映像だけにとどまらず、自らの言葉でも語り、書き、読ませる映像作家・河合宏樹さん。最新作『うたのはじまり』を監督した彼が語る、映像を撮り続けることとは何か。
学生時代より自主映画を製作し、震災後からは分野やジャンルを問わず、記録映像にとど留まらない「映像作品」をアーカイヴ化してきた、映像作家・河合宏樹さん。これまでも小説家であり、劇作家でもある古川日出男氏らが被災地を中心に上演した朗読劇『ほんとうのうた 〜朗読劇「銀河鉄道の夜」を追って〜』や、ミュージシャンの七尾旅人氏が戦死自衛官に扮したライブ映像作品『兵士A』などを監督し、自分の祖父である日本舞踏家・藤間紋寿郎氏が出演したドキュメンタリーPV『“蒼い魚”を夢見る踊り子~藤間紋寿郎の沖縄戦~』を製作してきた。そんな彼が今回監督したのが、『うたのはじまり』。聾の写真家・齋藤陽道氏が、生まれて間もない赤子のために、口からこぼれ落ちた子守唄をきっかけに、一度は自分と断絶させてしまった「うた」と向き合い、自分の「うた」とは何かを発見していく姿を追ったドキュメンタリー映画だ。これまでも河合さんは、「ことば」や「うた」、そして「身体」に目を向け、撮影対象と真摯に向き合いながらも、フラットに、冷静に、そして被写体と常に同じものを見ながら撮り続けてきた。


互いに根底に何かつながるものを感じた。
最新作の『うたのはじまり』について河合さんは、「ただ友達との苦楽を記録にしただけなんです」と語った。「齋藤さんと出会ったのは2014年、僕が追いかけている演出家の飴屋法水さんの「富士見丘教会」での舞台でした。僕ははじめ彼が聾者であることも写真家であることも気づかなくて、イケメンだなって(笑)」。

このときに何か特別なアクションを起こすことはなかったが、彼との出会いは必然だったのかもしれない。そのキーワードは「飴屋法水」「宮澤賢治」「七尾旅人」だろう。飴屋氏については先に書いたとおりだが、その後、齋藤氏は写真集制作のために、一方で河合さんは朗読劇『銀河鉄道の夜』を取材していたことがわかり、「宮澤賢治」によって二人の交流が始まった。その中で齋藤氏からの、「根底で何か通じ合うような気がして……」というメールをもらい、河合さん本人も「何かどこかでつながっていて、気が合うところがあるなって」思っていたという。
そして映画を撮るきっかけになったのが「七尾旅人」だ。メールでのやりとりのあと、偶然同席した七尾氏のライブの打ち上げのときに、齋藤さんご夫婦の美しく、まるでダンスをしているかのような手話を見て、ただ純粋に撮りたいと思ったという。さらには、河合さんが追いかけ続け、尊敬している飴屋法水と七尾旅人という二人を通して齋藤さんと出会い、再会したことは、「何か彼を撮るために導かれていたような気がして。運命としか言いようのないような出会いだなって思ったんです。それに奥さんの麻奈美さんが妊娠していたので、これはまたとない機会に思えて、すべてを撮らせてほしいとお願いしました」。

聾者と「うた」。「うた」って何?
今回の映画の大きなテーマは「うた」。しかし一見すると、耳が聞こえない人と「うた」というのは、どうしても相いれられないものと考えてしまう人が多いのではないだろうか。実際に齋藤さんは「きく」ことよりも、「みる」ことを選び、写真家になった人である。
ではどうして、あえて河合さんは「うた」をテーマにしたのか。「齋藤さんと出会った飴屋さんの舞台も「うた」が一つのテーマだったんです」。2014年の公演は、聖歌隊・CANTUSのコンサートを飴屋法水さんが演出し、齋藤氏などが出演した1日限りのスペシャル公演だったが、飴屋氏がそこで語りたかったのは、音楽と耳の聞こえない人が組み合わさるとどういう科学変化が起きるか、という内容だった。
実際にこのときの公演の様子は映画で見ることができるが、衝撃の連続である。公演の中で飴屋氏は齋藤氏に向かって「耳あるじゃん。声が聞こえないってどういうこと? 鼓膜がないってこと? どういうこと?」と詰め寄るのだ。これは見る人によっては不快感を覚えるだろう。河合さんも「正直この場面を入れるかどうか迷いました。すごくセンシティブになったし、何度も内容を反芻して考えて、悩んだこともあります。でも、これはある意味お互いを知るうえで、相手との違いや、相手に対する疑問を誠実にぶつけ合い、認め合っている場面だと思いましたし、飴屋さんも包み隠さず入れるべき、と言ってくれて。それにこれが僕と齋藤さんとうたの出合いでもあり、忘れられない出発点でしたから」と言うが、ほかの誰かと違うことは当たり前であり、それを認めるということはすごく大事なことである。
それに河合さん自身も、これまで「うた」や「ことば」を追った映像作品を製作してきた。「僕自身、小さいときから音楽があるのが当たり前の生活でしたし、音楽に助けられてきました。だからか、ずっと考えうるテーマだと思っているんです」と続ける。
そして河合さんは齋藤家の日常を追いかけ始める。「出産シーンもすべて撮らせてもらいました。でも生まれた瞬間の赤子の産声がどんな声だったかと問われて、これまで『ことば』や『うた』と関わってきたはずなのに、僕は答えられなかった」。耳が聞こえる人は、当たり前に音を拾い、理解し、話すことができる。それができない人がどう感じるか、どう説明するかという術をそう簡単に会得することはできない。そんな中、河合さんは「うた」とはなんなのか、「うた」の本質とはなんなのか、それを齋藤家と一緒に探してみたいと思い、この作品が生まれたのだ。

人と人は縁によって結ばれ、気づき、共に成長する。
縁に導かれるようにこの映画を製作した河合さん。そんな河合さんはこれまでの自身の活動を振り返りながら、「僕は人の縁をとても大事にしています。被写体と最初に会ったときに、縁を感じるか感じないかってとても大きくて。だから縁があるって直感的に感じると、自分の中でいろんな気づきや発見が生まれていくんです」と語る。「『うた』というのは、言葉も生まれる前、民族間などでコミュニケーションをはかったり、何かを互いに伝えるために本能的に生まれたものだと言われていますが、まさしくこの撮影の中で、僕はその『うたのはじまり』を発見し、誕生する場面に立ち会った。さらに齋藤さんは『うた』の本質を見抜いてしまっていた」。確かに、齋藤さんと出会ったことで、「うた」とは何かを考え、共に「うた」の根本を探し、共に気づき、成長していくことで「うたのはじまり」に遭遇したのはある意味奇跡のようだが、二人が出会ったことによる必然でもあったのだろう。
しかしこの河合さんのものの見方、人に対する見方、物事に対する姿勢、そして何より時間をかけて大切にコミュニケーションをとり、共にあることで生まれた事実であることは間違いない。「被写体が見ているものを一緒に見ていきたい、成長したい、という気持ちで撮影しています。だから時間はかかりますが、いろんな気づきが生まれるんですよね」。無意識的ながらも、常に能動的に「目」が意識的に物事を見ようとするその感性の豊かさ。「そういった気づきや成長を共にできる出会い方を今後もできたらいいなと思っています。それにやっぱり豊かな時間を得るためには、もっと自分自身が見たり考えたりしなければいけないと思うんです」。確かに最近はそういった豊かさを感受する余裕が少なくなりつつある。だからこそ我々は、河合さんの作品から、実際に会って、面と向かってコミュニケーションを取る大切さ、人とどう接していき、関係を築いていくのか、その重要性を教えてもらい、自分の生活をより豊かにする気づきをもらうべきだろう。
うたのはじまり
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