「好きを仕事に」とはよく聞く言葉。でも、その“好き”が誰にでもあるとは限りません。好きなものを持っていても、「仕事には結びつかない」「趣味として楽しみたいだけ」というパターンも多いでしょう。
映像ディレクター・エディターとして活躍する澤田慎さんも、かつてはサラリーマンとして働きながら、“好き”を活かせる仕事を模索していた一人。25歳の頃には、脱サラ移住で岐阜県恵那市へ。さらに、28歳からは働き方を変え、神奈川県川崎市に住み始めました。
「今は毎日好きなことをしているので、正直、“働いている”という感覚があまりないんです」と話す澤田さん。ストレスフリーな仕事と巡り合うまでに、どんなきっかけや経緯があったのでしょうか。
大手コンビニ企業を退職し、山に囲まれた明智町へと移住
澤田さん「大学を卒業してから、最初は大手コンビニ企業で働いていたんです。その頃は、映像の道に進むなんて全く思いもしなかったですね」
名古屋市出身の澤田さん。コンビニ本部の社員として、しばらくは直営店舗で勤務していました。オフィス街の繁盛店舗で店長を務めたこともあったそう。
澤田さん「コンビニの仕事も結構楽しかったですよ。どの商品をどこに置くか戦略的に仮説を立てて、実践したら翌日には成果が分かる。結果がすぐに目に見えるのが面白かったですね。ただ、コンビニの人手不足が深刻化…なんてよく問題になっていますが、その通りで。仕事や働き方を見直そうと思って、色々と情報収集をしていました」
ビジネス本を読み漁ってみたり、キャリアを考える講演会に行ってみたり。そんななか、岐阜県恵那市明智町でまちづくり活動をしている人に出会ったそうです。
澤田さん「明智町は、大河ドラマでも話題になった戦国武将・明智光秀の生誕地と言われる場所です。縁もゆかりもなかったまちですが、山に囲まれて景色も綺麗で。まちづくり活動に興味を惹かれて、休日は毎週のように明智町を訪れるようになりました。もっとしっかり足を踏み込んでみたくて、思い切って会社を辞めて移住する決意をしたんです」
とある講演会をきっかけに、自分の“好き”を発見
こうして澤田さんは、最低限の荷物だけを抱えて身軽に明智町へ。住む場所や仕事はどうやって見つけたのでしょうか。
澤田さん「明智町の門野(かどの)という地区で、農林水産省の振興交付金を活用した事業があったんです。地域活性化や就農者の所得向上をめざす事業の拠点となる事務所で、住み込みスタッフとして働かないかと誘われて。事務所はかなり趣のある古民家でしたね。主な仕事内容は、書類作成やお客様対応。あとは、田んぼ仕事を手伝ったり、農家さんとコミュニケーションをとったり。事務局と地域住民との橋渡し役を担っていました」
話を聞くだけでは、楽しそうにも思える生活。しかし、澤田さんの心には葛藤があったそうです。
澤田さん「まちづくりに関わっているといっても、与えられた仕事をこなしているだけでは何も変わらなくて。自ら動いていかなくては、新しいことは始まらないんだと実感しました。脱サラして移住してきたものの、自分の人生はこれで良いのかと焦りが生じ始めましたね」
自分の好きなこと、やりたいことってなんだろう。悩む日々のなか澤田さんは、サラリーマン時代に参加したとある講演会について思い出しました。
澤田さん「実業家として有名な、マザーハウスの代表・山口絵理子さんの講演を聞くために大阪まで行ったことがあったんです。そこで、“本当にやりたいことの見つけ方”として、グラフで人生を振り返る方法が紹介されていたなぁと。ペンを手に取って、自分のグラフを書き始めてみました」
澤田さん「思い出せないところは親に連絡をとって聞いて、地道にグラフを完成させました。小学生の頃は書道を習っていたんですけど、漢字を書くのが大好きで。“しんにょう”や”もんがまえ“なんて最高ですよ。ひらがなやカタカナに比べて、漢字は全体のバランスを見て形づくっていく工程が面白かったんです」
書道で賞をとったときはグラフが上昇したり、中学校に入学して友達づくりに苦労した時期はグラフが下降したり。
澤田さん「器械体操もやっていました。特に好きな種目は”ゆか“と“鉄棒”。制限時間内にできることを考え、戦略を立てることが楽しくて。大学に入ってからはダンスを始めました。ポッピングというジャンルのダンスなんですけど、よく比較されるヒップホップダンスよりもルールが少なくて、いろんな動きの組み合わせができるのが魅力。それから、ボランティアサークルでプログラム作成をしたこと、バンド活動でドラムを担当したこと…。そのどれにも、共通点があると気づきました」
この発見が、映像の道へ進むきっかけに。
澤田さん「僕が人生で楽しいと感じたものには、何かしらの要素を組み立てていく“構成”の要素があるんです。それに、ダンスやバンドなど“音楽”に関連することも多いですね。でも、“構成”と“音楽”の2つの要素が揃っていても、一人で何かに取り組むのは物足りなくて。“仲間”がいるともっと楽しく過ごせます」
“構成”・“音楽”・“仲間”。これらを満たす仕事として思いついたのが、映像制作だったといいます。
澤田さん「実際に動画の撮影や編集を始めてみたら、めちゃくちゃハマって。まちづくり事業の仕事を続けながら、独学で映像を勉強しました。家で練習しているだけじゃ上手くならないので、自分からどんどん声をかけて、地域のイベントやお店のプロモーションムービーをつくらせてもらいましたね」
映像クリエイターとして独立、そして再び会社員へ
映像を通じてまちの魅力を伝えながら、自分の実績も積んで、映像クリエイターとして活動するように。次第に依頼が増え、ついにはフリーランスとして独立するまでになりました。
澤田さん「今となっては、まちづくりに対してもっとやれたことがあったのでは、とも思います。ただ、映像の仕事がすごく楽しくて。まちづくり事業で知り合った広告代理店関係の依頼で、各地を飛び回る仕事が多くなり、交通の便が良い名古屋へと一旦戻ることを決めました。2〜3か月ほど実家に身を寄せつつ、全国あちこちへ行きましたね」
転機となったのは、さとうきびを再利用したデニム製品をつくる「SHIMA DENIM WORKS」のプロモーション撮影をしたときのこと。
澤田さん「これまでは一人で撮影をすることが多かったのですが、その現場にはたくさんの人たちがいて。撮影前の細かな準備から撮影中のライティング調整まで、連携プレーで仕事を進められて、すごく充実感がありました。企画・構成を専門とするプランナーのプロフェッショナルな仕事ぶりにも感動しましたね。実は、このプランナーこそが現在働いている会社の代表でして…」
2020年10月から神奈川県川崎市に移り住み、株式会社 DOT THREEの映像ディレクター・エディターとして働く澤田さん。DOT THREEで代表を務める津金雄三さんとは、明智町にいた頃、知り合ったといいます。
澤田さん「まちづくり事業に携わっていた広告代理店担当者の方の元同僚で、アドバイザー的な立ち位置で明智町を訪れていたのが、津金さんだったんです。自由なフリーランスも良いけれど、“チームでつくる面白さ”を追求したいと考えていたとき、今の会社に誘ってもらいました」
↑澤田さんが実際に仕事で制作した動画の一例。ジャンル問わず多種多様な企業・サービスの動画を手掛けています。現在の会社に入社してから、その幅はさらに広がっているとのこと。
住む場所も働き方も変えてきたからこそ見つけた、自分らしさ
愛知県名古屋市→岐阜県恵那市→神奈川県川崎市と、二度の移住を経験。さらには、会社員とフリーランスをどちらも経験した上で、再び会社員となった澤田さん。“仕事観”にはどんな変化があったのでしょうか。
澤田さん「ただ映像が楽しくて仕事を始めた頃と、感覚は変わっていなくて。2回目の会社員ですが、業界が全く違うので“所属している”ことによる縛りはあまりないですね。運良く“好き”を仕事にできて、フリーランスより規模の大きな仕事にチャレンジもできて。今がいちばん楽しいです。もちろん、編集作業に追われたり、朝早くや夜遅くの撮影に出たり、大変なことはありますが。変化したことといえば、昔は自分のことで精一杯だったんですが、最近は周りを見られる余裕が出てきました」
余裕のないときは、心の矢印が自分にばかり向いていた状態。いまは、“周囲のためにできることはないか”と矢印を外に向ける意識が習慣付いたそうです。
澤田さん「好きなことを仕事にできても、好きなこと“しか”仕事にしないというのは難しいと思っています。どんなに好きな仕事に就いていても、やりたくないことをやらなくちゃいけない瞬間はいくらだってありますし。先週も、泣きながら確定申告しました…!モチベーションになっているのは、期待に応えたい、貢献したいという気持ちですね」
周囲の人たちの役に立ち、他者貢献感を得ることがモチベーションの源だという澤田さん。脱サラ移住のその先に、自分なりの働き方の“正解”を見つけたようです。
働き方に、万人共通の正解は当然ありません。世の中ではフリーランス人口が増加傾向にありますが、澤田さんのように会社員として理想の働き方を見つける人もいるでしょう。その選択をもっと自由にできるきっかけは、一歩踏み出せば、身近なところに転がっているのかもしれません。
澤田さんのInstagramはこちらから⇨(@shin.swd11)