県・新上五島町に夫と共に移住し、地域おこし協力隊として勤務する。まもなく3年の任期が終了。花野果農産加工グループを受け継ぎ、2代目となる。