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多様性

連載 | 福岡伸一の生命浮遊

フェルメールのレンズ

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 フェルメールの絵に、かくも私が惹かれる理由は、第一に、そこに科学者的なマインドを感じるからである。ありのままの世界をありのままに記述する。できるだけエゴを排し、正確な構図と客観的な細部をもつ。光の配分ですら公平だ。絵の主人公にだけスポットライトが当たることはなく、窓から差し込むわずかなが部屋の中にヴェールのように広がる。一番明るいところは窓の枠であり、部屋の隅はもう暗がりに沈む。フェルメールの絵は、写真のようでいて、写真のようではない(彼が生きた時代、まだ写真技術はできていなかった)。
 つまり、写真で撮影したように、あらゆる部分が精密に転写されているようでいて、実は、人が心の目で世界を見た時のように、自分の関心がある場所にはフォーカスが当たっているが、注意が届かない周縁部分はわずかにぼけていたり、光が滲んでいたりする。だからフェルメールの絵を見ると、人工的な写像ではなく、自然な視野がそこにある。まるで誰かの部屋をこっそり、覗き穴からから盗み見たときのように。
 いや、まさにフェルメールは科学者的なマインドをもって、部屋を覗き見ていたのではないだろうか。それは、カメラ・オブスキュラという光学的装置を使って実現されたと推定されている。カメラとは現在のカメラではなく、小箱や小部屋を意味する古語であり、オブスキュラは暗がり。つまりカメラ・オブスキュラとは「暗箱」のことで、光を集めるためにレンズが使われていた。人間の目が眼球のレンズを通して光を集め、それを網膜上に写し取って視覚を得ているのとまったく同様に、カメラ・オブスキュラを自分が見たい方向に向けると、その光景がレンズを通して磨りガラスの上に現れる。レンズの作用によって、その像は中心部分は明るく、はっきり見えるが、周辺にいくほど、光の点は薄れ、滲んでいく。
 カメラ・オブスキュラは、そのシンプルな構造ゆえに、最も人間の目に近い原理で、世界を見たとおりに写し取ることができた。フェルメールはそれをそのまま絵画としたのだ。フェルメールの絵が放つ不思議な、それでいてどこか親しみやすい光学効果──真珠の表面に映し出された窓の明かりや、パンの上に降り注ぐ光の粒──は、人の目に近いカメラ・オブスキュラのレンズがもたらした作用ではないだろうか。
 フェルメールはこの光の科学に夢中になった。おそらく何台ものカメラ・オブスキュラを試したり、改良したことだろう。ついには、それだけでは飽き足らず、部屋全体を「暗箱」化することにした。『フェルメールのカメラ』の著者フィリップ・ステッドマンの考察によれば、フェルメールはアトリエに仕切り板を設け、手前半分を暗室化した。仕切板に小さな穴を開け(そこに集光のためのレンズをつけたかどうかは定かでないが)、向こう側の光が穴を通して差し込むようにし、その映像が穴と反対側の壁に投影されるようにした。向こう側には、これから描こうとする構図──例えば、ヴァージナルの前に集う男女たち──を配した。暗闇の中に、最初の光景が照らし出された時、フェルメールは短く感嘆の声を上げただろう。それはまさに色彩も形も、ありのままだったから。
 光学機器としてのカメラ・オブスキュラの持つ問題点をフェルメールがどのように解決していたのかは興味深い謎である。それは、レンズを通して映し出される写像はそのままでは上下・左右が反転してしまうということだ。
 向こう側の光景を仕切り板に開けた小穴を通して、反対側の壁に投影すれば、左右の反転は解消される。が、上下は反転したままだ。これを正立させるためには光路のどこかに鏡を入れる必要がある。フェルメールは研究を重ね、何らかの工夫を施したに違いない。なんといっても彼は科学者だったのだから。
 17世紀は科学が幕開けを果たした時代でもあった。レンズの働きを応用して、望遠鏡と顕微鏡が開発された。それを使って遠い宇宙に現れた超新星や惑星の動きが観察された。かたや、水たまりの一滴の中に無数の小さな生命体がくるくると泳ぎ回っていることが発見された。フェルメールもまた新しい光学機器を使って、三次元空間を正確に二次元のキャンバスの上に写し取る研究に没頭していたのだ。科学と芸術は極めてしい場所にあった。

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