永井 彩華
2020.05.19 UP

連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶーローカルプレイヤーの働き方とは 好きな場所で好きな人と、好きな仕事を。故郷・栃木を離れ気付いた、本当に大切なもの。

PEOPLE

地元・栃木と首都圏をつなぐ活動をする株式会社kaettara代表の永井さん。自分の可能性を広げようと進路を選び、就職先を決めましたが、入社してみて気が付いたのは、自分でも意外な自分の気持ちでした。永井さんが本当に求めていたものとは?そしてそれに気づいた時、永井さんがとった行動とは。お話を伺いました。

息苦しい毎日を変えた先生の言葉

栃木県小山市に生まれました。母が教育熱心で3歳から塾に通いはじめました。塾では各自、自分のペースでプリントの問題を解いていくスタイルで、賢い子は幼稚園生でも小学校高学年で習う内容の問題を解いていました。優秀な子が多い教室でしたね。幼いころからそんな競争社会に放り込まれたわけですが、私はそんなに成績が良くなくて、どうやったらプリントをやらずに教室を抜け出せるかばかり考えて、あれこれ試していました。マイペースでしたね。小学4年生の時、仲が良かった友達に急に仲間外れにされたんです。理由がわからなかったのですが、次第に「自分の性格が原因なのではないか」と考えるようになりました。私は、自分が正しいと思ったことははっきりと言う性格でした。しかし、この出来事から「自己主張するって、損なことなんだな、自分の気持ちを表に出さずおとなしくしていよう」と思うようになって。そこからなるべく目立つような行動は避け、いつも一歩引いて遠慮するようになりました。

とにかく「普通であること」が最優先事項だったので、何をするにも周りの目を気にして息苦しかったし、毎日が退屈でした。でも中学3年生になったある時、先生に「もっと前に出なさい。あなたは本当はもっと自分を出せる人よ」と言われたんです。涙がこぼれました。ずっと閉じ込めて蓋をしていた自分を認めてくれた気がして、救われたように感じました。

先生の言葉で「私は私のまま、もっと自分の考えを出してもいいんだ」と前向きに考えられるようになり、少しずつ自分の想いを素直に出せるようになりました。最初はドキドキしましたが、拍子抜けするくらい周りは変わらなくて、単調だった毎日が楽しくなりました。なんとなくですが、自分も将来はこんな風に生徒を導ける存在になりたいと、教師という職業を目指すようになりました。

熱中するものを見つけた

中学ではソフトテニス部に入っていて、放課後も週末の休みも毎日練習に明け暮れていました。でも最後の引退試合は1回戦敗退で終わってしまって。私がこれまで部活に費やしてきた時間は何だったんだろう?と、ものすごく焦りました。

「何も成し遂げずに中学生活を終えたくない」と強く思い、その日から必死に勉強して、憧れていた県内の進学校に進学しました。合格した時には達成感がありましたが、入学するとそれは一変しました。自分とは比べ物にならないほど、明らかに頭のできが違う子たちがたくさんいたんです。

入学して最初の1カ月、いたる場面で周囲の子たちの優秀さを目の当たりにして、自分と比べて劣等感を感じたし、すごく嫉妬しました。そんな風にくすぶっていた時、担任の先生との個人面談があったんです。家が学校から遠いので部活はやらないつもりだと話すと「じゃあ生徒会に入ってみたら?」と言われました。

考えてもみない選択肢でしたが、大好きな高校だったので、それに貢献できる生徒会の一員になれたらすごく素敵だな…と思って。気が付いたら「出ます」と即答していました。入学したての1年生で、選挙に出るのは私だけでした。選挙活動中は落選するのが怖くて不安でいっぱいで、自分で決めたことでしたが、何度も後悔しました。やるからには精一杯やろうとなんとか自分を奮い立たせ、学校のことをまだよく知らないからこそ、学校をこんな風にしたい、といった未来への想いを詰め込んだスピーチの原稿を作り、本番に向け暗記して臨んだんです。当日、暗記するほど準備してきたのは私一人でした。

お昼の校内放送で、自分の当選を知らせるアナウンスが流れた時は、すごくうれしかったです。一方で、「これからもっと頑張らないと」と身が引き締まる思いでした。受験が終わって、希望した高校に入学してゴールしたような気持ちを引きずっていましたが、新たに目標が見つかり、スタート地点に立てた気がしました。

生徒会活動は、やればやるだけ結果が目にみえる形になりました。メンバーにも恵まれて楽しかったですね。あまりに夢中になりすぎて、授業中にアンケートを集計したり、校内報を作ったり、ずっと仕事をしていました。また、入学当初は同級生たちのすごさに自信を失っていましたが、自分なりに夢中になれて誇りが持てるものができてからは、周りのことが気にならなくなりました。

生徒会活動はやりきりましたが勉強は身が入らず、高校3年生の大学受験も差し迫る時期でも、偏差値がすごく低かったです。そんな時、成績は関係なく課外活動のみが評価対象になる、自己推薦入試の存在を知りました。これは私にぴったりだと思いました。リスクも考えましたが、ここから成績を上げるより勝算があると思ったので、自己推薦入試一本に全力投球しました。その甲斐あって、第一希望の都内の大学に合格したんです。

家族の近くで働きたい

大学へは実家から2時間ほどかけて電車で通いました。専攻は、理科の先生になろうと思って生物学。正直、深く考えずに選んでしまったのであまり興味が持てず、しかも理系は拘束時間が長く、再びくすぶった日々を送っていました。

そんな中で、バイト先で司法試験の勉強をしている男性に出会ったんです。私より9歳も年上の人が、自分の人生にしっかり向き合って、高い目標に向かって努力している姿に衝撃を受けました。「私ももっと自分の可能性に挑戦してみたい」と強く思いました。

ちょうどその時期に、栃木で有名な占い師に手相を見てもらう機会があって。占い師に「あんた学校嫌いだったでしょ。学校が嫌いな人が教師になるんじゃないよ」と言われたんです。思い当たるふしがあったからドキっとしました。そして「あ、私ってこれから何にでもなれるんだ」とふっと心が軽くなったような気がしたんです。昔からの夢だった「教師になる」という道を選べば、間違いない。無意識の内に教師以外の道はない、もう違う道は選べないんだ、と。自分を型にはめて思考停止していたんだと気づかされたんです。

そこで改めてゼロから自分の将来について考えるようになりました。もっといろんな世界を見たいと、大学4年生の時、知り合いの紹介でウェブアプリを制作しているベンチャー企業でインターンをはじめました。

キュレーションアプリの制作を通じて、自分が興味関心のある情報をまとめ発信するのが面白いと感じました。それがもとで、東京で編集やデジタルマーケティングをやりたいと思うようになり、大学卒業後は東京勤務のマーケティング職として採用された会社へ就職しました。

でも蓋を開けてみると、マーケティング職は本社がある福井にしかなくて、私は東京のコールセンターに配属になりました。想定外だったので落胆しましたが、既に大学を1年留年していたし、ひとまず入社しようと、初めて実家を離れて上京しました。家を出る時、家族が寂しそうにしていると感じました。うちの家族は感情を出すのがあまり得意ではないので特に別れを惜しんだりしませんでしたが、その時の感情がやけに心に残りました。

最初の1カ月半は福井県に住みながら本社での研修でした。就職したのは、社員の平均年齢が27歳くらいの若い会社で。自分たちの手で会社を大きくしていくんだという活気に溢れていました。そこで思ったのが「地元の栃木にこんな活気のある会社があったら、残って働いたのにな」ということでした。

自分にとって一番幸せな状態って、自分の好きな仕事を、地元家族のそばでできることなんじゃないかな、と思うようになったのです。

栃木と東京をつなぐ

ただ、地元の栃木ではそんな風に働くのは、今の自分のスキルから考えても難しいだろうと思いました。初めて、起業することも自分の人生の選択肢の一つとして考えるようになりました。ただ、すぐに独立できる力もアイデアもありません。まずは力をつけようと、研修を終えて東京に移った後にすぐ、地元で仕事をすることにつながる環境を探しました。

そして新卒入社した会社をて5カ月で辞めて、製造業を支援するマーケティング企業に転職しました。栃木は県内総生産額に占める第二次産業の割合が全国で3番目に多い県だったので、製造業でものを売れるようにできれば間接的にでも貢献できるかなと思ったんです。

そこで仕事をしつつ今後のアクションのヒントを探すためいろいろな方に会ってお話するようにしました。ある時、信州で人と人を繋いでいる方とお話した時に「まずは都内で栃木出身者を集めた飲み会を開いてみたら?」とアドバイスをもらいました。「飲み会は2人いれば成立するから、本当に誰も来なくても友達呼んだら成功だよ」と。

それならやってみようと思い、早速アドバイスに従ってSNSにイベントページを作って「栃木ゆかりのみ」という名前で飲み会を開催。すると、募集をみて20人くらいの人が集まってくれたんです。そこで栃木の情報をいろいろと教えてもらえました。こんなおもしろい人がいる、こんなイベントがあるよ、と。その情報をもとに、実際に栃木へ足を運ぶようになりました。

いろいろな活動をしている人たちに会いに行って話をして、これまで知らなかった地元の情報を知れてものすごく楽しかったです。何度も足を運んで様々なキーパーソンに会っていくうちに、地域が立体的に見えるようになります。そうすると、様々な課題も見えてきました。

自分なりの課題感を持って地域に入っていくことでだんだんと、自分の中でやるべきことが明確になっていきました。そして27歳の時、栃木と首都圏とをつなぐ会社を作り、独立したんです。

家族の側で好きな仕事ができる社会

現在は、株式会社kaettaraの代表として、栃木と東京との2拠点生活をしながら「かえれる地元をつくる」ための事業をしています。社会人1年目で始めた「栃木ゆかり」も続けていて、栃木にゆかりのある人が栃木と関わるきっかけを作っています。そのほか、地元で挑戦できる環境を発信するメディアの運営も行なっています。

私がつくりたい「かえれる地元」とは、誰もが大切な人のそばで挑戦できる環境のこと。地方に住む人が就職のために上京しなくても、大切な人の近くで働けるような環境をつくりたいんです。人口減少が間違いなく加速し、地元が無くなる可能性もある時代です。だからこそ、もっと課題と向き合って、地域の産業を活性化するために挑戦できる人を増やさないといけません。そんな仕組みづくりに貢献していきたいです。

家族のそばで、という活動していますが、実は地元の家族にはあまり話していないんです。面と向かっては恥ずかしくて言えないじゃないですか。でもだからこそ、行動で示さなきゃと思っています。

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another lie.」からのコンテンツ提供でお届けしています。

キーワード

永井 彩華

ながい・あやか
株式会社kaettara代表。東京のマーケティング会社で働いたのち、独立。栃木県ゆかりの人が集まる栃木ゆかりのみの主催や、かえれる地元をつくるメディア「MIKIRO」の運営などを行う。自身も栃木と東京との2拠点生活を送る。