廃校から生まれた「学校蔵」。
「日本一夕日がきれいな小学校」と謳われていた、新潟県佐渡市の旧・西三川小学校。少子化の影響により、2010年に惜しまれつつ廃校したこの小学校は、その4年後、日本酒を醸造する「学校蔵」として生まれ変わった。
そのスタート以来さまざまなメディアにも取り上げられてきた「学校蔵」。いまもなお注目を集め続けるのは、ここで作られる日本酒の品質の高さや廃校を再生したというストーリーはもちろん、この場所を起点にして、地域の未来をつくる取り組みが次々と行われているからでもある。
廃校になった小学校を酒蔵に再生させたのはなぜだったのか。そして、老舗の酒蔵が、地域づくりに関わる理由とは? 尾畑酒造5代目蔵元の尾畑留美子さんに話を聞かせてもらった。
小さいころは、佐渡が嫌いだった。
尾畑さんが家業を継いだのは、29歳のとき。蔵元の次女として生まれ、幼いころから日本酒蔵とともに育ったが、それまで家業を継ぐ気はまったくなかったと振り返る。
尾畑さん「私は小さいときは佐渡が嫌いで、『こんなところ出てってやる』と思ってました。佐渡という島に押し込められているような気がして、『もっと大きな世界に飛び出していきたい』という欲望がものすごくありましたね。将来はジャーナリストになって世界を紹介する仕事がしたいと思っていたのですが、結果的に東京の映画会社に入社。しばらく家業を継ぐつもりもありませんでした」
しかし、4代目蔵元の父・俊一さんが病気で入院したことをきっかけに、自分の“死”を意識するようになる。「人生最後の日に何をしたいだろう?」。そんなことを考え始めたときに思い出したのは、幼いころに遊んでいた暗くて小さな仕込み蔵のことだった。
最後は、あの蔵に戻ってお酒を飲みたい――そんな思いに至ると、突然、実家の蔵のことが気になりだした。毎日考えを巡らせているうちに「自分で蔵をやったほうが早い」と思い立ち、帰郷を決意。それから半年後には勤めていた会社を辞め、故郷の佐渡へUターンした。
そうして家業を継ぐ覚悟を決め、意気込んで佐渡へ戻ってきた尾畑さんだったが、それから5年間は何ひとつうまくいかない日々が続いたという。
尾畑さん「佐渡で酒造りをするということは“一生佐渡にいる”ということですから、それ相応の覚悟を持って帰ってきました。だから、いつまでも嫌いな佐渡じゃ困るのよ、と思って、じゃあ自分が佐渡を変えよう!と非常に意気込んで帰ったわけです。なんだけれども、やることなすこと何もうまくいかなくて。ほんと5年間、なんにも変えられなかったんですね。佐渡を変えるどころか、自分の会社も変えられないやっていう状態で、当時一緒に佐渡へ来てくれた旦那さんにも『東京に戻ろうよ』と弱音を吐いていました」
しかし、そんな尾畑さんを変えたのは、ご主人で社長の平島健さんの一言だった。
尾畑さん「ちょうど5年経ったころ、いつまでもウジウジそんなことを言ってる私に対して、旦那さんから『いま戻ったら負け犬になるよ』って言われて。それを聞いた瞬間に『あ、この人帰るつもりないんだ』と。旦那さんは東京の出身で、初めは“たびんもん”(“よそ者”の意味)と言われたりして私よりよっぽど大変だったはずのに、帰らないんだ、と。そう思ったときに、改めて自分の覚悟も決まったんですよね」
「いきがっていた自分を変えたら、佐渡が教えてくれた」
そこで再び覚悟を決めた尾畑さんは「佐渡も会社も変えられないけど、まだひとつだけ変えられるものがある。自分だ」と思い立ち、自らの行動を変えていく。蔵の外へ出るようになり、それまでなかなかうまくいかなかった海外輸出も徐々に販路を拡大。アクションひとつひとつが変わっていくと、少しずつ結果も出始めた。
そんななかで、2007年に世界的に最も権威のあるワインのコンペティション「International Wine Challenge」のSAKE(日本酒)部門で、尾畑酒造の「真野鶴・万穂」が金賞を受賞。イギリス・ロンドンで行われた授賞式では、各地の日本酒がもつ個性豊かな味わいを目の当たりにし、それまで品質やスペックばかり重視してきた考え方を改めることになる。
尾畑さん「それまでは『うちのお酒の品質はこんなに高いんですよ』とか『こんなにお米を磨いたんですよ』っていうスペックを語ってたんですよね。でも授賞式で感じたのは、品質を超える個性でした。たとえば、すごく良い子がいたら『ああ、この子はどんなおうちで育ったのかな』って思うじゃないですか。優しいご両親で、自然豊かなところに育ったのかなあ、みたいな。そんな想像力を掻き立てられるお酒ばっかりが並んでいて、そのときに『大事なのは、お酒の個性を生み出す環境や生産地の物語なんだ』とやっと気がついたんです」
そこから、酒造りの三大要素と言われる、“米、水、人”に“佐渡”を加え、「四つの宝の和をもって醸す」ことを意味する“四宝和醸”という言葉を作り、尾畑酒造のモットーとして掲げ始めた。すると、今まで見えなかった佐渡の素晴らしさが次々に見えるようになっていったという。
尾畑さん「それからはもう目からウロコというか、『ああ、佐渡って宝の山だったんだ』っていうことがどんどん見えてきました。要するに、それまで『佐渡を変えよう』なんて勘違い甚だしく意気込んで、いきがっていた自分を変えたら、佐渡が教えてくれたんですよね。それからは見るものすべてが宝物だったし、進むべき道が見えてきた。道を進むなかでひとつ階段を登れば景色が変わって、そこでまた新たに見えてくる宝がさらにたくさんあったんです。そしてその先にあったのが『学校蔵』でした」
ここにしかない景色を守りたい。
尾畑さんがそう語る「学校蔵」との出会いもまた、ご主人からの提案が大きな転機となった。
尾畑さん「ちょうど主人が佐渡市のPTA連合会の会長をやっているときに、島内で廃校になる学校を全部視察して回る機会があったんです。そのなかですごく景色のいい学校があって、それが廃校になってしまう、と。そのあと視察からだいぶ経って、彼から『廃校を引き取って酒蔵にしようと思うんだけど、どう思う?』と言われたんです。でも酒蔵をつくるなんてすごく大変だし、酒業界も決して良い状況ではなかったので、最初は反対していました」
しかし、ご主人に連れられ、もうすぐ廃校になるという西三川小学校を見に行くと、反対していた尾畑さんの心は一気に変わったという。
尾畑さん「反対する私に『まあ、とにかく見に行こうよ』と言うので、小学校のある丘の上まで登って連れて行かれたんですね。そこの校庭の上に立って海を眺めたときに、見たことのない絶景が広がっていて、身体中を風が吹き抜けていくような感覚になったんです。もうこれはここにしかない、と。お金では買えないもの。世界のどこを探しても、こんな風景はここにしかないと思ったときに『これはやらねばならぬ』という言葉が出ていました」
とはいえ、もともと設備もまったく整っていない小学校を酒蔵にするのには相当の苦労があったはず。しかし尾畑さん曰く、「やらねばならぬと思ったらあとはやるだけ。前に進むことだけを考えていたので、何が大変だったのかあまり覚えていないんです」と笑う。
それでも具体的な準備には4年以上の長い時間がかかった。オープン前には事前に周辺の住民向けに説明会なども実施し、最初の構想から約6年を経て、2014年に学校蔵はスタートした。
文:Miho Aizaki