いのちは つづく

連載 | フィロソフィーとしての「いのち」 | 4 いのちは つづく

2021.07.20

 2021年を迎えた。自分が「2021年」で真っ先に思い出すのが、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災だ。当時、大学院生だった自分は東北へと医療ボランティアに入り、いろいろなことを感じた。感じたことの多くは痛みや悲しみや絶望など、自分の心を痛めるものが多かったが、人とのつながりの中で多くの希望も感じたからこそ、前を向いて歩いて行けた。2011年の時、ここから「10年」という自分なりの見通しを立てながら動いてきた。生活のこと、仕事のこと、生きる態度に関するあらゆることを。この「2021年」こそが、過去の自分が、無力感と共に遠く先を見ていた10年後の地点かと、改めて思う。そうした記憶が自分のなかに強く巣くっているため、当時の気持ちと今の気持ちとが一筆書きのように明確な線でつながっている。


 2020年は確かに大きな変動の年だった。だからこそ、今年も、10年先の遠い未来をイメージしながら、一歩ずつ歩んでいきたいと思う。自分をよく理解し、自分の役割をわきまえ、自分の生き方を最奥の魂の声と照らし合わせながら、自分が自分自身を裏切らないよう歩んでいく。


 1日はあっという間だ。そして、1週間も1か月も1年もあっという間だ。10年や100年も1000年もあっという間だろう。1年後、10年後、100年後、自分という存在が雲散霧消してこの世界に溶け込んでいるかもしれない。自己の継続か消滅かにわらず遠くの未来をイメージしながら、一日一日をていねいに疎かにせず過ごしていきたいと思う。このことは、2021年1月1日、起きた瞬間に頭に飛び込んできたこと。10年前の自分が投げ込んだのだろうか。


 長野県・軽井沢町の冬は寒い。周囲を見渡すと、まるで植物は消えてなくなったように見える。ただ、自然はすさまじいエネルギーを巡らせて植物は必ず芽吹いてくる。それは人類誕生以前から脈々と続く営み。人工的情報が少なかった古代の人は、人間の「死」の現象もまったく違う視点でとらえていただろう。植物が死を迎えたように見えても毎年毎年、必ず同じ形態で再生してくるように、人も死を迎えたように見えても、どこかで必ず形を変えて再生してきている、と。「生まれ変わり」は、自然界の観察と体験から矛盾なく浮かんでくるコンセプトではなかろうか。自然界と人間界との壁がなかった時代のことを思い出すようにイメージしてみる。時空の隔たりも、ひとつのコンセプトに過ぎないから。


 新しい時代が生まれるには、必ず冬の時代を経る必要はある。“春春春春”や“夏夏夏夏”ではなく、春夏秋冬というプロセスの営みの中で。


 自然界のエネルギーは、極から極へと大きな振幅で揺れ動いている。「春夏秋冬」と先人が名前を付けたことも、そうした自然界の変化の全貌を、なんとか受け止めようとしたことの表現であり、伝言だろう。わたしたちにとって生きることが、自然界や人間界への表現であり、伝言でもあることと同じように。