全国各地で食の大切さを伝えるおむすび屋さん。 拒食症を乗り越え見つけた、私らしい生き方。
2020.08.11 UP

連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶーローカルプレイヤーの働き方とは | 9 全国各地で食の大切さを伝えるおむすび屋さん。 拒食症を乗り越え見つけた、私らしい生き方。

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食の大切さや楽しさを伝えることを軸に「旅するおむすび屋さん」として全国で活動しながら、日本全国の食に関わるクラウドファンディングプロジェクトの支援を行う菅本さん。人付き合いに悩み、拒食症になった苦しみを乗り越え見つけた自分とは。お話を伺いました。

人とうまく付き合えない

福岡県北九州市で、4人兄弟の長女として生まれました。小さい頃から、母に「人にされて嫌なことは、絶対にしちゃいけない」と教えられて育ちました。人懐っこい子どもでしたが、母の教えをきちんと理解できていなくて、過剰に気を遣うようになりました。

幼稚園に入った頃から、自分の思ったことを口に出すと、相手を否定しているみたいに感じるようになりました。「相手に優しくしなきゃ」と思いすぎて、友達とどう接したらいいのか分かりません。小学校に入ってもそれは続いて、気を遣いすぎて友達とうまく付き合えませんでした。

学校外のキャンプや合宿などに参加すれば、普通にコミュニケーションを取れましたが、学校の友達付き合いはどうしてもうまくいきません。中学生になっても、状況は変わりませんでした。

クラスでも、入部したバレー部内でもいじめがあったので、余計に居心地が悪くなりました。直接ターゲットにされることはありませんでしたが、いじめている子の顔色を伺い、いじめられている子に何も言えない自分が嫌いでした。優しくも正しくもない自分に自信が持てないし、特に仲のいい友達もできない。居場所がわかりませんでした。

そんな調子で過ごしていた中学2年生の時、「ちょっと香菜、足太くなってきたんやない?」と言われたことがあったんです。それまでは「細いね」と言われることが多くて、痩せていることが数少ない自信でした。それなのに「太った」と言われたことがすごく衝撃でした。数少ない自信があるものを失ってはいけない。そう思い、ダイエットすることにしました。

毎日体重計に乗ると、体重が減るのが数字として目に見えてきます。自分の努力が結果に繋がっているとわかり、自信になりました。数字に固執するようになり、食べる量がどんどん減りました。そのうち食べることが怖くなって、気がついた時にはほとんど何も食べられませんでした。拒食症になっていたんです。

両親に食べるように言われても無理で、食卓を囲むのが嫌でたまりませんでした。学校には居場所がないし、家族にもただ迷惑をかけるだけ。自分の存在価値が見出せませんでした。

病院に連れていかれた時、158センチの身長に対し、体重は23キロ。いつ死んでもおかしくない状態と医者に言われ、入院することになりました。正直ほっとしました。これで学校に行かなくてもいいし、家にもいなくていい。入院できることが嬉しかったです。

4カ月間の入院生活で、無理やり食べさせられて、少しだけ体重が戻りました。ただ、拒食症は完治していなかったですし、退院して高校に進学してからも、人とうまく付き合えない状況は変わりませんでした。見た目はガリガリで周りから浮いていたし、自分から積極的に近づくこともできませんでした。

高校2年の時に拒食症がぶり返し、休学しました。心療内科に通いながら、ずっと自宅で休んでいました。食べたいのに食べられないのが苦しいし、食べることができても太る恐怖から、食べたことを後悔して苦しくなる。何をしても罪悪感があり、ずっと自分を責めていました。一生治る気がしなかったです。

コンプレックスと共に消えた拒食症

それでもなんとか、1年間で復学しました。留年となり、1学年下の子たちと同じクラスになりました。年下の子とうまくやれるか不安でしたが、ひとりの女の子と仲良くなれました。クラスの人気者でしたが、私にも話しかけてくれて。話をするうちに分かり合える部分が見つかり、一緒に遊びに行くような関係になりました。

それまで、人と一緒に食事をするのがつらかったんですが、その子は私が食べられなくても、食卓で一緒に過ごす時間を楽しんでくれました。久しぶりに「食卓を囲んでもいいんだ」と安心感を覚えたんです。

その子との時間をもっと楽しくするために何ができるか考え始めてから、少しずつ食べられるようになりました。仲のいい友達ができて、当たり前に「ここにいていいんだ」と思えることで、だんだんと症状が良くなりました。そのまま回復に向かい、熊本の大学に進学しました。

大学に入ると、「あんなに悩んでいたのはなんだったんだろう」と感じるくらい、友達と普通に仲良くできました。クラスや部活などの狭い世界で生きていた中高生のころと違い、大学ではいろいろな人と出会う機会があり、いじめもありませんでした。周囲の人に気を遣い過ぎることなく、自然に接することができたんです。すると、自分でもびっくりするほどあっけなく拒食症が完治しました。

その時、拒食症を言い訳にバリアを張っていた自分に気づきました。人付き合いが苦手な自分と向き合うことができないから、「拒食症だから仕方ない」と言い訳することで、自分のプライドを守っていたんですね。友達ができてコンプレックスが解消されたので、病気がいらなくなったんです。

大学は楽しくて、勉強も頑張りましたし、サークルではみんなでわいわい騒いでいました。ただ、拒食症だったことはカミングアウトできませんでした。過去の自分がコンプレックスで、自信がないままだったんです。みんなが当たり前のように過ごしてきた学校生活でつまずいた私には何もできないと感じ、新しいことに挑戦する一歩が踏み出せませんでした。

一歩踏み出せば世界は変わる

大学1年生の終わりに、東日本大震災が発生し、多くの命が失われるのをニュースで見ました。さらにその10日後、母がくも膜下出血で倒れ、危篤になりました。その時、自分が生きてるのって当たり前じゃなかったなと思い出しました。

災害や病気で、命が突然失われてしまうこともある。私も極限まで体重が落ちた時、いつ死んでもおかしくないと言われました。せっかく生きられたのに最初から無理だと決めつけ、いろんなことを諦めてしまうのはもったいないし、命に対して不誠実ではないか。自分のやりたいことを、ちゃんとやろうと決めました。

それで、母の看病が一段落した後は、まず、震災復興支援のインターンシップに積極的に取り組みました。自分には無理だと思っていたことも、やってみると意外とできたんです。そこから、活動の幅も人との繋がりも広がり、将来を真剣に語り合える友人が増えました。

次第に、拒食症だった6年間のことも話せるようになりました。話を聞いた友人からは「拒食症を経験したからこそできることがあるんじゃない?」と言われました。その言葉にハッとして、食の分野に関する仕事がしたいと思うようになりました。

ただ、食の大切さを伝える仕事といっても、どの職種で実現できるのかわかりませんでした。自分の中で伝えたいことがぼやっとしていたんです。そこで、伝えたいことが明確になったとき、ちゃんと人に伝えられるように営業力を身につけることにして、不動産会社でマンション販売の仕事を始めました。

飛び込み営業やテレアポを繰り返し、ものの売り方を勉強できました。ただ、マンションへの愛着がなかなか湧かず、自分が好きで誇りに思えるものを売りたいという気持ちが強くなり、本来やりたかった食の仕事を探すことにしました。

折よく、熊本の知人から一緒に会社をつくろうと誘われ、事業の一つとして『食べる通信』の熊本版をつくることになりました。『食べる通信』は、農家や漁師など「食のつくり手」を特集した冊子と、彼らが収穫した食べものがセットで定期的に届く「食べもの付き情報誌」で、各地域で別々の会社が運営しています。

取材を通して食の面白さを知ったり、農家と生産者をつなげることの意義を感じたりして、やりたかった食の仕事に関われる充実感がありましたね。

旅するおむすび屋さん、誕生

『くまもと食べる通信』の購読者は、もともと食に対する意識が高くて食事にこだわる余裕がある人たちがほとんどでした。そういう人たちを対象にしていくことも、とても意義があることだと思いましたが、たまにジレンマを感じることもありました。食に対して関心が薄い人や、興味があっても忙しくて健康的な食事ができていない人にも、もっと食の大切さを伝え、日々の食事を楽しめるきっかけをつくりたいと思ったんです。それを実現するためにどんな方法が一番良いのか、考えるようになりました。

そんな時、クラウドファンディングを運営している会社の代表から、ローカル・フード担当として働かないかと誘われました。日本全国で、地域や食に関わるものをメインに、プロジェクトの立ち上げ支援をする仕事です。クラウドファンディングは、挑戦する人を応援するサービス。以前の私のように、どうせ無理だと思っている人の背中を押せることに魅力を感じました。また、食の大切さを伝えるための新しい方法を見つけられるかもしれないと考え、転職することにしました。

その後、本社のある東京を拠点に、様々な地域を飛び回ってプロジェクトを支援しました。どのプロジェクトにも人の想いがあり、やりがいを持って取り組むことができました。

ある日、知人から、私に絶対に合いそうな人がいるからと、新潟の米屋で働く女性を紹介されました。彼女が東京に来るタイミングに合わせて、30分だけバスターミナルで会うことになりました。

話してみると、「生産者の思いや地域の魅力を届けたい」という気持ちがバッチリ合い、あっという間に意気投合したんです。彼女は米屋で米の生産者に詳しく、私は『食べる通信』を作っていた頃に海苔漁師を取材していたので、「米と海苔でおむすびだね」なんて話していたら、「これ面白い」とピンときました。

おむすびなら、多くの人が食べたことがあって親しみやすい。食に対するハードルを下げて、食の大切さや楽しさを伝えられるんじゃないかと思ったんです。バスターミナルでの30分で、お互い探していたものを見つけてしまった感覚でした。

東京と新潟で距離はありましたが、翌週に再会して活動内容を具体的にし、翌月にはおむすびのワークショップを開きました。地元の食材を使っておむすびを作りながら、生産者や食材の良さを伝えるワークショップです。一家族に向けた小規模のワークショップでしたが、食卓がにぎやかで楽しくなり、これからもこういう時間を作っていきたいと感じました。

そこからは早かったですね。自分でもクラウドファンディングを使って開業資金を集めて、「旅するおむすび屋さん」をスタートさせました。

菅本香菜として生きる

現在は、全国の食に関わるクラウドファンディングプロジェクトの支援をしながら、休日を使って「旅するおむすび屋さん」の活動をしています。クラウドファンディングのプロジェクトをサポートした方の紹介でワークショップをやらせてもらったり、その逆もあったりして、人との繋がりで活動が広がっています。

「旅するおむすび屋さん」では、おむすびワークショップを各地域で展開するほか、生産者を訪ねて、食材がどうやって作られているのか教えてもらう「おむすびツアー」も開催しています。作り手の情報を知ることや、おむすびをつくる体験を通して、生産者のこだわりや地域ごとの食材の特徴の違い、食べることの楽しさを伝えていきたいと思います。おむすびを「結ぶ」ことで、地域と人との縁も結んでほしいです。

また、生産者と一緒に商品開発も行っています。今開発しているのは、地域や漁師の個性による味の違いを楽しんでもらえる海苔です。今後、シリーズ化する予定です。生産者の想いをどうすれば食卓に届けられるかも一緒に考えていますね。いずれは海苔だけでなく、ほかの食材も扱いたいです。

これからも、食に関する楽しい取り組みや、生産者の面白い情報を届けることで、たくさんの人が食に対して興味を持つきっかけを作りたいと思っています。

拒食症だった時期、自分が存在していいのか6年間悩み続けたからこそ、何かを発信することで「あなたがいてよかった」と思ってもらえることがうれしいんです。苦しかった6年間が報われるように感じています。

クラウドファンディングで一歩踏み出す人を支援し、「旅するおむすび屋さん」で食の大切さを発信することで、6年間を支えてくれた人たち、そして病気を乗り越えてくれたかつての自分に「生きていてよかった」と胸を張って言える自分でありたいと思っています。まだまだ迷うことも多いですが、この想いはブラさずに、これからも菅本香菜としての物語を生きていきます。
 

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another lie.」からのコンテンツ提供でお届けしています。

キーワード

菅本 香菜

すがもと・かな|食の大切さを発信する
1991年、福岡県北九州市出身。熊本大学卒業後、不動産会社での営業を経て、食べものつき情報誌『くまもと食べる通信』の副編集長として活動。熊本震災後に上京し株式会社CAMPFIREに転職、LOCAL・FOOD担当として全国各地のクラウドファンディングプロジェクトをサポートしながら日本の魅力発信に努める。本業の傍ら2017年5月に、『旅するおむすび屋』を立ち上げた。2019年3月に独立。フリーランスとして、食に関わるイベント企画・運営、食材のPR、ライター、クラウドファンディングサポート等を手がける。