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多様性

連載 | フィロソフィーとしての「いのち」

いのちは、ゆらぐ

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 2020年9月、「山形ビエンナーレ」の芸術監督を担当した。それは18年11月に、MIMOCA(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)で行われたシンポジウムでの講演を介した、東北芸術工科大学学長の中山ダイスケさんとの出会いがきっかけだった。

 画家の猪熊弦一郎(1902‐‌93年)は、「美術館は心の病院」という言葉を残し美術館の完成(1991年)を見送るように逝去された。猪熊氏の「いのち」の灯を受け取るように、「『芸術祭』も心の病院」だと思いを込めた。2020年春頃から、新型コロナウイルス感染症の影響で多くのイベントや祭りが中止になった。ただ、今だからこそ行うものもある。そのためにすべてをオンライン開催で行えるよう大きく舵を切った。今もアーカイブで閲覧できる作品も多く、見直していただけるとうれしい。

「山形ビエンナーレ」は「全体性を取り戻す芸術祭」と名づけた。心身や命のバランスを失いかけている時には全体性を取り戻す場が必要だ。現役医師が芸術監督を務める芸術祭として、調和や全体性を回復する未来の養生所になることを目指した。「いのち」に対して開かれ、「いのち」というフィロソフィーを共有し、「いのち」の可能性を追究する芸術の祭りとして──。

 では、取り戻すべき「全体性」と聞いて何をイメージするだろうか。芸術祭では医学と芸術を学ぶ学生が対話する場も設けた。全国の学生さんに同じ問いを出したところ、学生全員の返答が違っていた。例えば、「日々の生活の全体性」「心と体の全体性」「宇宙と人間の全体性」など。答えを提示したかったわけではなく、「全体性」は問いとして発したつもりだった。問いの返答を各自が持ち寄り、心を寄せ合う集う場にできないだろうかと。

 

 コロナ禍の中で、一番危惧しているのは差別や分断の問題だ。新型コロナ感染症にかかったことで誹謗中傷や差別される現実がある。むしろ、周囲は心配しケアをする必要があるはずにもわらず。「いのち」の在り方と真逆に向かう現実に医療現場で強い危機感を感じている。希望を感じたのは鹿児島・奄美諸島の与論島の事例だ。人口約5000人の島で感染が多発したとき、みんなが「大丈夫か」「元気か」「無事になって帰ってこい」とメッセージを送り合い、退院後もみんなが声をかけ合い励まし合った。差別や分断とは無縁だった。私たちの社会が差別と分断、非難とクレームに満ちた社会に向かうのか、それとも、互いを気遣い、優しさや善意が循環する、助け合う社会に向かうのか、岐路に立っているのだろう。与論島の事例は普段からの町づくりが基礎にある。感染症に限らず、今後もあらゆる危機が起きる。普段の備えが危機の時に露呈してくる。裏にあるか表にあるかの違いだけだろう。19世紀末に流行したペストも、次の社会基盤へ移行するまで10年ほどの時間がかかった。同じくらいの視野で社会基盤の構造が変化していく。お互いの自由や幸福を尊重し合える社会へ向かえるのか。それは人類が取り組むべき挑戦でもあり、壮大な社会実験でもあり、個人個人が向き合う日々の課題でもある。

 私たちの取り戻すべき「全体性」とは何か。共に悩み、共に考え、共に心を動かし、共に表現することこそが、新しい時代の芽生えとなる。

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