落合陽一×小川和也 | special | テクノロジーは、人間をどこへつれていくのか
2019.04.24 UP

落合陽一×小川和也 | special | テクノロジーは、人間をどこへつれていくのか

DIVERSITY

テクノロジー社会論の第一人者・小川和也さんによる『ソトコト』の人気連載
「テクノロジーは、人間をどこへつれていくのか」の特別版!
今回はメディアアーティストの落合陽一さんをお招きして、
「デジタルネイチャー」と「テクノロジー」についてのワクワクトークが始まります!

落合陽一(メディアアーティスト)
×
小川和也(アントレプレナー/フューチャリスト)

デジタルネイチャーとテクノロジー

小川  落合さんは、「映像」の世紀から「魔法」の世紀への変化を論じられていますが、それぞれはどのような世紀なのでしょうか。

落合  「映像」の世紀は、マスメディアが社会の中心として構成された世紀でした。「魔法」の世紀は、コンピュータが中心となって社会を構成する世紀です。かつて、モリス・バーマンという社会批評家が「世界は再度魔術化する」と言ったんですね。その70年くらい前に、マックス・ウェーバーが「社会は脱魔術化した」と論じています。科学技術により社会の仕組みが明らかになり、脱魔術化したというわけです。モリス・バーマンは、科学技術が進歩しすぎたせいで、むしろ社会の中身がよくわからなくなってしまった、また魔術化していると指摘しているんです。脱魔術化、再魔術化の議論はとてもおもしろいんですが、21世紀は仕組みのわからない魔法の時代になったことは確かだと僕は考えています。機械学習、ディープラーニングで問題を解くというのは、統計的な処理で結果が出せるようになっただけで、中のメカニズムがどうなっているかは判然としない。どうしてこの問題が解けるのかという合理的な理由はわからないんです。それって魔法みたいな話で、皆が皆、理屈がわかったうえで物を作るのと、理屈がわからぬまま物を作るのとでは、事情が変わってきます。例えば入試の合否を機械学習で判断しようとした時に、なぜほかの子が合格してうちの子が不合格なのかが納得できないという現象も出てくる。映像の時代は人間がコアとなってマスメディアを動かしていたけれど、魔法の時代になると人間がコアだとは言えなくなってくるんです。

小川  当面、人間は魔術にかかり続けることになるでしょうね。魔術の装置を作るのも人間だけど、その装置に魔術をかけられるのも人間で。強い魔法にかけられると、主体が何かを見失うリスクにさらされる。

落合  魔術は恩恵でもあるので、使い方次第ですよね。魔術のレベルに至っていないものも含めて、技術の進歩は日常をだいぶ便利にしています。精度の高い翻訳をリアルタイムにできるようになっているので、タブレットだけあればどこの国の人ともコミュニケーションをとれるようになる。

小川  完璧な翻訳機によって、語学のあり方も変わりますね。語学って、翻訳以上の意味を持たせないと無意味になるし、口から耳に伝承するという原初的な意味がどこにあるのかも考え直す必要がある。もっとも、脳とつなげた翻訳機能により、相手に合わせた言語で口から発するようなこともできるだろうけど。「魔法」の世紀になると、メディアという概念が古いものになり、最終的にメディアという概念自体がなくなってしまうこともあるのでしょうね。

落合  クラウドに情報が蓄積されていると、目の前にあるインターフェイスはただの表示板であって、象徴的なメディアではないんですよね。機能と物質が一致しているからこそ、象徴的なメディアだったんです。映写機もテレビもスマートフォンも。機能の大半がインターネットの向こう側に存在するようになると、「それはただの板だろ」と。

小川  「魔法」の世紀が熟すと、魔法ですら標準化し、「魔法」の世紀に生きているという実感も褪せてしまうのでしょうね。

落合  空気みたいになるでしょうね。空気と魔法は紙一重なんです。映像は仕組みが知られているから空気に近い。仕組みはわからないけど驚きがあるから、いまはまだ魔法と空気の区別がついているんです。魔法の世界に生きている住人にとって、魔法は空気みたいなもの。インターネットって空気みたいなものになっているので、そこに接続できなくなると息を吸いにくくなります。魔法もそういうものになるでしょうね。

小川  デジタルとネイチャーという、相対するような言葉を一体化させた「デジタルネイチャー」という概念を提唱されていますね。

落合  メディアが空気みたいになってしまうと、物質的に存在するかデータ的に存在するかという区別がつかなくなります。人間は、物質的に存在するもの、人工物ではないものにネイチャーを感じるんですが、データそのものをネイチャーと感じるようになってしまうということです。コンピュータによる超自然、計算機によってもう一つ外側に定義された自然というものがあって、われわれがいま自然と呼んでいるものと人工物のすべてがコンピュータによって定義されている状態になるだろうなと。グーグルマップにデータとして保存されている森林も、バーチャルな自然と区分されなくなる。

小川  いまはリアルとバーチャルを明確に分けようとしているけれど、本物と近似という区分では片付かなくなりますね。

落合  「紙でください」というのと「データでください」というのでは、実は同じことを指していたりするんですよね。作ったものが一瞬でデータになる、そしてデータになったものが一瞬でアウトプットできるという対比関係を、バーチャライゼーション、マテリアライゼーションと呼んでいるんです。実質化と物質化、それらはあまり変わらないんですよね。その往来を軽くできるようになると、区分もしなくなる。

小川  ちなみに落合さんは、自然環境としての自然、つまり山とか川とか、生物や動物は好きですか。

落合  結構好きですね。山も川も行きますし、動物に触るのも好きです。

小川  それらがテクノロジーによって超高レベルで形成された時、現状の自然環境や動物と同じだと解釈できるんですかね。

落合  シャボン膜に超音波を当てて細かく振動させることで画像を映し出す『コロイドディスプレイ』を廃校で行うと人工物感が減り、不思議な現象だけがそこにあるように見えるんです。
 『幽体の囁き』という作品は、校庭に机が並んでいるんですが、そこで子どもたちが遊んでいるような音が聞こえてくるんです。いずれもテクノロジーが当たり前のようにそこに馴染んでいて、妖怪がいるみたいで不気味なんです。だけど、テクノロジーが妖怪っぽいくらいまでになると、自然との相性がすごくいいんです。インドネシアの森林なんかを眺めていると、お化けが出てきそうな感じがするじゃないですか。『コロイドディスプレイ』も『幽体の囁き』も、お化けみたいな感じにデジタルが自然に溶け込んでしまっていて。

小川  いまは作品が妖怪のような現象になっているけれど、自然とさらに一体化すると、もはや作品ではなくなるでしょうね。

落合  パブリックアートよりも自然に近いものになるでしょうね。ニューヨークのど真ん中にLOVEという文字のオブジェが置かれたりすると“人工物感”が強いですが、“人工物感”がないパブリックアートってそのうち存在するようになると思うんですね。香川県・直島の『地中美術館』あたりは、人工物が自然に溶け込んでいるように感じられますね。

小川  僕は「テクノロジー実存主義」というものを考え、提唱しているんです。テクノロジーによって存在するようになったものは、必ずしも目的があって存在しない。それらは使命を持って生まれてくるものばかりではなく、存在が何かを意味するわけでもない。存在の価値や意味は最初にはなく、次第に作られていきます。デジタルネイチャーだって現実に一体化すればするほど、存在としての絶対感が芽生えてくるじゃないですか。かといって、あらかじめ存在する理由が用意されていなかったりする。実存主義は人間だけではなく、テクノロジーによって生み出されたものにも当てはめて解釈すると、新たな世界が見えてくるんです。

落合  確かに、『コロイドディスプレイ』や『幽体の囁き』も、生まれてから妙な実存感を持ち始め、そこから意味が作られていく感覚があります。

小川  アニメ、映画、小説も作り物ですが、人間はものすごくインスパイアされますよね。アニメだと分かっていても、感動して涙が出てくる。ある種の超現実だけど、出来がよい作品はもはや現実かのごとく人間を揺さぶります。その時、それらを単純に作り物だと言い放ってよいのだろうかという感覚になるんです。目的があって作られたものがほとんどなので、「テクノロジー実存主義」の枠組みにはないのですが、作り物が現実としての力を持つことの意味を考えさせられる。

落合  グルメサイトに支配された人間にとっては、食べ物にはメタタグがたくさん付いていることになり、人間の食べ物に対する見え方も動き方も変わります。これもある種のデジタルネイチャーで、現実と作り物の境界線が微妙になっていくことの表れの一端じゃないかと思います。

小川  人類が生きているこの世界は、実はすべてシミュレーションによる現実だとする「シミュレーション仮説」をどう思いますか。

落合  反芻はできないけれど、ありえないことだとは言い切れないですね。バートランド・ラッセルが提唱した、世界は5分前にできたかもしれない「世界5分前仮説」に近い話ですよね。

小川  アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの『過程と実在』あたりもシンクロしますね。過程こそが実在であると。そもそも未来人が過去をシミュレーションの中に収める意味があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうね。

落合  実は意味ってないのかなと。もしかしたら、シムシティのようなシミュレーションゲームのノリで、楽しんでいるだけだったりして。

小川  意外と単純なオチがそこにあったら笑えますね。人間は見てから情報処理するまでに0.5秒くらいはかかるわけです。だからそもそも、いま見えていると思い込んでいるものは全部過去の世界です。

落合  先読みして動いている時と、遅れて動いている時があって、そのバランス次第で世界に対する認識ってだいぶ変わってしまうとも思います。

小川  未来といまと過去が、交差するとでもいうか。「シミュレーション仮説」を検証すると、仮想現実の可能性も、違ったものに見えてきます。

落合  そもそもいま見えているものすべてが仮想かもしれませんからね。

photographs by Masaya Tanaka
text by Kazuya Ogawa

本記事は雑誌ソトコト2017年2月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

キーワード

落合陽一

おちあい・よういち
1987年生まれ。筑波大学助教。メディアアーティスト。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。IPA認定スーパークリエータ。「三次元音響浮揚(ピクシーダスト)」で、経済産業省「Innovative Technologies賞」を受賞。2015年、米the WTNの「ワールド・テクノロジー・アワード」(ITハードウェア部門)において、日本から唯一、最も優秀な研究者として選ばれた。近著に『これからの世界をつくる仲間たちへ』(小学館)。

小川和也

おがわ・かずや
起業家、著作家、研究者、ラジオ番組ナビゲーターとして、ばらばらの点をつなげて未来をつくる活動をしている。起業家として独創的な事業を生み出し続け、世界的に権威のあるマーケティングアワード「DMA国際エコー賞」を受賞。著書『デジタルは人間を奪うのか』(講談社現代新書)は高等学校「現代文」の教科書をはじめとした多くの教材や入試問題に採用され、テクノロジー教育を担っている。北海道大学客員教授として人工知能の研究を行い、J-WAVE『FUTURISM』番組ナビゲーターとして未来を生きる鍵を声で伝えている。最新刊は『未来のためのあたたかい思考法』(木楽舎)。

  • 1/2