20〜30代で重ねた経験と人との出会いが財産に
「自分がいつも笑っていて、人も笑わせるのが人生のテーマ」と話す通り、快活な笑顔が印象的で、コミュニケーション力の高さが人をひきつける、関屋英二さん。その人間的な魅力が評価され、20代は外食産業や通販企業、営業職、イベントプランナーなど様々な業種で経験を積む。
関屋英二さん(以下関屋さん)「その頃はとにかく何でもやってみようと。7~8社は転職したと思いますね。いろんな業界の方から誘っていただきました。声がデカいのもあったのかな(笑)」
チャレンジ精神で進み続けた20代を経て、2003年、33歳で福岡市の広告企画会社に営業職で入社し、自治体や行政などをクライアントに、地域創生や町づくりに関わるさまざまな企画を提案。2010年からは同社から「佐賀県立宇宙科学館《ゆめぎんが》」に出向し、家族で佐賀県武雄市に移住。広報営業課長としてプロモーション業務に携わる。
48歳で脱サラ。成長した息子にどんな背中を見せたいかを考えた
2017年3月までで《ゆめぎんが》への出向を終え、福岡市内の会社へ戻ることになったのが47歳。このまま広告畑で働き続けることも考えたが、関屋さんは退職を決意する。
関屋さん「44歳の時に息子が生まれたんですが、自分が60歳で定年するとしたら、そのとき息子はまだ15、6歳。まだ学費もかかるし、正直、60を超えた後、自分がクリエイティブやマーケティングの分野で、若い感性と互角の勝負ができるだろうかと。それで、自分がずっとやってみたかったことを始めるなら、今かもしれないと思いました」
行橋へ移住しハワイ料理店の開業準備。しかし自身の人脈はゼロ
2018年8月に退職し、行橋市に引っ越して妻の実家で同居することに。妻が一人っ子ということもあり、いずれ行橋に住むことは結婚前から話していたという。
関屋さん「それに息子はまだ就学前でしたし、転校などをしなくて済むタイミングということもあって。行橋に自分自身の友人知人は全くいませんが、なにより妻の両親がいますので、子育てでとても助けてもらっています」
関屋さん自身にとっては新天地となる行橋で、なぜハワイ料理店をしようと思ったのか。理由は単純明快、「ハワイが好きすぎた」から。
関屋さん「初めてハワイに行ったのは20代後半。当時務めていた会社の旅行ですごくいいところだなと。その後、妻との新婚旅行でも訪れたんですが、この時に感じた流れる空気感や香り、なにより地元の人々の温かさや優しさがずっと脳裏に焼き付いていて、ハワイが大好きになりました。そこから、いつかはハワイに関わることをしたいなという思いはずっと持ち続けてましたね」
新婚旅行が初めての海外渡航だった妻が、バスの乗り方からメジャーな観光地以外のコアなスポットまで入念な下調べをしており、とても充実した旅だったそうだ。この新婚旅行から20年、トータルで10回はハワイを訪れているという。
関屋さん「退職した後、行橋でガーリックシュリンプを出す店をしようと思ってはいました。とはいえ人脈もない場所での開業ですから、退職後しばらくは、自分の考えを咀嚼する時間にあてましたね。これまで経験してきた様々な業界でお世話になった方々に会いに行っては話を聞いたり、異業種交流会にも積極的に参加しました」
これまで培った“人との絆”を生かして経営者や飲食業の先輩にも意見をもらいながら、考えの裏付けをし、開業への自信に繋げたという。
具体的な開業準備に入ってからもビジネス上のツテがないことでの苦労は多々あったが、物件探しには市内各所を自分の足で行って見て回ったおかげで、行橋市役所前という好立地に出会う。そして開業前月にはハワイに出向き、仕入れや最新情報の入手などを経て、2019年8月に「ハレイワキッチン」をオープンさせた。
前職は広告会社勤務だった関屋さん、料理はもともと好きでやっていたそうだが、話を聞くと“趣味“の範疇を超えていた。幼少期から料理に興味を持ち、小遣いを貯めては料理本を買うほどだったそうで、店で提供しているガーリックシュリンプの味も、実は準備期間の1年で仕上げたものではない。
関屋さん「ハワイに行くたびに20軒ほどある専門店を食べ歩いては、日本に帰って作ってみる、を繰り返してました」
こちらも実に20年に渡る試行錯誤を繰り返して生み出された味なのだ。
写真:関屋英二、角谷英彦、@shu_photrip、福岡県観光連盟
文:西紀子