はじめまして。小辻寿規といいます。
京都の下鴨で育ち、いまは京都と滋賀を行き来しながら働いています。
仕事で大阪に向かうことも多く、複数の土地を往復する身体で日々を過ごしています。
ときどき奈良にも行くことがあり、その土地の深い時間も自分の中に静かに流れ込んでいます。

私は京都の下鴨で生まれ育った。
いまでは「世界遺産のあるまち」として知られているけれど、
子どもの頃の私は、そこを観光地だとはほとんど思っていなかった。
もちろん、昔から下鴨神社に参拝する人はいた。
「その前から観光地だった」と言われれば、その通りだと思う。
けれど、世界文化遺産「古都京都の文化財」の一つに賀茂御祖神社(下鴨神社)が登録されてからの変化は、
身体がはっきり覚えている。
人の流れが変わり、視線が増え、森の空気が少しずつ変わっていった。
その変化を、子どもの身体は敏感に受け取っていたのだと思う。
糺ノ森は、もっと自由だった
糺ノ森は、子どもの頃はもっと自由だった。
境界が曖昧で、好きに遊べる森だった。
どこまでが道で、どこからが森なのか、そんな線引きは気にしなくてよかった。
木漏れ日の下を走り回り、落ち葉の匂いを吸い込みながら、身体が勝手に覚えていく道があった。
私が中学校に通い始めた頃には、すでに世界文化遺産に登録されていた。
それでも、糺ノ森は生活の動線のひとつで、私は毎日のようにその森を通過して学校へ向かっていた。
観光地を“訪れる”のではなく、生活の一部として“通り抜ける”。
その感覚は、いま思えばとても特別だったのかもしれない。
森の中を歩くたび、観光客の視線と、生活者としての自分の身体がどこかで交差していた。
その微妙なズレが、私のローカル観の最初の層になった気がする。
滋賀で働く身体が知っているローカル
大人になってから、私は京都と滋賀の両方で働くようになった。
とくに滋賀では、日々の仕事の中で土地の空気を深く吸い込む時間が増えた。
京都から電車でわずか10分。
けれど、空気の流れ方も、時間の進み方も、京都とはまったく違う。
湖の広がりが、視界をゆっくりと開いてくれる。
空が高く、風がよく通る。
観光地としての“外からの視線”がほとんどないぶん、生活の湿度がそのまま残っている。
教育行政の現場にいると、地域の課題や、子どもたちの表情や、学校という場所の温度が、
京都とはまた違う形で身体に入ってくる。
滋賀は、私にとって「働く場所」であると同時に、“生活圏としてのローカル”を教えてくれる土地だ。
京都のように「見られる」ことを前提にしていない。
その素朴さが、身体を少し緩めてくれる。

大阪で受け取る都市のリズム
仕事の関係で大阪に行くことも多い。
京都や滋賀とはまったく違うスピードで時間が流れている。
人の歩く速さ、声の大きさ、街のざわめき、空気の密度。
都市のリズムは、身体のテンポを自然と変えてくる。
京都の“外からの視線”、滋賀の“生活の湿度”、そして大阪の“都市の速度”。
この三つを往復することで、自分の身体の中に複数のリズムが共存していることに気づく。
その混ざり方が、私のローカル観を少しずつ形づくっている。
十津川村という、身体の奥に沈むローカル
そして、もうひとつのローカルがある。
奈良県の十津川村だ。
母が生まれ育った場所で、祖父母が暮らしていたこともあり、子どもの頃によく訪れていた。
山の深さ、川の冷たさ、夜の暗さ、道の細さ。
人の距離感や、土地の孤立と自立の文化。
そうした感覚は、いまでも身体の奥に残っている。
京都や滋賀や大阪とはまったく違う時間が流れていて、
その“深い時間”が、自分のローカル観の底を支えている気がする。
十津川村の静けさは、都市の速度や観光地の視線とは別のリズムを持っている。
そのリズムが、私の中にひとつの“基準”のように沈んでいる。
複数の土地を往復する身体が見ているローカル
ローカルとは、地図の上の境界線ではなく、身体が覚えている場所のことだと思っている。
深く息が吸える場所。
そこにいる自分が、少しだけ楽になる場所。
その土地に立ったとき、身体のどこが緩むのか。
京都・下鴨で育ち、糺ノ森を通って中学に通い、滋賀で働き、大阪の都市のリズムを受け取り、
十津川村の深い時間を身体に沈めてきた。
その複数の土地を往復する身体が、私のローカルの見え方をつくっている。
観光地としての京都でも、生活の場所としての滋賀でも、都市としての大阪でも、
山の奥に沈む十津川村でもない。
そのすべてが重なり合ったところに、私のローカルがある。

これから書いていくこと
これからソトコトペンクラブでは、
こうした“複数の土地を往復する身体”から見えるローカルを、少しずつ書いていきたい。
観光地の内側に沈んでいる生活の層。
生活圏の中にある小さな揺らぎ。
都市の速度に触れたときの身体の変化。
山の深い時間がもたらす静けさ。
そうしたものを丁寧に拾いながら、読者のどこかにある“身体の記憶”と
そっと響き合う文章を書けたらと思っている。












