鳴子こけしで知られる宮城県大崎市にある日本屈指の名湯・鳴子温泉は東北最大の湯治場でもあります。鳴子のような東北の昔ながらの湯治場でつくられ続けているのがこけし。可愛らしいその佇まいは今も大人気ですが、その発祥が疫病の流行と関係していることはあまり知られていないかもしれません。
疱瘡は軽く済めば二度と罹ることはないことは早くからわかっていました。軽症の疱瘡は身体が真っ赤になることも知られていて、真っ赤な玩具が子どもの身代わりのようにお土産となっていったのだと考えられます。
疱瘡のワクチンである種痘がE.ジェンナーによって発明されたのもちょうどこの大流行の頃で、幕末には日本でも本格的に種痘が使われるようになりました。それまでは不安な気持ちをマスコットのようなものに託そうとしていたことは、想像に難くありません。こうして「赤物」と呼ばれる赤いおもちゃが、同時期流行したお伊勢参りとともにお土産として広がったといわれています。
それではなぜ、伊勢から流行した「赤物」が東北で盛んにつくられるようになったのでしょうか――。そこにはもう一つ意外な要素が介在しているのです。
東北にそれを伝えたのは当時の相模国・小田原の木地師たちでした。箱根や大山を拠点とした彼らの技術は非常に高く、現在でも箱根では驚くほど精巧な寄木細工や木工品が並んでいることをご存じの方も多いでしょう。小田原の港からの航路は伊勢につながり、小田原は伊勢商人の拠点となっていました。今も町角の屋号のあちこちにその名残を見ることができます。そして海のつながりとともに、良質な木材を得るために天下御免で張り巡らされた木地師たちの山のネットワークがありました。そのネットワークの西の端を伊勢とすると、そのもう一方の端が鳴子温泉あたりだったと考えられるのです。
鳴子温泉に伝わるこけしの発祥伝説には、大沼又五郎さんという職人が小田原から湯治にやってきた木地職人からこけしつくりを教わったという話が伝わっています。赤の彩色を教わった又五郎さんのつくるこけしは子どもの疱瘡除けのお土産とともに広まり、伊勢と小田原、小田原と東北の2つのネットワークがつながってこけしが生まれていったというストーリーが浮かび上がってきます。鳴子温泉で代々こけしをつくっている『高亀』の高橋武俊さんと『櫻井こけし店』の櫻井昭寛さんのご教示によると、戦後もしばらくは木工技術の研修という形で職人さん同士の交流が行われていたのだそう。そして高度成長時代を経て、いつしかその役割も減っていったのだとか。これらが物語っているのは、かつて湯治場は人と技とをつなぐ文化の発信地であり、海と山のネットワークをつなぐ拠点だったということ。
日本の列島にはまだまだ見えていなかった文化のネットワークが張り巡らされているのだと改めて思い起こさせるのでした。
記事は雑誌ソトコト2022年5月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。