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連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶローカルプレイヤーの働き方とは

実践から、少ない水での無農薬栽培を実現。 地方農業を盛り上げ、世界に役立つ技術を。

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福島県喜多方市で農場を営む小川さん。ハウスメロンやトマトを中心に、少ない水での無農薬栽培を実現させています。地域の耕作放棄地の問題や、地球規模の環境問題まで…農業を通して幅広い問題に取り組む小川さんが伝えたい想いとは。お話を伺いました。

小川 光
おがわ ひかる|農家
東京大学農学部卒業後、福島県職員となり県内各地の園芸試験場や普及所等で農業の普及や改良に取り組む。福島県喜多方市にてチャルジョウ農場を営み、無潅水無農薬の栽培を行う。1997年から、空き家を活用して新規就農者の受け入れを実施。2005年からトルクメニスタンで1年間、2013年からカザフスタンにて約2年間、技術実証栽培をしている。
目次

作ったものを食べる喜び

東京都練馬区で育ちました。体が弱く、小さい頃はしょっちゅう学校を休んでいましたね。小学校高学年ごろになると徐々に元気になり、よく学校近くの池で魚をとるなどして遊んでいました。自然が好きだったんです。

中学校に入ると、家の隣の空き地を耕して、野菜を作り始めました。近所に農家さんが多く身近でしたし、叔父が種屋さんに勤めていていろいろなタネを持ってきていたんですよね。自分でカボチャやトウモロコシを育て収穫し、料理をして食べていました。自分の作ったものを食べることは大きな喜びで、将来は農業をしたいと思うようになりました。

受験期になると、周囲に「力試しに受けてみろ」と言われ、都心の進学校を受験。すると合格したんです。気は進みませんでしたが、進学することになりました。地元とは言葉も違うし、都心での高校生活はあまり面白くなかったですね。

農業を学びたいという気持ちは変わらず、大学は東京大学の農学部に進みました。入学後は、地域活動を行うサークルに所属。そこではさまざまな学部の学生が、自分の専門知識や興味関心を生かして、住民と触れ合って活動していました。例えば法律相談にのったり、子どもの勉強を見たり、料理講習会をやったり。農業を活かせる場は残念ながらなかったので、私は趣味の音楽を生かして、アコーディオンで地域の方々が合唱したりフォークダンスしたりする際の伴奏をしていました。

卒業が近づくと、就職先を考え始めます。まず農林水産省の先輩から勧められ、省庁を受けました。でも、国の機関だと全国を転々と歩かなくてはなりません。サークルでの活動を通して、それよりは地域に密着し、地域のために働きたいという思いがありました。人や自然環境に溶け込んで、地域の中で生きていくことに魅力を感じていたんです。

そこで、農業職の県職員採用も受けることに。ちょうど大学紛争が盛んな時期で卒業時期が遅れてしまい、採用している県は限られていました。その中で、縁あって福島県に就職を決めました。

おかしいことにはおかしいと言う

最初の配属は、県の南東にあるいわき市の園芸試験場でした。そこには、臨時職員として手伝ってくれている近所の農家の方々がいました。一緒に仕事をするうち、その人たちへの待遇が悪いと感じるようになったんです。調べるうちにおかしいと感じる点が見つかり、上に掛け合ったり労働組合に話しに行ったりしました。

しかし、社会に出たばかりでわからないことも多くあり、うまく立ち回ることができなくて。結局、2年半ののち、県の西にある喜多方市の農業改良普及所に異動になってしまいました。

反省はありましたが、農家の方々には良い印象を持ってもらえました。例え、変えることが難しそうでも、従う方が楽なことでも、おかしいと感じることを「おかしい」と伝えることは間違っていないと感じました。

実践の大切さ

喜多方農業改良普及所では、近所の農家の方々との距離が近く、農業のことを聞かれることがよくありました。試験場の中でいろいろな品目は作っていましたが、自分でやったことのないものについては答えられなくて。そこで、個人的に近所に小さい畑を借りて、キュウリやトマトを作るようになりました。

キュウリを作る中で、地元の人から「くびれ果」に悩む話を聞きました。実をつけたキュウリに、糸でくくったようにくびれる症状が出るんです。形が悪いと市場に出すことができないため、なんとか防止したいと悩んでいました。

くびれ果は、ホウ素剤をまくのが対策と言われていました。でもある日、自分の畑を見ていると、カメムシがキュウリの花を吸っているのを見つけたんです。花の後ろには、いずれ実になる部分があります。もしかして、カメムシが実になる部分を突き刺して汁を吸っていることが原因なのではないか?と思ったのです。

そこでカメムシを捕まえて、害虫専門の方にキュウリで実験をしてもらいました。すると予想通り、カメムシが原因の一つであることが明らかになりました。カメムシが花を吸っているのは1分にも満たないくらいの短い時間。自分で作っていなければわからなかったと思います。気づけなければ、周囲の農家の方々に、ホウ素肥料を購入してまくように指導していたでしょう。自分で農作物を作りながら指導する必要があるんじゃないか、と感じました。

私たちの組織では、農業の研究と普及で担当が分かれていました。私はそうではなく、自分で耕しながら普及した方が良いと提案したんです。その結果、普及員が2、3週間、研修という形で実際に栽培をする、農業改良普及員の農家研修制度を作ることができました。

過疎化、耕作放棄地に農業を

喜多方に根付いて3年ほどたったころ、別の土地に異動になりました。喜多方では野菜に適した土地も見つけましたし、何より人が良くて。いつかここで本格的に農業をやろう、と決めたんです。「必ず戻ってきて、ここで農業やるからね」と約束して喜多方を後にしました。

その後は、県の研究所に入って農業の研究に明け暮れました。一方で、近所の小さな畑を借りてメロンを育てていました。県央の福島市、郡山市と移動したあと、再び喜多方に近い、会津地方に移動になったんです。そこで家を建て、喜多方の普及所時代にとても良いキュウリができた畑を借りてメロンを作り始めました。

すごく良いキュウリができる土地だったのですが、それは露地栽培の話。ハウス栽培を始めると、雨が入らないため乾燥に悩まされるようになりました。水が少なくても育てられる方法はないかと模索しましたね。いろいろな作物を試す中で、トマトとメロンはうまくいくとわかり、水をやらずに施設野菜を栽培する無潅水栽培をより良いものにするため試行錯誤しました。

そんな中、畑近くにある谷間に、産業処分場ができるという話が浮上しました。なんとか阻止しようと、トラックが入ってこられないように近くの林を買ったんです。すると、林の持ち主から、「近くに空き家があるから買う人を探してくれ」と頼まれたんですよね。

そこで、田舎暮らしを紹介している雑誌を見つけ、空き家を買いたい人を募集することにしました。空き家の記事を投稿すると、応募してきた人が8組いたんです。せっかく応募してくれたのに、買えるのが1人だけじゃ勿体無い。そこで他にも売ったり貸したりできる人がいないか、町の知り合いに当たっていったんです。

すると、行政が廃校を活用する人を探しているとか、移住したから家を買ってほしい人がいるとか、いろいろな話が上がってきたんです。そういった案件を紹介しているうちに、単に住むだけじゃなく、農業をやってみたらいいんじゃないかと思いつきました。

まず自分で、耕作放棄地になっている安価な農地をあちこち買いました。加えて、小さな空き家も5軒購入。よそからきた人にはすぐ売りたくないけれど、住んでいて知っている私たちだからと家を売ってくれる人も多かったです。

空き家を綺麗にして、別の地域からの農業研修生を受け入れるようになりました。よその人を受け入れるのには抵抗のあった住民の人たちも、研修生が地元に慣れてくると「俺の家も空いているからそっちに移るか」なんて声をかけてくれて。空き家を貸家にする人がどんどん増えてきました。私の買った家は小さかったので、かえって周囲の貸家の方に人が入るようになりましたね(笑)。そうやって、地域全体で移住者の受け入れが加速していきました。

世界のためにできること

旧ソ連諸国と交流する団体に勤めていた叔父から、中央アジアの国・トルクメニスタンのメロンのタネをもらい、試験場で育ててみました。するとすごく美味しいメロンができたので、47歳になった時、タネを集めるためにトルクメニスタンに行ってみることにしたんです。

その頃のトルクメニスタンは、GDPが日本の10分の1ほど。個人の月給は20分の1くらいの、収入の少ない国でした。しかしみんな、お金がなくてもすごく明るく生きていたんですよね。ないものは道で探したり、別のもので代用したり、工夫しながら暮らしていて。それをみると、お金を貯めるよりも別の生き方があるんじゃないか、と思えました。農業も、儲けるためだけではなく、もっと大事なことがあるのかもしれないと。

その後、50歳のとき、県職員を早期退職して喜多方に戻り、農業1本でやっていくことにしました。しばらくは自分の農業に精一杯でしたね。研修生も毎年数名受け入れていたので、育成にも尽力しました。

少し落ち着いた2005年ごろ、トルクメニスタンのことを思い出しました。トルクメニスタンは、日本よりも乾燥した気候。自分がやってきた無潅水栽培が役に立つのではないかと思ったのです。叔父にそんな相談をしていたところ、トルクメニスタン政府の農林大臣から、ぜひ来てほしいと手紙をいただきました。

そのころのトルクメニスタンは閉鎖的で、旅行客は受け入れていましたが、長期滞在はほとんど断られていました。その中で、1年近く滞在して農業の研究をさせてもらえることになったのです。

トルクメニスタンの農業科学研究所に行って、先輩の研究員の方々とトマトやメロンの無潅水栽培をしました。みなさんすごく気さくな方で、研究自体も楽しかったですね。

トマトは最初はよくとれましたが、だんだん豆粒みたいな実しかならなくなってしまって、改善の余地がありました。メロンの収穫を待っていた頃、砂漠にある草のトゲが刺さり、指が化膿してしまって。そんなトラブルなどがあって帰国時期が早まり、メロンの収穫を全て見れないまま帰ることになってしまいました。

成果を全ては見届けられませんでしたが、栽培方法や生活実態がわかってとてもよかったですね。乾燥地でも自分の考えた農法が役立つかもしれないとわかりました。それは、ひいては環境問題の解決にも役立つと思ったのです。

中央アジアには、アラル海という大きな湖があります。2つの河が注いで湖を作っていましたが、そのうちの片方の流域で、綿花の栽培のために水を多用。結果、アラル海まで到達しないうちに、河が枯れてしまっていたんです。水が減り、さらに農薬が流れ込んだ影響で、湖岸に住んでいた人が病気になったり、自然破壊が進んだりしていました。

私の考えた無潅水、無農薬の栽培法であれば、少ない水があれば栽培が可能ですし、農薬を使わないので環境にも優しい。日本においては、灌漑ができない土地でも収益性が高いメロンやミニトマトのハウス栽培をすることで、過疎化や耕作放棄を防ぐことが目的でしたが、世界に目を向ければこういった問題も解決できるかもしれないと考えました。

その後、現地に住む人に仲介してもらい、同じく中央アジアにあるカザフスタンの農業試験場に行けることになりました。トルクメニスタンでの失敗に学びながら、日本とは違う土の性質を生かしたり、現地にあった防風林の落ち葉や雪解けの水を活用したりして、より良いやり方を探していきました。結果的に、日本で編み出した栽培方法は中央アジアの乾燥地帯でもできることがわかったんです。

自分で考え、より良い技術を

今は、福島県喜多方市の山都町で、「チャルジャウ農場」という農場を営んでいます。オリジナルの品種のメロンや、ミニトマト、カボチャ、インゲン、ハーブなど、様々な品種を栽培しています。

最大の特徴は、水をやらずにハウス野菜を栽培する「無潅水栽培」です。通常のハウスでは地下水を汲み上げて栽培をしますが、無潅水栽培ではそれを一切やらずにハウス栽培をします。地下水の汲み上げによって土地が乾燥するのを防ぎ、かつ味が濃くて美味しい野菜を作ることができるのです。

これには、4つの基本的な技術を組み合わせています。

一つ目の技術は、肥料のやり方です。通常の畑では全体に満遍なく肥料を巻きますが、私は穴を掘って、そこに堆肥や落ち葉、家畜の糞などを入れています。その穴に水も一緒にいれることで、落ち葉などが水分を吸収して保持してくれるのです。穴の上から土をかぶせて苗を植えることで、水をやらなくても作物を育てることができます。

2つ目は、野菜の株と株の間を広く取り、枝をたくさん出させて育てることです。トマトやキュウリなどは、株と株の間を狭くして、出てくる枝をほとんど取って1本の枝だけを残す「1本仕立て」が通常のやり方でした。これだと、株が大きくならないので根も広がらず、早期の収量は多くなります。ただ、水が少ない土地には適さない。穴を掘って水分を確保するやり方では、穴をある程度大きくして、乾きにくくしたほうがいいんです。そのため、株と株を広くとり、根を深く出し、肥料の穴からもハウスの外からも水を吸えるようにしました。株の間を広くすると収穫量は減るので、枝を1本にせずたくさんの実を残す「多本仕立て」にしています。それでも、枝を絞った時と遜色ない野菜ができることがわかっています。早期の収量では劣るものの、全期収量だと多本仕立の方が多くなるのです。

3つ目は、ハウスの周りで選択的な除草をすることです。抜くのは、ススキなど地面の表面に根っこがある作物。ハウスで育てる野菜と養分を競合するからです。逆に残すのは、ヨモギや野菊などの、根の中に水分を蓄えるような雑草ですね。根が強いので、大雨が降った時に土が流されるのを防いでくれます。こういった雑草は、野菜をダメにするアブラムシの天敵の虫や、自然に交配してくれるハチを呼び寄せる役割もあります。

4つ目は、乾燥に強い品種を交配させることですね。例えばメロンは、トルクメニスタンで取ってきたタネと、雨が多い日本に適した地元の瓜とを交配させて独自の品種を作っています。

これらの技術を取り入れることで、水がないという条件下でも、ハウス栽培が可能になるんです。

近所にも、同じやり方をしている方々がいます。特にミニトマトでは、この方法が普及してきました。現在も、こういった技術を新規就農者に指導する活動も続けています。過疎地や耕作放棄農地を活用して、若い人の移住を促して行きたいですね。小さい面積でも収益が上がるハウス栽培、しかも有機栽培で、経費をかけずに良いものを作る方法を普及させることで、地方の農業が盛んになってくれればと考えています。

さらに、なるべく自然の中にあるものを使って環境にやさしく、水が少なくともできるこの農法を、世界の、特に乾燥地帯に広めたいと考えています。さらに技術を開発して、乾燥地の農業に役立てたいですね。

長く農業をやっていますが、やめようと思ったことはありません。せっかく作った野菜の価格が安い時期が続いたり、動物に食べられてしまった時なんかは本当に嫌になりますが、自分で作ったものを食べるという喜びはずっと変わらないですね。

ただ一方で、農業を続ける中でおかしいと思うこともあります。例えば、「1本仕立て」の栽培法が当たり前だとされていること。これって、元をたどると株をたくさん買ってもらったほうが種屋が儲かるからなんですよ。だから、枝が出にくい品種が流通してしまっている。

でも、私がやっているように、株を減らして枝をたくさん出すやり方でも、良い作物は作れるんです。農家が自分で、枝がたくさん出る品種を作って栽培することも可能なはずなんです。

農薬も同じです。こんな状況ではこんな農薬を、こんな化学肥料を使いなさいと言われがちですが、そうじゃない方法でもうまくいくんです。私は桜の落ち葉や堆肥などを肥料にしていますし、病気ができた時も農薬を全く使わずに対処しています。関連事業者が儲かるような栽培方法が推奨されていますが、本当はお金をかけずに、より良い作物を作れる方法があるんですよ。そのことをもっと多くの農家に知ってほしいと思います。

農業に限らず、今の社会は大勢が「良い」と言う方向に流れる人が多いと感じます。でもそれでは、儲かる人がますます儲かるだけで、本当に良い状態にならないこともあるんです。多数派の考え方をそのまま鵜呑みにするのではなく、自分が「良い」と思うことを提案できるような社会にしないといけないと思います。

人に流されたり、必要以上に依存したりせず、自分で考え、判断する軸を持つことが大事。その軸を大事にしながら、培ってきた農業を広めていきたいです。

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another life.」からのコンテンツ提供でお届けしています。※このインタビューはanother life.にて、2021年4月12日に公開されたものです。
インタビュー・ライティング:粟村 千愛

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