2万年前、神津島は黒潮文化圏の中心だった
2019.06.29 UP

2万年前、神津島は黒潮文化圏の中心だった

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月刊『ソトコト』は世界初(?)の環境ライフスタイルマガジンとして1999年5月に創刊され、このたび20周年を迎えました。最新号の2019年7月号は東京ローカル特集「東京を泳ぐ」ですが、奇しくも、創刊から1年後の2000年6月号も東京ローカル特集「週末は東京セブンアイランズ(旧名 伊豆七島)」でした。今回は、そのなかから「神津島」の章をご紹介します。

神々が集う島「上津島=神津島」は、
また巨石時代の勇敢な船乗りたちの集う場所だった。
当時のハイテクパーツである黒曜石を求めるため、
丸木舟や筏という粗末な舟で外洋にこぎ出した我らの祖先は、
紛れもなく海の民であったはずだ。

神津島の中央には、天上山という標高574mの山が鎮座している。574mというと東京都民のピクニックコース高尾山よりも低いが、島で見る574mは内陸の1000m超級の山に見える。とにかく、神々しいというか。それもそのはず、『三宅記』によると、伊豆諸島の神々が水分け会議をこの天上山で行なったという場所である。近くで見ると、いかにも神様達が集まった場所という気がしてくる。神津島は離島としてはめずらしく、水の豊かな島である。水が旨いのだ。水分け会議とは、神津島の豊かな水を他の島にも分けましょう、という風に読み取れる。

この神津島、水のほかにも豊富に採れるものがあった。旧石器時代、我らの祖先はそれを求めて舟でこの島を訪れていたのである。約2万年前、海面は今よりも100mも低かったというが、それでも約30kmの距離の外洋航海が必要になってくる。彼らは、何のためにそんな航海をしていたのだろうか。

時代を大きく手前に引き寄せてみる。司馬遼太郎の『菜の花の沖』では、江戸時代後期の沿岸航海の事情が語られているが、陸を見ながら神戸から東京へ航海するのも小さな和船では、決死の思いだったことがわかる。少し航路をはずれると、黒瀬川(黒潮の異名)に巻き込まれ、三宅島あるいは父島にまで漂流(離島にたどり着くのはよほど運のいい船乗りだ)した事実も各島の歴史として伝えられている。とにかく、黒潮の流れは圧倒的で、小さな和船では抵抗しようもなかったのだ。江戸幕府が、鎖国を制度化し和船の大きさを制限した結果だ。

余談だが、室町から安土桃山時代にかけて、日本は貿易に熱心で、はるか東南アジアにまで船を送り込んでいた。あのまま、足利や織田、豊臣のいずれかが政権を握り続けていれば、いや徳川でも鎖国さえしなければ、日本は大航海時代を西洋列強と争っていたのではないかと、思えるのだ。そうなると、ちょんまげ、和服のまま日本は近代化したのではないかと密かにありえなかった歴史を思うことがある。ともあれ、鎖国前には、日本の航海術や船舶製造技術はかなりのレベルに達していたと考えられる。

話を旧石器時代に戻そう。我らの遠い先祖は、和船どころか、丸木をくりぬいたような原始的な船で、伊豆から神津島まで航海をしていた。時代が少し(といっても1万年以上だが)下って、縄文時代になると黒潮を越えて八丈島まで航海をしていたらしいのである。彼らの底知れぬ勇気を思わずにはいられないが、彼らが何のために命の危険も顧みず海を渡ったのか。それは黒曜石の交易である。

黒曜石は、天然の火山ガラスで、割った断面はきらきらと輝いている。鹿の角のようなもので剥離していくと、鋭利な刃部になり、や槍の穂先である尖頭器に加工されていた。実用品であると同時に、旧石器時代の彼らにとっては、きらきら輝く宝物であったと考えられる。

日本では、北海道、長野、大分などが産地として知られているが、伊豆諸島の神津島でも良質の黒曜石が産出されており、それが本州各地の遺跡で発見されているのである。つなり、わざわざ船で命を危険にさらしながら神津島から黒曜石を運んでいたのである。旧大陸、つまりヨーロッパでは海上交通は新石器時代に入ってからで、ましてや外洋公開の船が登場するのは、しばらく後のことである。日本の旧石器人は世界に先駆けて、目視できる島とはいえ、外洋航海を実現していたことになる。

伊豆半島、河津の段間遺跡には、19kgもの神津島産の原石が発見されているところから、このあたりが神津島の黒曜石の集積所で、ここから、陸上を運べる重さに加工してから、全国に配信していたのではないかと考えられている。海上交通は、一歩間違えば、命を危険にさらすことにはなるが、陸上では運ぶことのできない重さの原石を容易く運ぶことができたのではないか。

神津島で良質の黒曜石が採れるのは、神津島の南西に位置する無人島恩馳島だ。現在では、海中に潜らなければ採集できないが、2万年前は最終氷河期の最寒冷期に当たり、海面は100m低下していたとされるので、丘の上で採り放題だったということになる。日本各地で発見されているのは、この恩馳島の黒曜石だ。もちろん、海面が100mも低下していたのであれば、当時は恩馳島も神津島とくっついていたはずだが。

現在の神津島本島にも、砂糠崎、鏡穴といった東側の断崖に帯状に黒曜石が露出している露頭が見られるが、こちらのほうは白い斑点が入る、いわば純度の低い黒曜石だ。掘り出すことが難しかったこともあるだろうが、流通することはなかった。だが、延々と続く黒曜石の露頭を見ていると、いかにこの島が黒曜石だらけの島だったことが窺い知れるのである。

黒曜石で島おこし再び、に疾走するアイランダー

デジタル工房櫂を主催する河合健一さんは黒曜石を軸にした神津島の島おこしを図ろうとしている。ひとつには、黒曜石を使ったさまざまなグッズ制作などを手掛ける予定だ。白い点の入った黒曜石は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にも登場し、賢治によって銀河にたとえられているという。

また、旧石器時代の神津島の役割を討議するシンポジウムなども企画中だ。11月に開催予定なのだが、遠地交流事業の一環として、伊豆諸島外の、奄美、沖縄、八重山諸島との交流、あるいは遠くマリアナ諸島までを視点に捉えた黒潮文化圏全体の理解を深めていこうという意味も込められているようだ。社名の「櫂」にちなんで、河合さんはかつて漁船に使われていた巨大な「櫓」を看板に使うという。かつての底知れぬ勇気を持って外洋に飛び出していった我らの祖先に対する遥かなるリスペクトが、その「櫓」に込められているのではないだろうか。

ソトコト 2000年6月号
ソトコト 2000年6月号

 

Photographs:Tadashi Okakura
Text:Hisato katoh
Map Illustration:Takashi Itoh
取材協力=東京汽船
(いずれも2000年6月号記事部分)

本記事は雑誌ソトコト2000年6月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。