標本バカ
2020.06.20 UP

連載 | 標本バカ | 58 ブータンからの研修生

DIVERSITY

この研修生は国の森林局に勤める方で、剥製師の職名を持つのだという。

 「幸せの国」。自然史業界の人からは未知の生物多様性で名高いこのヒマラヤの国から、剥製技術を学ぶ研修生の派遣の依頼があった。この研修生は国の森林局に勤める方で、剥製師の職名を持つのだという。剥製作りが本職の人を指導できるのかと思い、研究用の仮剥製などの標本技術なら、いつでも教えますよ、と返答をしたところ、「ぜひお願いしたい」という回答があった。僕は仮剥製程度の簡易的な毛皮標本はいくらでも作ってきたが、展示用の本剥製は専門の業者に依頼して作ってもらっている。学生のころは自分で作製したこともあったのだが、生きていた様子を再現しようと思うと、経験的に無理なところがある。

 どういう指導ができるかと、剥製の作製を依頼している本職の方に相談したところ、2日くらいならレクチャーしよう、と快諾を受けた。彼は剥製技術の普及にも熱心で、技術に乏しい国に伝道することに意欲的だ。研修生が2週間滞在する間、僕が基礎的な部分を教えて、最後に本職からの技術指導を受ける。有意義な滞在になるだろう。

 10月末、ブータンからの研修生・通称“タンさん”は来日した。動物標本作製の経験を聞くと、骨の標本を作る経験はあるが、毛皮はほとんど皆無だという。彼の前任として長年勤務したブータン唯一の剥製師が亡くなり、彼がその役職を引き継ぐこととなったらしい。タンさん自身は野外で大型哺乳類の調査に従事していた。動物の皮剥ぎも、ちゃんとやったことはないという。それなら僕にも教えられることはたくさんある。ネズミの皮剥ぎと仮剥製の作製から始め、1週間少々で中型哺乳類の標本作製、そして大型哺乳類の皮かわなめ鞣しまでを指導した。

 一通りの標本作製作業を経験してもらったところでプロ剥製師の登場だ。イタチと鳥の本剥製の作製を2日かけてていねいに指導してくれた。剥製の内部に入れる頭部の型取りと型起こし、胴芯の作製から四肢の接続方法、そして重要な顔の表情の再現法。剥製作製の教科書の写真と文章では理解し難いものだったが、実際に作業している様子を見ると、学ぶ部分が多い。最終日にタンさんが作製した鳥の剥製は、胴の形が少々いびつではあるが、形にはなっていた。あとは今後の修練である。

 研修中の2週間、毎晩タンさんを囲んでグラスを傾け、彼を空港に送る車中でも僕たちはブータンの自然や暮らしについて教えてもらった。国土の半分が自然保護区に設定されているこの国では、動物は厳密に保護されている。これは1960年頃から国王の主導により開始され、彼らが作製したトラやユキヒョウの調査報告書の冒頭は国王に対する謝辞から始まっている。教科書的理解では、各保護区は動物が往来できる回廊で結ばれるべき、という理想論が掲げられているが、この国の保護区を示した地図では、見事に実践されている。人の活動よりも自然を重視している様子がうかがえる。英会話運転で注意力が失われ、スピードを出しすぎたらしい。バックミラーを見ると回転灯を点けたセダンが迫っていた。タンさんは多くの経験をブータンに持ち帰ることができたことだろう。

文●川田伸一郎
題字・金澤翔子
illustration by Fumihiko Asano

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川田伸一郎

かわだ・しんいちろう
1973年、岡山県生まれ。農学博士。国立科学博物館動物研究部研究員。2019年3月から6月まで同博物館で開催される「大哺乳類展2」の企画も担当。著書に『モグラ博士のモグラの話』『モグラ-見えないものへの探求心-』など。