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2020.06.29 UP

連載 | 標本バカ | 57 インセクト・フェア

DIVERSITY

普通の主婦はミイロタイマイなどという名前は知らない。

    何度か子どもの趣味の話題を書いてきたが、恐竜や深海生物から始まった関心は昆虫へと本格化し、元・昆虫少年の父としてはうれしいかぎりだ。毎日図鑑を眺めては昆虫の名前を覚え、虫捕りにいそしんでいる。最近は昆虫標本の作り方を教えてほしいとねだる。父の洗脳活動は順調に進んでいる。

 上の息子の8歳の誕生日が近づき、プレゼントに悩んでいたら、標本観察に来た学生から、誕生日に東京でインセクト・フェアがあることを知らされた。世界の昆虫標本が一堂に会して、考えられないような安価で販売される即売会だという。ぜひ行ってみたい、そして息子の誕生日祝いに何か標本を買ってやるのもよいかと考えた。

 その夜、怪しい提案に怒られるのを覚悟のうえ、妻にインセクト・フェアの話をしてみたところ、驚いたことに好反応で、うちのインテリアに蝶の標本を飾ってみたいと考えていたのだという。妻は世界の昆虫図鑑などを眺めているうちに、昆虫少年ウィルスに侵されてしまったらしい。子どもたちが小さいころから、今森光彦さんの昆虫切り紙の本を愛読しており、器用にたくさんの作品をこしらえていたので、その頃には昆虫主婦の萌芽はあったのだろう。ミイロタイマイという、日本のアオスジアゲハと近縁の蝶の標本が狙いだという。普通の主婦はミイロタイマイなどという名前は知らない。

 そしてインセクト・フェア当日、会場内は熱気で包まれ、年配の方から若者まで、大勢の虫屋が集まっている。中には多少子ども連れの人も見受けられた。上の息子の希望は彼が大好きなコーカサスオオカブトである。下の5歳のほうは、兄の誕生日に便乗してクワガタの標本を買ってもらう気満々。二人を連れて甲虫の販売店を見て回る。値段はピンキリだが、中には1000円、2000円という安売りコーナーも設けられており、そこにサイズ的にも納得がいくコーカサスを見つけて、めでたく誕生日プレゼントを確保することができた。下の息子は1000円のマンディブラリスフタマタクワガタが相当気に入ったらしく、彼の機嫌を害さないために野口英世一枚と交換することになった。1000円でこれが入手できるのは、この標本に採集地等のデータが欠如しているからだろう。データを欠く標本は価値が低い。そんなことがどうでもいい子どもたちはまだまだ甘い。ちなみに二人ともすでにこの長いクワガタの名前を記憶しており、子どもの記憶力とはすごいものだ。お店の方も次々と標本の名前を連呼する彼らを絶賛し、誕生日ということでホウセキゾウムシの一種をおまけしてくれた。 

 その間、妻は一人で蝶の標本エリアを吟味し続けていた。ミイロタイマイのほかにベニスカシジャノメや僕が知らないいくつかの蝶に目を付けて、もちろん値段も考慮しながらピックアップしていく。正直、ここまで真剣に選んで購入するとは思ってもいなかった。希望の品がゲットできた妻は、「あなたも何か買ったらどう?」というのだが、皆の満足いく買い物におなかがいっぱいで、「僕にとって標本は自分で集めて作るもの。買うものじゃあない」とプロらしく回答しておいた。

文●川田伸一郎
題字・金澤翔子
illustration by Fumihiko Asano

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川田伸一郎

かわだ・しんいちろう
1973年、岡山県生まれ。農学博士。国立科学博物館動物研究部研究員。2019年3月から6月まで同博物館で開催される「大哺乳類展2」の企画も担当。著書に『モグラ博士のモグラの話』『モグラ-見えないものへの探求心-』など。