ニューアイテム、老眼鏡 ー標本バカ 第七十四話
2019.07.08 UP

ニューアイテム、老眼鏡 ー標本バカ 第七十四話

DIVERSITY

眼鏡愛用家の妻は、「買おうよ、買おうよ」とニコニコしながら迫ってくる。

僕はこれまで眼鏡というものに縁がない人間だった。視力は子どものころから今に至るまで1.5程度で、何しろよく見える。生き物の研究をするものとして、これはありがたい性質で、特にモグラのような小型の頭骨標本などを作製したり、観察したりという場面では助けとなるのである。ところが40歳を過ぎたころから、だんだんと近くのものが見えづらくなってきた。恐るべし、老眼というやつであろう。こういう性質は遺伝する形質と思われ、僕の父もずっと目がよい人だったが、やはり40代から老眼鏡をかけるようになった。血は争えぬ。

それでも何とか手探り、とまではいかないが、ぼやけてかすんだ近くの視界で、小型動物の毛皮を剥いたり、あるいは小さなラベルの紙片に細かい文字で個体情報を記入したりと頑張っていた。若いころは「モグラの皮剥きなんて、眼をつむってでもできるぜ」と自慢げに話していたものだが、そんなことはできるわけがないことに気づいた。ラベルには6ミリ程度の罫線が引かれており、そのスペースに0.03ミリのペンで情報を書いていく。数字などは問題ないのだが、例えば「轟」とか「龍」とかいう画数の多い文字を含む地名が日本にはたくさんあり、それらをこの欄に収まるように記入するには、かなりの目力が必要である。採集者の欄に自分の名前の「郎」を書くのすらわりと大変で、はみ出してしまう。

知人にこの話をすると、いろいろと便利な眼鏡を紹介された。「老眼鏡はまだまだ、針に糸が通せるかぎりは」と否定し続けていたのであるが、最近いよいよ仮剥製づくりの際の裁縫がおぼつかなくなってきた。潮時かもしれない。眼鏡愛用家の妻は、「買おうよ、買おうよ」とニコニコしながら迫ってくる。どうやら仲間にしたいらしい。家族で眼鏡屋さんへ行くこととなった。

実は眼鏡について、僕には憧れがあり、るべき老眼時代にはジョン・レノンのような正円形の眼鏡を着用し、時には首から下げて標本の作製作業を遂行するのを美と考えていた。目当てのフレームを発見して、試しにかけて鏡に向かってうっとりしていたら、妻は丸眼鏡など恥ずかしいと否定する。先輩の意見には素直に妥協して、やや丸めの物を選ぶことにした。レンズの調整のために行った検査では、視界にある一番細かい文字が読めて、店員から「素晴らしい視力」と絶賛されて、苦笑。1週間程度で僕の老眼にぴったりな眼鏡を手に入れることができた。

早速着用して標本の作製作業を行ったところ、何と素晴らしいことだろう。見える、見える。横棒が縦に15本も並ぶような「轟」でさえ、重なることなく6ミリ高のスペースに収まるではないか。毛皮を剥く作業でも、極めて正確に狙った場所に刃物が届く。最近は勘に頼っていた針の糸通しも一発だ。これほどまでに作業に役立つアイテムだとは思っていなかった。そして改めて鏡で眼鏡姿の自分を見てみると、45歳にしてようやく知的な大人になれたような気分である。こうして老眼鏡は僕の一部となり、これからはこのレンズを通して、たくさんの標本が生産されていくことになるであろう。

文●川田伸一郎
illustration by Fumihiko Asano

本記事は雑誌ソトコト2018年6月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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川田伸一郎

かわだ・しんいちろう
1973年、岡山県生まれ。農学博士。国立科学博物館動物研究部研究員。2019年3月から6月まで同博物館で開催される「大哺乳類展2」の企画も担当。著書に『モグラ博士のモグラの話』『モグラ-見えないものへの探求心-』など。