愛媛県・忽那諸島に関わりたい人を包み込む。「島のお父さん」、田中政利さんって何者!?
2020.08.04 UP

愛媛県・忽那諸島に関わりたい人を包み込む。「島のお父さん」、田中政利さんって何者!?

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※本記事は雑誌ソトコト2018年2月号の内容を掲載しています。記載されている内容は発刊当時の情報です。本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

愛媛県松山市、宿も観光施設もない島を元気にしたいと、個人的に客を招いて、受け入れている人がいる。クローズだった島を開いて人を呼び、関係を続けることで、なにが生まれ、なにが変わるのか?  そして受け入れる側の思いとは。

この島には人を惹きつける「何か」がある。

 島へ行くにはそこへ行くための「理由」や「きっかけ」がなければなかなか足を運べないけれど、「一度、私の島に来てみてくださいよ」と出会った人に熱心に声をかける田中政利さんのような存在がいれば、話は別だ。愛媛県松山市、瀬戸内海に浮かぶ忽那諸島の怒和島在住。『まつやま里島ツーリズム連絡協議会』の会長を務める田中さんは「島はもっと多くの土地や人とつながるべきである」という強い意志をもって島を開いている。

 実際、年間で約150人近くもが田中さんを頼って怒和島を訪れる。島に宿はないので、泊まるのは田中さんが管理している「電気の家」という名前の一軒家。そこで奥さん、祝子さんが海産物をふんだんに使った島の日常料理を振る舞ってくれるからたまらない。

料理上手のお母さん、田中祝子さん。

 松山の高浜港を出航した船が怒和島に到着したお昼前、挨拶もそこそこに「まずは昼にしましょう」と案内された庭先のテーブルには、ハマチの刺し身がどどーんと並んでいた。この日は我々『ソトコト』取材3人のほかに、愛媛と東京から来た家族と友人が5人、さらには夕方もう1人、常連の女性がやってくるという。促されるがままに食べると、ハマチの身が口の中で弾ける。島の豊かな食に早くもやられてしまった。

昼食にはイカの煮付け、ひじきのサラダなど、祝子さんの手作り料理が並んだ。

 食後は島内観光へ。車を止めて、「ここはおもしろいところでねぇ……」と解説をしてくれる。「目の前は国際航路。我々はね、こういうところから世界観をつくってきたんです」。田中さんは海の彼方を見て言った。

島に再び来てくれるのが、なによりうれしい。

 有人9島で構成される忽那諸島の全人口は約5000人。松山市に比較的に近い興居島、中島に8割が暮らしている。約350人が暮らす怒和島の主な産業は漁業とみかん栽培だ。観光地要素のない島に、田中さんは昔から知人や友人を呼んでいたが、呼び込む勢いが加速したのは、2013年のこと。東京・丸の内で開催された「丸の内朝大学/ニッポン再発見クラス忽那諸島へ島留学!編」という全4回の講座に、当時『松山離島振興協会』の会長だった田中さんが講師として参加してからだ。東京で働く若人が、島の暮らしに感動している。そんな姿を見て、「島には我々が知らないパワーがあるのかもしれない」と感じ、もっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになった。また、この出会いをきっかけに島に通い続ける女性が4人いる。田中さんが「忽那ガールズ」と呼ぶ彼女たちは、島へとゆるく通い続けるかたわら、忽那諸島のPR活動をマイペースで行っている。

約150人が暮らす上怒和集落を見下ろす。

「東京のど真ん中に住んで仕事をしていながら、島のことをこよなく愛してくれている。彼女たちと関係し続けることで、なにかが生まれるかもしれないという思いもある。でも、なにより喜んで島へ『帰って』きてくれるのがうれしいんです」。少し照れながらも、田中さんはよどみなく話す。

ハードだけでなく、つながりをつくること。

 田中さんが島を開いて人を呼びよせるきっかけとなった場所があるというので連れていってもらった。集落を見渡す小高い丘の上へと続く道を上りきると、田中さんは話し始めた。周囲はみかん畑に囲まれ、目の前は海、後ろにはトンネルがある。

「この道はね、島民の悲願でつくったんです。島になにもなかった時代、道や港をつくることが島を豊かにすると思っていたので、実現のため奔走しました。ところがいつの間にか、小学校が2学年一緒に授業を行う複式学級になっていました。島から若者が消えていたんです。愕然としましたよ。私がこれまで島のためだと思ってやっていたことはなんだったんだろうって」

 そのとき思い至ったのが、「必要なのはハードを整えるだけではなく、つながりをつくる」こと。その思いの背景には、田中さんの青年時代の出会いが影響している。松山の農業高校を卒業後、農業研究生として渡米した田中さんは、1年間、カリフォルニアで暮らしたことで広い視野を獲得するとともに、日本全国からやってきた研修生たちと強固なネットワークを築いた。帰国後もその関係は続き、新しいことを始めるたびに仲間たちが協力してくれた。そんな経験からも、島を開いてネットワークを持ち続ける選択をしたのだ。

 けれども田中さんのそうした行動は、島の人たちにとって奇怪に映ることもある。客を釣り場へと連れていく遊漁船を兄弟で営む大石聡さんは「あん人のことはまったくわからん。どうして無償であそこまでできるのか」と笑う。とはいえ、そんな聡さんも、後輩の漁師たちが魚を買い叩かれて泣いているのを見て、外に向けた活動を始めた。

「このあたりは釣り人たちが憧れるハマチの漁場。ものすごいポテンシャルがある漁場であるのに魚の値段は下がるばかり」。それが悔しくてどうにか魚をブランド化できないかと奮闘している。こうした行動は田中さんからは影響を受けていないとはいうものの、自分も人のために無償で動いていることに、島の人の愛情深さと新しい風を感じてしまう。

みかんの島とも呼ばれる忽那諸島。

 隣の中島でみかん農家を営む雅直さんは、事務局長を務める『松山離島振興協会』で、長年田中さんと行動をともにしてきた。「島の人はクローズだから、長い時間をかけないと親密な関係を結びづらいけれど、島に人が来ることはうれしいこと。島々が、そして外と島が今のように繋がっているのは、間違いなく田中さんの存在が大きいと思う」。

諦めないためにパイプだけは持ち続ける。

 島に人を呼ぶことで、少しずつではあるけれど忽那諸島のことが発信されている。「でもね、忽那ガールズが来てくれたって問題が解決しないことはわかっているのよ」と田中さんはいう。

「電気の家」の庭には、いつでも客人をもてなすことができるように、大きなテーブルと椅子、さらにはピザ窯が設置されている。

「この島に必要なことは、自信をもった若者を残すことだけれど、我々が抱えている課題はすぐに解決できるほど簡単ではない。だからといって、諦めてはいけない。パイプだけはもっておいて、いずれ必要になったときに力を借りればいい。焦ってはいけない、ゆっくりでいい。だけど絶対に閉じてはいけない。そして求めすぎてもいけない。ネットワークは持ち続けると自分に言い聞かせています」という田中さんは、スマホを使いこなし、島に来てくれた人や、島に興味を持ってくれた人たちと、電話やLINEで連絡を取り合っている。「こういう人間のつくった素晴らしいシステムを使わない手はない。わしはスーパーじじいになるんじゃ」といって笑う御歳71歳の田中さんを介して、今日もまた島に客が訪れる。田中さんと怒和島、そして忽那諸島のファンは、これからもどんどん増えていきそうだ。

photographs by Yuki Inui
text by Kaya Okada