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技術と製法をブランドに。宮城の宝石イチゴ「ミガキイチゴ」の飽くなき挑戦

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一口かじると甘酸っぱく、眩しいほどに赤く輝く果実、イチゴ。気軽にスーパーで買えるものから、一粒ずつ値段のつく高価なものまで種類は様々だ。栃木のとちおとめや福岡のあまおう……数多くのブランド品種がよく知られている。だいたいのイチゴは品種でもってブランディングを行なっているが、宮城県には少し変わったブランドイチゴがある。その名も「ミガキイチゴ」品種でなく、「技術と製法、品質基準」をブランド化したイチゴである。

目次

隠れたイチゴの産地、宮城県亘理郡

東北一のイチゴの生産量を誇る宮城県。一大産地となっているのは、亘理郡の亘理町と山元町だ。温暖な気候の沿岸部にあり、「東北の湘南」とも呼ばれるこの土地。かつては「仙台イチゴ」というブランドで、北海道や東北圏内にイチゴを出荷していた。

しかし2011年3月11日、東日本大震災によって大津波が発生。沿岸部にある亘理町、山元町は甚大な被害を受ける。物的被害、人的被害、環境被害。ビニールハウスがすべて流されてしまった農家も多く、さらに瓦礫の山になってしまった畑も少なくなかった。大変な労力をかけて片付けても、海水を被ってしまった土はイチゴ作りには適さない。

そこで、高設養液栽培という方法での栽培を模索するイチゴ農家が現れ始める。そこで生まれたイチゴのひとつが「ミガキイチゴ」である。「食べる宝石」と冠され、恭しく包装された姿は本当にジュエリーのよう。生産しているのは農業生産法人GRA、東日本大震災をきっかけにして生まれた団体だ。

ミガキイチゴー東日本大震災をきっかけに生まれた「宝石」

ミガキイチゴ

「山元町のイチゴを全国で一番のイチゴにしよう。」農業法人GRAは、被災したイチゴ農家の復興支援をしていた地元の若者たちが主体となり誕生した。まずNPO法人が組織作られ、その後2012年1月に農業生産法人GRAが創業する。

ミガキイチゴはその中で生まれた構想だ。新たな品種を生み出すのではなく、「すでにこの町にある品種、風土、農家の技術を精一杯みがいて価値を高める」ことに主眼が置かれている。

福島さん(農業生産法人GRA 取締役兼執行役員)「亘理町、山元町は、人にも、気候にも恵まれています。その中で長年育まれてきたダイヤの原石のようなイチゴを、僕らが一手間加えることで光り輝くダイヤにしたい、という意味を込めました」

伊勢丹百貨店新宿本店での評価、今後の展望

ミガキイチゴ

「日本一」を獲るため、攻めた販売展開を行う同社。伊勢丹百貨店では、一粒1,000円の値段で販売された。有名なブランド品種ではないからこそ、その総合的なレベルの高さを認めさせるのには骨が折れたはずだ。

福島さん「一粒1,000円というのは、実は我々が値付けをしたものではないのです。バイヤーがこのイチゴであれば一粒1,000円で売れると判断してつけてくれた値段。バイヤーが認める品質基準に達するには、味だけでは足りないんです。見た目、パッケージ、輸送状態……それらも含めて最終消費者の手に届くときに最高品質であることが必要。大変に厳しい目を持ったバイヤーが認めてくれたことは本当に嬉しかったです」

ミガキイチゴは、研究を重ねた技術、高い品質基準、高いデザイン性もあいまってじわじわと名を上げてきている。数年前の調査で、宮城県内で10%超え、首都圏でも2%超えの人が「ミガキイチゴ」の名を知っていることが分かった(株式会社GRAによる調査結果)。創業して10年も満たない、地方発の農作物のブランドの知名度としては力強い結果だ。

福島さん「まだまだ知名度は伸ばしていきたいと思っています。これからの課題です。」

地元の人に支えられ

農業生産法人GRAの掲げるミッションには地域社会の持続可能的な繁栄もある。地域コミュニティの再興のために、グループ法人である特定非営利活動法人GRAでは民泊施設「山元ミガキハウス」の運営を行なっている(現在営業休止中)。全国展開を目指した展開をしつつも、地元である亘理町・山元町を人を呼ぶための施策も怠らない。

2011年の震災で訪れた悲劇は薄れることはない。だが、新たな芽吹きはあり、毎年春はやってくる。今年も新たなイチゴが生まれ、笑顔を作っていく。

福島さん「最初にトライアルでイチゴを作ったのは2012年の3月、震災の次の年です。地元の方々を招待していちご狩りツアーを開催しました。『震災からこんなに早く地元のイチゴが復活するなんて』と喜んでくださったことが忘れられません。この町のイチゴを日本一にして、地元の皆さんが喜ぶ顔をまた見たいですね」

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