「人間の仕事が人工知能やロボットに奪われる」という切り口の言論は、もはや日常ごとになった。エリック・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィーの著書『機械との競争』では、産業革命の第一波の蒸気機関、第二波の電気共に多くの労働者を生み、第三波のコンピュータも同様になろうと論じている。しかし、第三波が熟す中で奪われるであろう仕事は予め想定しやすいが、新しい仕事の創造についてはぼやけがちだ。人間の脳と身体を模したテクノロジーは次元の違う応用力を発揮し、これまでとは異質な革命を起こす。過去の産業革命の主と同列に捉えることはできず、短期的に試行錯誤を繰り返しながら長期的には人間の仕事をただ減らすだけの可能性がある。仕事をしなくても良い世界は、人間にとってのユートピアなのだろうか。
ユートピアは英国の思想家のトマス・モアが1516年に出版した著書『ユートピア』に登場する架空の国家である。以降、一般的となった多くのユートピア文学には現実社会への批判と皮肉が込められ、現実には存在しない理想的な社会が描かれている。理想社会を描くことでこそ現実の世界の欠点を浮き彫りにできるという思想を背景とするが、理想郷と訳されるイメージとは違って非人間的な管理社会であったりもする。人工的で完璧なまでの合理的な世界。反動はつきもので、20世紀に入ると逆ユートピアとも称されるディストピア思想が生まれ、科学の負の側面が強調されるようになる。過度な管理により人間の自由が奪われることへの警鐘が鳴らされる。一見すると平和で秩序正しい理想的な社会だが、徹底的な管理によりむしろ人間の自由が奪われることへの危機意識が芽生える。
手塚治虫が西暦3404年を想定して描いた『火の鳥未来編』もディストピア的作品であるが、極論と位置づけるには身につまされる要素が多過ぎる。人間は超巨大コンピュータに支配を委ねていたが、完璧な存在からの道を外れ、コンピュータ同士で争うようになる。発展を極めるはずの未来にあったのはよもやの衰退、人類は黎明期への逆戻りを強いられる。テクノロジーが導く先は右肩上がりの未来でしかないという盲信をクールダウンさせられる。
結局のところ、観点によってはユートピアもディストピアに映るし、その逆もりである。科学が理想郷の礎になるのか、そもそも何が理想郷なのか、入り乱れては時に反転する。
ユートピアの典型は、ユークロニア(時間がない国)である。変更すべきところがもはやない理想社会が完成するため、歴史が止まり、時間という概念も消える。人工知能やロボットが新たな人間の仕事よりもあり余る時間を拡張するならば、世界は一種のユークロニア化が進む。時間の価値なきユークロニアに生きることは「永遠の夏休みだ!」と、無邪気に謳歌できるものだろうか。
時間の用途を再構築することが人類最大の課題となる「テクノロジー・ユートピア」。超高度テクノロジーが導く社会は、ユートピアかディストピアか。「テクノロジー・ユートピア」を真の理想郷に育てられるかは、人間の英知にかかっている。