つげ義春さんと水木しげるさんが暮らした東京・調布へ
僕が編集者だからというのもあるでしょうけれど、自分の好きな作家さんとリンクするような場所に足を運ぶことが多いです。たとえば、世田谷区にある世田谷文学館とか、そういったところで好きな作家さんの展示会があったりするとつい出かけてしまいます。最近だと、兵庫県尼崎市で『中島らも展』が開催されていました。尼崎出身ですから、らもさんは。残念ながらその展示会にはうかがえませんでした。最近の心残りの一つです。ただ、東京で暮らしている僕にとってはぴったりの作家さんの展示があったので、先日、東京都調布市まで行ってきました。『貧困旅行記』を書いた方といえばわかるでしょうか? 漫画家のつげ義春さんです。つげさんの漫画は、僕は大学生くらいのときによく読んでいました。上智大学のバックパッキングクラブのサークルの部室に先輩が置いていった漫画が何冊かあって、そのなかにつげさんの漫画もあったので、それを読んだりしながら、地域に姿をくらましたいみたいな衝動っていうんでしょうか、つげさんの作品を読むと皆さんそんな衝動に襲われませんか? 僕はよく襲われたんですけど。そういう経験もあって、つげさんの漫画には今自分が活動を行ううえでかなり影響を受けている気がします。
静岡県の西伊豆の鏝絵の伝説的な職人・入江長八を題材にした『長八の宿』という作品があって、僕はかなり好きなんです。あの作品に登場する『長八の宿』という旅館は実存しています。『長八の宿 山光荘』という名前ですが、いつかそこを訪ねたいなと思っています。西伊豆の松崎町はプライベートでも何度か足を運んでいたり、松崎町長の深澤準弥さんという素敵な町長さんにもお世話になったりしていて大好きなまちの一つです。その長八の作品を展示する『伊豆の長八美術館』を設計した石山修武さんという建築家がおられます。愛知県に石山さんによる「幻庵」という半径10数メートルもあるような工事で使われる鋼板を構造体にして建てられたとてもユニークな建築作品があり、それは僕が建築に興味を持った一つのきっかけになりました。石山さんが『伊豆の長八美術館』を建てたのは40歳のときですから、30代後半から40歳くらいのときにたぶん松崎の皆さんとお会いしたはずです。石山さんのご著書に『職人共和国だより 伊豆松崎町の冒険』があり、1986年に晶文社から出ているんですけど、僕はこの本がすごく好きで、今でこそ東京の文化人や建築家の皆さんが地域の人たちと出会うということが普通になっていますが、その当時は熱い思いを持った地域の人たちが、その熱い思いに呼応できる建築家やクリエイターの方々と出会う機会っていうのは今ほどは多くなかったと思います。そんななか石山さんが書かれている文章は、松崎のポテンシャルのすごさみたいなことを感動的に、ご自身が心から感動したんだと思うんですけど、それが一文一文に表れていたのもあって、西伊豆にとんでもない熱い思いを持った方たちがつくってるまちが存在し、40年も前からローカルムーブメントみたいなことが起きていたんだなっていうのを気づかせてくれた本です。
『長八の宿』以外にも、『紅い花』とか、『海辺の叙景』とか、『会津の釣り宿』とかも好きです。『李さん一家』もおもしろいですよね。短編作品を読んでいると、映画のように情景が思い浮かんだり、『ゲンセンカン主人』なんかはターニングポイントで実験的な一編になったりもしているので、僕は漫画というよりも文学みたいな感じで触れていた作品が多いです。『無能の人』もそう。流行り廃りのないパーマネントな作品性に惹かれ、今も読み返します。そんなつげさんの展覧会『マンガ家・つげ義春のいるところ展』が、東京・調布の駅前にある『調布市文化会館 たづくり』という公共施設で開かれました。『調布市文化会館 たづくり』は調布のまちづくりや地域づくりに取り組む場所の一つでもあるようで、さまざまな催しが定期的に開催されています。僕はこの展示会に3月に行ったんですが、入場無料でした。つげさんはずっと調布にお住まいで、調布の風景が漫画のなかにも出てきます。お住まいの団地もそうですし、多摩川の河原も作品の舞台になっています。展示会にはずっと行きたいなと望んでいたところ、たまたま日曜日に動ける時間があり、妻も興味があるというので誘って、一緒に世田谷から車で30分間くらいかけて調布へ向かいました。

この展示、本当によかったです。「つげ義春のいるところ」という展示名の通り、50年以上にわたって調布に居を構えていたつげさんが描写したものがたくさん展示されていました。美術史家の山下裕二さんがキュレーションをされているので、その山下さんをはじめとしたキュレーターの皆さんの愛に溢れた展示になっていて、つげさんの作品と調布のまちの歴史を重ね合わせたり、つげさんが住んでいた団地の中には神戸のポートタワーみたいな高い給水塔が立っているんですけど、それも登場したり。その調布の団地で夏祭りを開いているときに、団地音頭という踊りがあったというのが元々の発端で、団地音頭を復活させようみたいなローカルプロジェクトが今動いていたり、つげさんが夏祭りで焼きそば屋さんの屋台をやってて、その売上から300円くすねるっていう挿話があるんですけど、本当にこういう場所のこういう暮らしのなかからつげ作品が生まれてるんだなっていうことがわかって、ローカルの解像度が上がりました。調布は、僕のなかでは京王線沿いの文化的なまちのひとつといった感じで頭のなかに格納されていましたが、つげさんが描いた調布と今の調布がシンクロするような形で展示がなされていて、調布の見方が少し変わっておもしろかったです。
『海辺の叙景』の全ページの複製原画は圧倒的に迫力がありましたね。「色褪せないな、この作品は」と思いながら見ていて、妻も感動したのか真剣に見ていました。そして、つげさんは日本全国いろんな場所に出かけていますよね。特に温泉はそう。群馬の温泉にも随分来られているんですけど、展示のなかにつげさんが訪れた場所がプロットされている日本地図がありました。それを見ると、確かに作品に出てくる山梨の鉱泉宿とか、津軽半島とか、作品として残したところと本人が行かれた場所はしっかりと結びついていました。日本地図に足跡になっている軌跡を見て、改めていろんな場所に行かれているんだなと思うと同時に、山梨が多いとか、千葉ご出身だから千葉も多いとか、僕が日本のいろんな場所を関わりのなかから訪れ、目にした風景と重ねて楽しめました。地域のことが好きな人にもおすすめの展示になっていますね。
つげさんの展示でもう一つよかったのは、つげさんの妻の藤原マキさんの本を手に入れたことです。実は藤原さんは小さな頃に島根県に疎開をしていました。現在の雲南市加茂町です。すごく貧しい日々を過ごされたようで、お風呂ももらいに行くような、もらいに行くのもいつ行けるかわからないようなそんな生活をお母さんと妹さんと送っていたそうですが、彼女は実は唐十郎さんの状況劇場ではかなり人気のあった女優さんでした。つげさんとご縁があってご夫妻になられたんですけど、文化的なところで言うと、芸術家でアングラ芝居をずっとやっていた方なんですが、彼女が書いた『私の絵日記』(筑摩書房)は絵がとてもいいんですよ。息子さんやつげさんとの日々を彼女の視点で綴っていて、アイズナー賞というアメリカの漫画賞を獲っているんです。この本を読むと、つげ一家やマキさんとつげさんの関係性みたいなものが、つげさんの漫画の作品とはまた違う状況がわかったりするのでおすすめです。僕のパーマネント本棚に今入っています。『無能の人』とかにも妻のマキさんとのやり取りが出てきますが、親子3人のすごく豊かな時間を過ごされていたことがよくわかります。ちなみに、かつてジャックスというバンドがありましたが、ボーカルの早川義夫さんが小さな本屋さんをされていた時期があって、『ぼくは本屋のおやじさん』(筑摩書房)っていう本を出していて僕も持ってるんですけど、この表紙を描いたのがマキさんです。僕の本の体系のなかのリンクが増えたのは嬉しかったです。このマキさんの本、いいですよ。元々美術部にいたとかって書いてありました。絵を学んだわけじゃないけど、女優さんでクリエイティブなことが好きな方だから、その日起こったことを絵にされていたんでしょうね。とても心温まる絵です。
僕がこの展示を見に行こうと思った大きな理由は、もちろん作品なども見たかったんですけど、そこで売っているTシャツが欲しかったんです。今年は日本各地で皆さんとお話をする機会も増えそうなので、いつもグランジっぽい着崩れたようなファッションでうかがっているところを少しバリエーションを増やそうと思って、2着買ってきました。1着は『李さん一家』で出てきた、蟹。排水管のなかで蟹が茹で麺をチョキチョキ切りながら食べている印象的なシーンがあるんですけど、その蟹がドンと描かれているTシャツを買いました。このTシャツを着て行く地域があるかもしれないので、そのときは「つげさんの蟹のTシャツですね」って声をかけてくれると喜びます(笑)。もう1着は、『紅い花』のキクチサヨコがアップで描かれているTシャツ。登場人物のひとりである男の子マサジの同級生で、異性の友人なのか、微妙な距離の女の子で、彼女は居酒屋の店主みたいなことをやっています。ある意味でスナックのママみたいな感じのこの可憐な少女のTシャツも買ったので、これも着ていきたいなと思っています(と、この文章を書いている最中に、つげさんの訃報が飛び込んできました。たいへん残念であるとともに、つげさんの作品からおおいに影響を受けたローカルにふと現れる鄙感の魅力をこれからも味わっていこう、伝えていこうと感謝しながら思いました。心よりご冥福をお祈りいたします)。


という感じで、つげさんが目当てで調布にショートトリップで行ってきたんですが、調布といえば忘れてはいけない偉大な漫画家がいますね。水木しげるさんです。鳥取県境港市のお育ちで、奥様は島根県安来市ご出身です。元々、水木さんは神戸で出版社のようなところに所属していて、そこで劇画か挿絵を描いていたんですけど、いまいちパッとしなくて調布に転居したところ、その瞬間にメキメキと頭角を現し、世に見出されていきました。そのためか、みんなから「調布にずっといたほうがいい」と言われて、以来ずっと調布にいらっしゃるっていうエピソードがあります。つげさんと水木さんは調布という共通点だけでなく、漫画のタッチも似ていると思いませんか? 背景とか、ときどきネズミ男みたいな人がつげ漫画にも出てきたりしますが、これはつげさんが、元々水木プロでアシスタントではなく、1人の作家として水木さんから認められていて、助っ人として入っていた時期があったからです。あの黒と、緻密な背景はつげさんが描いている可能性もあるので、そういうところも見つけながら2人の作家さんの素晴らしい作品を追いかけるのも楽しそうです。水木さんは第二次世界大戦中にパプアニューギニアに兵隊として送られ、最前線で戦いながらも現地の村人たちと近しい関係で過ごしていたというエピソードがあります。大変な戦下でこんなふうに日本兵の1人が地元の人たちと交流を深めていたことに感動しました。その交流をまとめたのが『トペトロとの50年』(中央公論新社)という本です。トペトロっていうのは村の男の子の名前で、水木さんと仲が良かったそうです。戦争が終わった後にトペトロと再会したんですよね。
水木さんは調布を代表する作家であり、日本を代表する作家であり、もう1つ、素晴らしい県を代表する作家です。鳥取県です。米子鬼太郎空港に行くと鬼太郎とその仲間たちがいっぱいいます。鳥取県って、自分たちの目指す方向に思い切り突っ走っているなと思うことがあります。鳥取市にある空港は鳥取砂丘コナン空港ですが、最近鳥取県のお仕事で通っているので鳥取コナン空港も使っています。空港って、羽田空港でも伊丹空港でも夜になると電飾で空港名の掲示板が光ります。鳥取砂丘コナン空港の電飾掲示板は、コナンの書体でつくられてるんですよ。すごくないですか? 空港のなかにもコナンに関する展示やスペースがあって、テーマパーク感が半端ないです。コナン好きにはたまらない「オールコナン」って言っていいくらいの空港です。そういう意味では、鳥取は東にコナン、西に鬼太郎という感じで漫画の神様に選ばれた県だなと思ったりします。水木さんは調布の名誉市民になっておられるからか、調布に行くと『鬼太郎茶屋』とかに水木さんの『ゲゲゲの調布ガイド』というガイドブックが置いてあり、これがすごいんです! 僕も含めて、紙の編集者が見習うべきことがこの1冊には凝縮されています。水木さんの生い立ちとか、調布との関わりとか、作品とか、市内ゆかりのスポットの紹介なんかもいっぱい書いてあるので、これ1冊あると調布を訪れるのがますます楽しくなります。そして、このガイドブック、無料なんですよ。編集者の愛とユーモアが溢れていて、調布市がそれを許しているところがまたいいなと思うんですが、キャプションが結構クスっと笑えたり、ゲラゲラ笑えたりするものがここぞとばかりに入っているんです。おもしろかったのは2000年に市議会議場で行われた名誉市民の顕彰式のこと。水木さんは、「嬉しいと言わざるを得ないし、悲しいと言えないですな。まあ、ありがとうございましたということで終わりでございます」と。記者会見でも「これからは勲章をもらったような歩き方をしなきゃならんし、表情もそれなりにしないと苦心しています。悩みの種が増えました」と。こういう調布の市民に愛されている、すごくマイペースな水木さんらしいコメントがいっぱい掲載されているので、もし調布に行かれたらぜひ『鬼太郎茶屋』とかに置いてあると思うので、1冊手にされるといいですよ。僕も1冊いただいて、ゲラゲラ笑いながらもしみじみと読んで、自分のパーマネント本棚に保存しています。ちなみに、『鬼太郎茶屋』は2003年10月に深大寺というお寺の参道にオープンしました。鬼太郎がテーマになっているお土産屋さんでしたが、2024年には調布駅前の天神通り商店街に移転しています。ぜひ立ち寄ってみてください。

僕の知人に切り絵アーティストの福井利佐さんという方がいます。美しく、すごい力のある作品をつくられる尊敬する作家さんで、『かがくのとも』(福音館書店)などで、虫や樹木をテーマにかっこいい切り絵を描いておられます。福井さんとは公私ともに近しくさせてもらっていますが、その福井さんの展示が2019年に調布で開かれたときも『調布市文化会館 たづくり』に行きました。そのときは、駅前が京王線の地下化を伴った大規模な再開発の工事が行われている最中でしたが、それ以来、久しぶりに調布に足を運んだので、その記憶とともにすごい綺麗になったなと思ったのと同時に、『鬼太郎茶屋』もとても近いなと感じた訪問でした。天神通りには一反木綿や猫娘など『ゲゲゲの鬼太郎』に登場するキャラクターのフィギュアがいっぱい置いてあるので、大人も子どももその前で写真を撮って楽しみながら歩けます。誰からも愛されるキャラクターをつくった水木さんの偉大さに改めて感心しました。
調布で思い出のモンゴル料理を堪能
ここから話は横道にそれます。『マンガ家・つげ義春のいるところ展』を見終わったらお昼を過ぎた頃だったので、ご飯屋さんに行きました。『青空』という名前のモンゴル料理店です。元々幡ヶ谷にあった老舗ですが、調布銀座に移転オープンしていました。なぜモンゴル料理店に行ったかというと、僕と妻は2人でモンゴルを旅したことがあるからです。偶然といえば偶然ですが、その旅は、本当はモンゴルではなくアマゾンに行く予定だったものなのです。当時僕は『ソトコト』の編集者に成り立ての頃でした。2004年か2005年くらい。その前まではずっとアウトドアと釣りの雑誌の編集者をしていたこともあり、偉大なアウトドアフィールドとも言える海外の大きな川や湿原に行って釣りをすることが僕のなかでは定期的なルーティンでした。そういう思いから訪れてみたい場所が世界にいくつかあって、タイミングよく休みが取れたら行くみたいなことに自分の遅い夏休みを充てていたんです。僕は夏休みを大体、秋以降に取っていました。以前、9月くらいに2週間近く休みを取って津軽半島に通っていた話をしましたが、季節的に10月くらいに夏休みを取るといいことが結構あるんです。日本を含めて世界の巨大な魚は大体そのタイミングがハイシーズンということもあって、釣れる確率が上がるんです。厳しい冬の季節に備えて荒食いをするとか、北半球、南半球いずれも産卵前の活発なときに入ることがあるので、大きな魚に出会える確率が上がります。それが9月、10月、11月くらいなんです。そういったタイミングを見越して、元々はアマゾン川の下流域にあるメシアナ島という巨大な中洲のような島に行くことを企画していました。すでにチケットも手配して、お金も振り込んでいる状態で、妻と2人でそこに行って世界最大の淡水魚、ピラルクを釣るっていうシナリオを考えたんです。
ただ、当時は世界の辺境で怪魚を釣るというルートを実現することは今ほど簡単ではありませんでした。知り合いに紹介してもらって、地元のガイドさんと直接英文でやり取りすることが主流でしたが、このときは海外の辺境で釣りをすることを専門にした旅行会社が世界にはいくつかあって、そのひとつにお願いをしました。で、その日程で僕と妻は行けるんですけど、一つネックがありました。何かというと、巨大なアマゾン川の下流域ですから、めちゃめちゃ広いわけです。日本列島がすっぽり入るくらいの川幅みたいなところもあるかもしれないほどです。そのなかの島に行くとなると、飛行機でないといけません。その飛行機も定期便が出ているわけじゃないから、必然的にチャーターフライトになります。その飛行機を2人で借りるとなると半端なく高いわけです。なので、僕と妻はエントリーしていますが、乗客が9人くらい揃わないと飛ばないっていう、そういう前提条件付きで僕たちは申し込みました。まあ、世界は広いですから、世界中の釣り好きがこのタイミングでアマゾンに来るだろうと思っていたら、なんと僕たちしか手を挙げなかったんです。結果的にフライトが難しくなり、全体のスケジュールも最少催行人員にならなかったため、キャンセルになりました。僕のなかではピラルクを釣るっていう自分の人生のなかの設計が白紙になったわけです。ピラルクって最大で2メートルから3メートル近くあるんです。だから、今の年齢でピラルクを釣りに行くって、たぶん無茶なんです。間違いなく引きずり込まれるでしょう(笑)。あのときは30代前半だったから引きずり込まれない自信がありました。情熱と体力と夢が重なるぴったりのタイミングだから、これはもうピラルクだなと思っていたんですが、それができなくなった。だけど、休みは取っている。そして、滋賀県にある伝説の釣り竿メーカー『カーペンター』の小西健滋さんにお願いをしてピラルク用の釣竿をわざわざつくってもらったばかりでした。「アマゾンに行ってこれを使うぞ」って意気込んでいたところアマゾンに行けなくなったので、「であれば、この釣り竿が使える世界の釣り場を探そう」ということになったわけです。その時間で大きな魚に出会える場所。ただ、探すといっても、当時はGeminiもないし、Google 検索もそこまでの情報量があったわけじゃないから、情報を調べるといっても僕の頭のなかのライブラリーで調べるわけです。自分が今までストックしてきたなかから「この時期の、この世界で、この竿で挑戦するに価値がある場所はどこだ?」と頭のなかでSASHIDE検索(笑)がかかって、それで1番に上がってきたのがモンゴルでした。「モンゴルのロシアとの国境を流れるオノン川に行こう」と。妻も元々キャンプや山登りが好きで、宮之浦岳と永田岳、いわゆる鹿児島県の屋久島の縦走を僕よりはるかに多く経験しているので、「いいね、行こう」みたいなノリになってモンゴルに行くことが決まったんです。ということで、用意していたすべての装備をモンゴルにシフトして10日間くらい、首都のウランバートルから車で7、8時間くらい北に行ったオノン川で過ごしてきました。この経験が僕のこれまでの釣行歴のハイライトの一つだったこともあり、モンゴルは僕の心に残る好きな土地なのです。
幸いなことに、モンゴルには日本に生息するイトウの仲間がいます。現地ではタイメンとも呼ばれる、最大で2メートル近くになる巨大な魚です。世界最大の淡水魚がピラルクであれば、世界最大のサケマスがイトウです。モンゴル全域のいくつかの川にいるんですけど、僕はオノン川に行きました。このまま話を続けると長い釣行記になってしまい、釣り雑誌なら許されますが、『オン・ザ・ロード』は釣りのメディアではないので話を端折ります。釣行最終日に巨大な魚を釣りました。1メートル20センチ。ただし、狙っていたイトウではなくてアムールパイクという魚です。これも釣ってみたいと思っていた憧れの魚だったのでとても嬉しかったのですが、僕が釣ったその魚は体重が15キロもありました。ビンデルっていうまちがオノン川沿いに位置していて、そのビンデルのロッジレコードになったんです。その後二十数年が経ちましたが、釣り雑誌をつくっている編集者の皆さんからも、「こんな大きいアムールパイクは見たことがない」って言われているので、たぶん世界記録なんじゃないかな。そのときに正式に申請をしていれば世界記録の公認を取れたかもしれませんが、申請しなかったので取れていません。IGFA (インターナショナル・ゲームフィッシング・アソシエション)という組織が世界記録を決める機関として存在しており、厳密にいうとオフィシャルのメジャーとか測り方とか、申請の仕方とか統一のルールがあります。ただ、僕は世界記録を釣ろうと思って行ったわけじゃないのでそういったものを何一つ用意していませんでした。だから、ガイドをしてくれたエンケさんとガウリさんというモンゴルの男性2人が「これはもうレコードだよ」と言ってくれたのだけが僕の心の支えですね。僕はそのときにホルガっていうおもちゃみたいなガラスレンズのカメラを持っていて、バシバシ写真を撮っていたので、ポジフィルムのエモい写真がいっぱい残っていて、このアムールパイクのことは自分の仲のいい編集者の宇野章則さんが編集していた『トラウティスト』(現『鱒の森』)という釣り雑誌にカラー8ページで特集してもらいました。記事も自分で書いていて、その号は今も大切に手元に保管しています。巨大なアムールパイクは元気に水に戻って帰っていきました。もっと大きくなっているといいですけど。

それで、調布でなぜモンゴル料理店に行ったかというと、モンゴル滞在中にガウリさんとエンケさんとその妻や従姉妹もみんなが僕と妻のためにガイドでついてくれて、朝昼晩の料理をつくってくれたんです。パオに泊まったり、シンプルな丸太小屋にみんなで泊まったりしながらです。一応僕たちはお客さんという扱いにしてくださっていたので、羊肉を塩茹でした料理とか、モンゴル餃子のボーズやホーショルなど、挽き肉がいっぱい入っている薄く揚げた食べ物があるんですけど、すごくおいしくて、しかもロシアとの国境ですからキャビアも食べ放題。朝からキャビアを山盛りに乗せたライ麦のパンを食べたりしながら、道中立ち寄ったモンゴルのローカルスーパーにはずらりとウォッカばっかりが並んでいて、それを買ってストレートで飲みながら羊肉にかぶりつくなんて夢のような食事を体験しました。その夢をもう一度、みたいな感じで、久々に妻と『青空』の扉を開いたわけです。おいしかったですね。思い出しました、モンゴル。また行きたいな。今度は息子も連れていきたいです。調布を訪れて、つげ義春さんと水木しげるさんに僕の30代のモンゴルのいい思い出に誘っていただいた感じがして、東京のローカルのよさを堪能した1日を過ごすことができました。
大崎紀夫さんと和竿
つげさんの話をしたのには大きな理由があります。『つげ義春流れ雲旅』(朝日新聞出版)っていう本を長年持っています。この本は、30年間の厳しい生存競争を生き抜いている僕のパーマネント本棚で、読まないと入れ替えたりする本があるなかでも際立った不動のポジションを保っています。いわば「殿堂入り」ですね。殿堂入りの本にも多々あって、そのうちの一つは『釣りキチ三平』全巻だったりするんですが、『つげ義春流れ雲旅』も比肩しています。下北半島から始まった旅の話で、つげさんが挿絵を描いていて、写真家の北井一夫さんが写真を撮って、朝日新聞社に勤めていた大崎紀夫さんという記者が文章を書き、1969年から75年にかけて日本の各地の風景のなかで、かっこいい大人3人が一緒に旅をしながら全国をフレーミングしたっていうのかな、雲のようにふわふわと出かけた地方旅の記録です。1970年前後なんで、僕が生まれたくらいの日本ってこうだったんだと想像を喚起させてくれるところもあります。今も新しい形で販売されています。僕の持っている本は昔に出版されたものなので、またかっこいいんですけど。話したかったのは、大崎さんのことです。大崎さんは詩人であり、俳人であり、紀行作家でもある方です。元々は実家の家業の水道管工をされていて、思い立って東京大学に入学し、その後朝日新聞に入社して、『短歌朝日』とか『俳句朝日』とかの編集長になっている方で、全共闘時代は学生運動にのめり込んでいたようです。どちらかというと「自分の人生は敗北から始まった」みたいな表現を書かれたりする人なんですけど、敗北って言葉の使い方もさすが詩人だなと思いました。その流れ雲旅の文章が本当によかったので、僕は大崎さんの本を買うようになったんです。そこで大崎さんと僕の最大の共通項を見つけてちょっと飛び上がりました。なんと彼も釣り人だったんです。しかも、釣りのスタイルがご自身が小学校の頃にやっていた、竹竿とかのべ竿に唐辛子浮きみたいな浮きをつけて1本の針で釣るやり方にこだわられている。大崎さんの地元は埼玉県戸田市ですね。戸田ボート場みたいなところで釣りをしたご経験からなんだと思います。

僕は、趣味はフライフィッシングとか、ルアーフィッシングとかチャラチャラしたことをよくいいますが、大崎さんは昔ながらののべ竿で浮きをつけて、コイやフナを釣るのが彼にとっての釣りであるという観念のもと、日本の各地を釣り歩いた本を出しています。『全国雑魚釣り温泉の旅』(潮出版社)と、『にっぽん雑魚釣り紀行』(新門出版社)がその筆頭なんですけど、この2冊をもし読んでいただくと、僕の源流はこれだなってすぐわかっちゃうんです。僕は地域創生と釣りを重ね合わせて独自に話しているように捉えていただきがちなんですけど、自分が今やっていることは大崎さんがかつてやっておられたこととほとんど同じなんじゃないのかなって思えるほど、そこに僕がいるかのように読めるんです。彼は基本、宿に泊まらないで、車でバーッと走って釣り場に向かいます。1970年代のあの当時に東京圏から東北自動車道などを使って秋田に行ったり、中国道を使って津山に行ったりしている人ってたぶんあんまりいなかったと思うんです。行って、橋の下に車を停めて野宿をしたり、釣ったフナを食べたりしているっていう。そして東大仏文出身ですからすごい文章を書いているわけです。やっていることは、地元の小学生の子どもがのべ竿で釣りをしているところを覗いて、「こっちの方が釣れますよ」などとその少年たちや周囲のおじさんたちと話しているような文章なんですけど、ときどき描かれる光の描写であったり、60年代の敗北した若者のやるせなさみたいなものを読むと、釣りの紀行文をここまで高められるんだな、文学を学んだ人はこういう文章が書けるんだな、僕が地域を訪れて書いてみたかったのはこういうことなんだろうなって感服しちゃうくらい、僕にとっての人生の元ネタ本のひとつになっているのです。大崎さんは詩集とかいろんな本を出されているんですけど、僕のなかではこの2冊はつげさんの本の横に並べてあって、お友達みたいな本として大事にしています。「釣りをしていて何が楽しいんですか?」って聞かれることも多く、魚が苦手な人もいるし、わざわざ遠くまで行くことを不思議がる人とか、寒いのに水辺に行くこととか、大雨のなか出かけたりみたいなことが何をもたらしてくれるのかって僕もときどき考えることがあります。東北にサクラマスを釣りに行って、4日間貴重な休みを使って何のアタリもなく1匹も釣れないで散財して帰ってくるだけみたいなこともあるので、往復の飛行機代とか考えると、僕はなんで釣りに行くんだろうって思うんですが、それに対してのとても近い心境みたいなことが大崎さんの本のなかには書かれていました。答えは1つじゃないのでここでは言及しませんが、そういう気持ちを風景のなかに置いておきたいって思うフレーズが連発します。釣りが好きな人はもちろんですが、「なぜ人は地域に足を運ぶのか?」とか、「なぜ人は今いる場所でない別の場所の自分に出会おうとするのか?」ってことが書かれているように感じられるのです。
僕の釣りも1本の竹竿から始まりました。僕の家系では釣りが趣味の人って先祖代々いなかったみたいです。なので、誰からも釣りを教わってないし、全部独学で本と雑誌から学びました。釣りを好きになったきっかけは、大きくわけると2つあります。1つは、それこそつげ義春さんの漫画で、『無能の人』のなかに収録されている『鳥師』という話があります。黒いマントを着て肩に鳥を乗せて小鳥店に鳥を売りに来る男の話ですが、小鳥店の店主はその男から鳥を買うんですけど、最後、冷たい雨が降っているときに、だいぶ元気がなくなっている男が肩に大きなゴイサギを乗せて持ってきました。けれども、でっかいサギはうちでは引き取れないみたいなことを店主が言ったら、男と肩に乗ったゴイサギは雨のなか寂しそうに消えていきました。それを追いかけていった店主が見たのは、多摩川の水門の上に立っている男がそこから鳥のように飛び立つ姿でした。そんな作品があるんですが、僕の祖父も趣味人で、チャボを飼ってみたり、メジロに餌をやって鳴きをよくしたり、菊の花を愛でてみたり、明治生まれの男性にはそういうことが好きな人たちが一定数いたんでしょうね。特に鳥が好きで、家でいろんな鳥を飼っていたんです。カナリアとか、僕が幼稚園児のときにはクジャクがいた記憶があります。オスとメスがいて、メスがなくなってしまったので、途中からはオスだけが祖父が自分でつくった鳥舎で飼われていました。僕が幼稚園から帰ってきて、鳥舎のなかにいるクジャクの姿を網を掴みながら見ていると、そのクジャクがゆっくり僕の前に歩いて来て、ダーッと扇のように羽を広げるんです。そして、震えながら求愛のダンスを踊るんです。たぶん僕をメスのクジャクだと勘違いしていたんでしょうね。それから、カナリアの鳴き声をよくするためには餌に淡水魚のすり身を与えるといいっていう情報があったみたいで、祖父はわざわざ投網を打つようになって、しかもその投網も趣味人なのでナイロンじゃなくて、群馬といえば絹糸ですからシルク製の投網を特別注文して何個も持っていたんです。そんな時代だったから、そういう投網職人もいたんでしょうけど、それを持っては近くの烏川に行って、鳥のためにすり下ろす川魚を網で捕まえていたのですが、その網から外れた魚をバケツに入れる役が僕だったんです。子どもだから川のなかに網を投げていろんな魚が獲れたら嬉しいじゃないですか。地引き網体験と似たようなもんですね。何がかかってるかなみたいな。その投網漁についていっているうちに魚が好きになったというのが釣りを始めたひとつの流れです。
そしてもうひとつ。僕の父親は、釣りとかに興味はなく、仕事が終わると家の近くのスナックによく飲みに行っていたんですが、そこに僕も連れて行かれてました。まだ小学1年生とか2年生だったので、行ってそこでアメなのかお菓子なのか焼きそばなのか、そういうのを出してもらって食べていたと思うんですけど、そのお店には元気なママと、ルパン三世の声をされていた山田康雄さんみたいなマスターがいたのです。元気なママの後ろに隠れた細身の、ママが話をしている後ろで頷いているくらいの役回りの静かなマスターがいて、僕のなかではスナックはそういうイメージがあります。僕がスナックイベントをやるときっていうのはそのマスターの仕草がお手本なのかもしれません。後ろでニコニコしていて、ちょっと頼りなさそうな、でもいないと寂しい感じの存在。そのスナックとはご近所づきあいみたいな感じで母親も来たりしていたから、仲のいい関係性でした。ある日そのマスターが、僕は一正で「かずちゃん」なんですけど、「かずちゃん、今度釣りに連れてってやるよ」って言ってくれたんです。「釣り、やったことない」って答えたら、「いいよ、行こ、行こ」って、「秘密の池があるからそこ連れてくよ」と誘われて、群馬の、秘密の池だから言っちゃいけないんですが(笑)、高崎から西の方に向かった地域にある古い住宅街に取り残されたような池があって、そこに連れて行ってくれたんです。マスターはピカピカの釣り竿とか最先端の釣り竿を持っている様子はありません。その当時の駄菓子屋でよく見かけた竹だけでできている竿、振り出し竿でも継ぎ竿でもなく、その一本竹の竿を僕のために用意してくれて、それを持って、弟も一緒にいた気がしますが、兄弟で連れて行ってもらって、小学2年生くらいの僕と幼稚園の年長くらいの弟とマスターと男3人でそこで釣りをしました。その池はおもしろいほど釣れたんですよ。初めての経験でしたが、常に浮きがピクピクしていて、オイカワとかヨシノボリとか、中流域のスターティングメンバーっていうのかな、普段見慣れている淡水魚がいっぱい釣れて、僕は釣りの楽しさに開眼しました。マスターという、知っているようで知らない人と、父親のような血縁ではない大人にどこかに連れて行ってもらうのは初めてくらいだったし、秘密の池っていう響きにも惹かれたし、しかもおもしろいほど魚が浮きを絞るというのもあって、なんか楽しい経験としてインプットされたんでしょうね。そこから僕は釣りを好きになりました。これ、『オン・ザ・ロード2 スーパーウェルビーイング』の後半に、地方新聞の連載用に書いた息子との釣りの記事を加筆して掲載しているのですが、そのなかの最初の一編がマスターと行ったこの秘密の池の話です。
最近は、大崎さんの文章や大崎さんが夜討ち朝駆けみたいな感じで日本各地の川や沼や湖に出かけていった1970年代の釣行記を読むにつけ、僕もこういう感じで地域に釣り糸を垂らしてみたいなって思うようになってきました。それは今までやってきた趣味としての釣りと何が違うのかって聞かれると、厳密な違いはないんですけど、趣味をもっと肩の力が抜けた形にしていきたいなという気持ちが膨らんできています。そんな矢先、昨年末に僕は大変に尊敬しているある先輩からご連絡をいただいて、その方がお持ちになっている70年代とか80年代くらいの江戸前の和竿を、「よかったら預かってもらえないか」みたいな話をいただいたんです。釣り竿って、元々は竹から始まっているので文化としては竹竿なんです。だけど、単純にさっきの僕の原体験のような駄菓子屋の店先で売っていた、子どもたちにも手の届く範囲の節のある竹をそのまま切ったような竿ではなくて、職人と呼ばれる人たちが江戸工芸の粋を尽くして、火入れをしたり、漆塗りをしたりとか、緻密な継ぎ方をするように仕掛けを施したりしたような江戸前の和竿という文化があります。なかでも名のある職人が世襲で何名かいらっしゃるんです。伊万里や有田で言ったら、柿右衛門とか今右衛門といった流派がありますが、和竿の世界にも流派があって、その1つの釣り竿群を預かることになりました。預かると言っても厳重に保管するっていう意味ではなく、「自由に使ってみて」っていうありがたいご意向をいただいたので、気持ちは多少楽でした。昔の布製の袋とかに入った『東作』の竿がメインです。かなりの数の竿を預かっていて、1本ずつ出して継いでみたんですが、それぞれ用途が違うんですよね。僕の尊敬する方は釣りをされないので、その方もまた別の先輩から以前にお預かりになられたみたいです。江戸前の釣りっていうと、たとえばハゼ釣りとか、手長エビ釣りとか、キス釣りとか、フナやアユ釣りもありますが、それぞれのためにつくられたことがよくわかる状態の複数の用途の竿が何本もあるので、「江戸前の釣りをやる年頃になったってことなんだろうな」と思って、今年はハゼとかキスとかテナガエビとか、料理をするとどれもビールに合うんですが(笑)、そういう釣りをやろうかなと。キスは海ですが、ハゼは川ですね。それこそスカイツリーの近くの運河とかで釣るんですよね。テナガエビも。僕は1、2年に1回くらいのペースで日本の淡水魚のことが大好きな男子4人くらいで、飯田橋の餃子屋さんに集まってみんなでひたすら淡水魚の話をするのが楽しみの1つなんですが、そのメンバーは環境省総合環境政策統括官の秦康之さん、タナゴ釣りの権威である熊谷正裕さん、小学館などの魚の図鑑の撮影をしている水中写真家の松沢陽士さんです。この尊敬するお三方とアブラヒガイやコシノハゼなどの話をしたりするのが好きなんです。そういうなかでは和竿の世界も1つのジャンルとしてあって、和竿で釣る楽しさを大事にしている人たちは厳然としていらっしゃいます。和竿の職人の方々もいらっしゃいます。僕がお預かりした和竿の中に継ぎの部分が赤い漆で塗ってある竿があって、それがすごく綺麗なんですよ。たぶん女性が使うことを意識してデザインしたんじゃないかなっていう色のトーンで、今年はそれを使いたいなと思ってます。僕が持っている和竿のなかの何本かがそういう優しいデザインなんです。この竿を用いて多摩川でフナとかオイカワとかテナガエビを釣ってみたいな。
水循環アドバイザーとして小諸商業高校へ
僕は国の委員をいくつか務めていますが、国から派遣される仕事も行っています。水循環アドバイザーです。水循環は国の治水で大事にされている考え方で、より広い人たちに知ってもらおうとしています。なぜ水循環が大事かというと、水はその場所でとどまらないで、海に流れていって、蒸発して、雨になって山に降り、川となって田んぼを潤したり、工場で使われたりと経済活動にも寄与するからです。人工的な流れも含めて水循環っていうんですけど、最近は地球温暖化で冬は豪雪、夏は極地的豪雨が起こったりしているので、これまでみたいな水循環ではなくなってきているのも事実です。干魃が起きたり渇水が起きたり、そういったことも含めて地域を健全に保っていくために水循環という考え方をより理解をしていこうということです。人の活動や環境保全に果たす水の機能が適切に保たれた状態を健全な水循環と定義して、たとえば人間が水を飲料用とか産業用として利用し、その後下水として排出する過程も自然の循環系の一部として考えるのですが、こういったことがわからないまま暮らしているよりは、理解してもらうことで水を綺麗に保つとか、効率よく使うとか、水に触れる情操教育とか、そういったことがもっと広がっていくといいなっていうことで、水循環という考え方を国は啓蒙しているのです。僕は水循環アドバイザーという役をおおせつかって今6年目くらいです。大学で地下水マネジメントを研究していたわけではないので、地下水マネジメントはそれを専門にやってらっしゃる尊敬する大学の先生方がその領域の水循環アドバイザーとして名を連ねていらっしゃいます。僕はどちらかというと、水の役割とか水が地域にもたらす豊かさみたいなことを、若い世代の皆さんや、流域に暮らしていらっしゃる皆さんにわかりやすく伝えるメディアの係みたいな感じで水循環アドバイザーを担当しています。水循環アドバイザーは30名ほどおられ、リストになっていて、「この人に来てもらってアドバイスしてもらえるといいな」という感じで、各市町村が水循環アドバイザーの制度を活用したいと考えたら手を挙げて内閣官房に伝えると、アドバイザーに要請の連絡が来るといった仕組みになっています。僕はこれまで高知県高知市と栃木県小山市、今回は長野県小諸市から声をかけてもらってその役目を果たしています。高知市は南海トラフや流域の人のつながりといったキーワードでお招きいただきました。小山市はコウノトリがやってきたり、ラムサール条約の指定湿地である渡瀬遊水池があったりするので、まちと自然がちゃんと機能するための水を介したつながりみたいなことを考えたまちの未来ビジョンをつくる機会があり、そこに合わせた形でお招きいただきました。

去年から声をかけていただいた小諸市はまたちょっと違っています。小諸商業高校の2年生の皆さんに、水の大切さをテーマに、小諸の水の豊かさを文章にしていく、そのレッスンをする講師役として呼ばれました。実は、最初は高校生たちに水循環を理解してもらうための水循環のイラストをつくるワークショップをやりたいという小諸市からの依頼でした。ただ、さっき僕がお話ししたように、山に降った雨が川になり、地下水になって海へと流れ出て、蒸発してまた雨になっていうのが正解なので、それ以上の新しいものは出てこないんじゃないかなとも思っていました。それをイラストにするのももちろんいいのですが、いろいろな意見が出てきた方が刺激になるでしょうから、水とは何かをみんなの書きたい形で文章にするという方向を提案したら、「それはおもしろそうですね」と言ってくださったので、水の豊かさを文章にする講座をすることになりました。編集者として文章に関与する仕事を続けているので、専門分野と重なる部分があるのでやりやすいというのもありました。こちらからの提案を受け取ってくれた小諸市役所の皆さんや小諸商業高校の先生、生徒の皆さんに感謝しています。スタートして、月に1回くらいのペースで小諸商業高校の生徒の皆さんの文章づくりにご一緒してきました。小諸は島崎藤村が先生として滞在していた場所でもあり、また懐古園でも有名で、僕も小学生の頃によく親に連れてってもらったので、高崎の僕からしてみるとお父さんやお母さんと一緒に遊びに行く範囲でしたから親しみを感じていたまちでもあります。そもそも、小諸は浅間山に降った雨の伏流水が湧き出る豊かな水の都なんですよね。浅間で何十年も磨かれて出てくる水が半端なく透明で、美しくて、飲料水としてもとてもおいしい。自噴しているところがあって、そこは一般の人もタンクやペットボトルを持って汲みに来ています。その水は確かにおいしく、小高い丘にワイナリーがあったり、最近だとウイスキーづくりが小諸市の一押しのプロジェクトとして始まったりしています。浅間のなだらかな山麓の裾野にある河岸段丘の風景が眺められるまちですが、水とこんなに縁があるんだなってことを改めて知った次第です。
小諸商業高校ですが、普通高校の小諸高校と合併して長野県小諸義塾高校という名前でこの4月からスタートしました。商業高校の行事として、水循環のことや小諸の水の豊かさを文章にするという特別授業を先生も生徒の皆さんも大事にしてくれたので、僕の話を真剣に聞いてくれたり、いい文章を書いてくれたりして、水循環アドバイザーとして派遣された僕にとっても学びの多い高校生たちとの交流の時間になりました。授業ではまず僕がどういうふうに文章を書いているかを話しつつ、文章の書き方を伝えてから、実際に文章を書いてもらいました。それが150字くらい、僕はいつもなるべく短い文章のなかでどのくらいおもしろく豊かに書けるかを練習するといいと話していますが、高校生130人の皆さんにも150字くらいで自分が思う小諸の水について自由に書いてもらいました。すると、小諸はおそばが有名で、おそばのおいしさと水のおいしさにいつも感謝しているみたいなことを書いてくれる高校生もいれば、自分の家のレストランで流れてくる音、野菜を洗う音や沸き上がる湯気とかも水だと、水の表現を広げてくれる生徒がいたり、口語体で水を友達のように語った生徒もいたりと、高校生が水っていうものをこんなにも解放してくれたのです。水といえば硬度が高いとかそういう話ばかりになっちゃうかなと心配していたらそんなことはなく、人は自分と対峙する対象物との間で化学反応が起きると個性のある文章になるんだなっていうのがわかりました。高校生が書いた文章に対して僕が講評する回もあって、たとえば、「短歌の先生みたいな美しい言い回しですね」とか、「そっけなさが効いてて、かっこいいですね」とか、僕が感じた感想を話したところ、校長先生や担任の先生たちも喜んでくれて、結果的に高校生たちと、講師は僕ともう1人、僕は文章を教える講師だったんですけど、川口洋一郎さんっていう小諸のまちづくりを行っている方が講師として入られていたので、その方も含めて先生と高校生のディスカッションを小諸のホールで公開でやりましょうということになりました。そして2月21日には小諸のステラホールでその授業の成果発表とディスカッションが行われました。大勢の小諸のみなさんが会場に来てくれて、高校生が自分の書いた文章をハキハキとした口調で発表すると拍手や感嘆が湧き起こり、まち全体で小諸の水の魅力に気づき直すよい時間となりました。来場者アンケートの結果も大好評で、「高校生の表現力に感動した」「感情が入って目頭が熱くなった」「自分は水が豊かなとてもいいまちに住んでいるんだな」などとコメントがたくさん寄せられ、前向きな言葉がまた前向きな言葉を呼ぶうれしい連鎖が生まれたと思います。
水循環アドバイザーは、普段は当たり前すぎて話題にならないものをちゃんと取り上げることが大事なんだろうなと改めて気づかせてくれた小諸商業高校の皆さんとの時間でした。水とか空気って普通にあるものだし、今熱い「推し」のジャンルでもないしって思いがちですが、自分を取り巻いている環境のなかには空気もあれば、火もあれば、涙もあります。当たり前だから口にしてもそれほど新鮮味がないものが多いわけです。そういうものに言葉を与えるということが、実は自分の暮らしが当たり前のように過ぎていくなかで抑揚をつけることになるのかもしれません。自分のご実家のレストランを水で表現された彼女は素晴らしいです。その意味では、きっかけやお題を持っていく人みたいな感じで水循環アドバイザーの仕事は自分らしく進んでいるんじゃないかな。知人や友人から「国や県の委員って、何やってるの?」って質問されることも多いです。例えば、最近では群馬県の観光審議会の委員を務めさせてもらっていますが、「群馬の温泉や旅行のスタイルがこれからこうなっていけば」と皆さんが期待し、思いを寄せるなかで、その会議では自分自身の最近の経験を話したり、故郷・群馬のことをこう思うみたいな話をしたりしています。今回、水循環アドバイザーとして依頼を受けた小諸市では、実際に小諸に足を運んで高校生や先生たちとお話をして、その後、小諸のおいしいソーセージ屋さんに移動してみんなで熱々のソーセージを食べながら小諸のまちのことを語り合っていました。そう考えると、国や行政の委員の仕事と『ソトコト』の編集長として普段やっている仕事にはあんまり差がないのかなと感じたりもしました。
ミニ・プロジェクト
以前、僕が『オン・ザ・ロード』の連載で話した、ミニ1000という車のことを覚えていますか? この車は、僕が20代の頃に乗っていたもので、乗らなくなった後も父親が実家の工場に大切にしまってくれていたおかげで、埃まみれでボンネットや屋根の上は猫の足跡だらけではありますが、当時のままの状態で保管されていました。この車をゆくゆくはリジェネレーションしたいと書きましたが、当時は世田谷区を襲った線状降水帯のせいで自宅の屋根裏から水が滝のように落ちてきたために、予算をその修繕費に回さないといけなくなってお金を用意できなかったのです。そしてしばらくの時間が経ち、意を決して2026年1月に直し始めることにしました。1989年に製造されたローバーという自動車メーカーのミニという車種で、排気量が999ccなのでミニ1000と呼ばれています。当時のミニは、ちょっと色を変えた程度で特別限定車というふうにして販売されていました。限定販売っていうとみんな心がくすぐられるじゃないですか。ビジネスでは定番の商法だと思うんですが、僕はこの車を大学の先輩のご実家が営む中古外車ディーラーから破格で譲っていただきました。この車も限定車です。実際の正式名称はミニスカイ。アルムホワイトっていう、当時のミニは少し黄色が入ったようなアルムっていう名の花っぽい、ちょっとベージュがかったような白い色をしていました。ミニスカイは空っていう言葉が表すように、屋根だけ水色でした。でも、僕のところに来たときには屋根もアルムホワイトで塗られていて、側面もピンストライプの水色のラインが入っていたはずなんですが、それもありませんでした。当時の1989年のカタログをヨーロッパの人がYouTubeで解説しているレアな映像を見つけて、解説を聞いてわかったのですが、そういうラインが側面に入っていたみたいです。でもそれも全部白でリペイントされていて、僕の家にあるのはそのアルムホワイトの、ちょっとベージュがかったクリームっぽい白いミニなんですけど、世界で500台しか限定で販売されなかったって説明されていました。その500という台数が多いのか少ないのかわからないんですが、それと姉妹車としてミニローズっていう車もあったそうです。ローズですから屋根がピンク色でした。スカイとローズというのが、それぞれ500台ずつの限定で1989年に販売されたわけです。その後2年くらいすると、ミニは排気量が1300ccに大きくなるんです。なので、ミニが好きな人たちのなかではミニ1000っていうモデルは根強い人気があります。スカイもローズも小さな車ですが、その硬い乗り心地とかエンジン音が好きっていう人もいるみたいなので大事にしないといけませんね。
この車、いつか直したいなと思っていましたが、今年取り組もうとした理由の1つは、高崎に定期的に戻る仕組みをつくりたかったからです。今、母親が高崎の実家で暮らしています。弟が在宅してくれているので、いつも感謝しているのですが、高齢の母親が高崎にいるということが気にかかっていました。そこで、高崎に行くきっかけを意識的につくってみようかなと思い、その方法としてミニの修理をするというのは悪くないなと考えたんです。埃を落としに行くとか、車好きの友達に車を見に来てもらうとか、いろんな形で高崎に、毎日帰るのはさすがに難しいですが、用事をつくって母親のところにさりげなく顔を出したり、一緒にお茶を飲んだり、場合によったら泊まったりみたいなことができます。僕のなかでも母に会いに行くことは大事な使命かもしれませんが、もう1つ要件ができると戻りやすくなるんですよね。なので、ナンバーも高崎ナンバーを取りました。世田谷ナンバーでも神戸ナンバーもなく、です。車は高崎に置いてあって、毎日の通勤で使うわけじゃないんですが、縁のある知人にお願いをして、素晴らしい修理のメカニック、エンジニアの人を紹介してもらいました。紹介をしてくれたのは、高崎市内でFLOW建築デザイン事務所の代表を務めている佐藤隆さんです。1階がコーヒー屋さんで、2階が24時間出入り自由のシェアスペース『MOTOKONYA』を設計施工された方です。佐藤さんは車が大好きなので、「自分の家にあるミニをいつか直したいんですよね」と話を持ちかけると、「全然直しますよ」みたいな感じで、佐藤さんも古い車を少しずつ直すライフスタイルをされていたので思い切って相談したら、「やりましょう、やりましょう」って言ってくださいました。佐藤さんは今、「Car&CoffeeTakasaki」という、かっこいいプロジェクトをやっています。これは『NAKAKONYA』という、高崎の中心市街地にある古民家を改修した場所があって、イベントもできるような素敵なオープンスペースが敷設されているんですが、そこに70年代や80年代のかっこいい車を1台持ってきて、その素晴らしい綺麗な、たとえばマセラティギブリっていう車だったり、スーパーカー世代だったらデトマソパンテーラといった車が大好きで大事にしているオーナーさんに声をかけ、その車を週末に持ってきていただいて展示し、眺めながらコーヒーを飲むイベントです。コーヒーを飲みながら、エンジンルームを開けてみたり、ドアを開いて「ハンドル、かっこいいですね」「インパネまわりのこの木がいいですね」とか言いながら、建物のなかではおいしいコーヒー屋さんがポップアップで入ったり、ご飯が食べられたり、車に関するかっこいいアクセサリーを販売する人が入ったりと、少しずつ大きなムーブメントに育てようとしています。

そのくらい車が好きな建築家の佐藤さんが僕の相談に乗ってくれて、前橋エリアで20年くらい、ミニやクラシックカーのリノベーションをされている『Modify Sport GEAR BOX』という自動車修理会社の亀井徹さんを紹介してくださいました。亀井さんはすごい技術の持ち主で、みんなから愛されている方なのですが、高崎の実家まで来てもらって、ミニ1000を工場に運んでいってもらって、やり取りを今しているところです。それはそれで自分の目的の1つではありますが、そうやって、自分だけではなく、いろいろな友人や知人の皆さんが僕の車が復活するのをおもしろがってくれているなかで、人と打ち合わせをしたり、人と待ち合わせをする時間が高崎や前橋で生まれていて、それが結果的に駅前でお土産を買って母親のところに顔を出すことにつながっています。これまでは「明日は行くね」と母の姿を確認に行くだけでしたが、「たまたま前橋まで来たから」とか、「高崎にちょっと寄ったから」みたいなカジュアルな感じで実家に顔を出せるようになって、僕にとっては思った以上に楽しく帰ることができています。そういうやり方もありかなって。ミニを修理するプロセスを口実にして、高崎や前橋にいる時間をもたらすことができる。それが、ミニ・プロジェクトです。亀井さんからはSMSで写真とか、車検が通りましたとか、ナンバープレートが取れましたとか、逐時報告いただけます。その作業によっては自分が立ち合わないといけないものとか、陸運局や高崎警察署とのやり取りをやらないといけないものもあったりするので、時間を見つけては、週末とかにとんぼ返りですけど高崎に帰っています。僕のなかで、ここ数年間くらいのなかで、再び地元に戻る時間がまた長くなり始めているのは、ちょっと感慨深いものがあります。『Modify Sport GEAR BOX』は、榛名山が西に見える赤城山の麓の丘陵地帯にあって、ポルシェが入っていたり、古いビートルが入っていたり、昔のスズキやホンダの車が置いてあったりして、車好きにはたまらないガレージなんです。そんなかっこいい場所、そして自分のルーツみたいな群馬の風景のなかでミニを直してもらっているのは、僕にとっては誇らしく感じています。車が直った暁には、白い車なのでドアの横に、『頭文字D』の主人公の藤原拓海が乗っていた「パンダトレノ」の藤原とうふ店(自家用)とまったく同じ書体と級数で、日本関係人口協会(自家用)と書いたステッカーを貼ってみようかなと企んでいます。世界中のマニアがそのとうふ店のステッカーを貼ってるんですよ。
このミニは、30年前の20代の頃の僕がよく乗っていました。遠くだとどこまで行ったかというと、津軽半島の金木まで行っています。岩手の遠野にも行きました。東北道はよく走っていましたね。アウトドア編集部の同僚の男子2人で裏磐梯にも出かけました。長野方面だと野尻湖に行ってキャンプもしました。あの当時の野尻湖は桟橋近くのスピーカーから松田聖子さんの歌謡曲が朝から夕方まで流れていました。観光地のお店ってよく流していたじゃないですか、アイドルの歌を。僕がミニに乗ってたのは90年代ですけど、流れていましたね。河口湖もよく行っていました。編集部員だったんで、企画やネタになるようなことを自分もやらないといけないなっていう観念がありまして、ノルウェー製のアリーという折りたたみ式のカヌーをルーフキャリアに積んで、編集部の後輩たちと富士五湖に出かけました。3人乗りのアリーを組み立てて、みんなでローテーションで乗ったり、魚釣りをしたりしました。
そんなある冬の日曜日、1人でやることもなかったので本栖湖へ行って大きなマスでも狙ってみようとふと思い立ち、ミニに乗って出かけました。僕の車はスタッドレスを履いていたので冬の雪道もラリー車のように全然大丈夫だったんです。本栖湖にも雪が残っていて、僕は車を邪魔にならない湖岸沿いの周遊道路の脇に停めようとしました。雪が残っているところが道路の端だと思って車を寄せたのですが、その瞬間、「ガコッ!」という衝撃とともに車体が傾き、タイヤが側溝にはまってしまいました。「やってしまった!」と車を降りたものの、「これ、動かせないな。どうしようかな」と、当時は携帯もないので弱っていたら、20人乗りくらいの富士五湖一周ツアーみたいな観光バスが停まって、40代、50代くらいの乗客が何人か降りてきて、「どうした? 大丈夫か」と弱っている僕に近づいてきました。たぶんカラオケとか歌いながらバス旅行を楽しんでいた人たちだと思いますが、事情を説明したら、「俺たち、手伝うから」って何人もの人が「せーの!」とかけ声をかけながらミニを担いでくれて、あっという間に側溝から脱輪したタイヤを引き上げてくれたのです。ただ、側溝から上がったのは嬉しかったのですが、ある人が車の鉄のボディに手をかけないで、サイドモールっていうんでしょうか、タイヤカバーみたいな、金属でできている、そこに手を入れて思いっきり上にあげたので「ベリベリベリ」ってサイドモールが一部剥がれてしまったのでした。「ああ!」って声が出そうになったのですが、善意でやってくれていることに対して僕は腹を立てていいのかと逡巡しつつ、「皆さんのおかげで助かりました。ありがとうございます」と、剥がれたところは皆さんにわからないように背中で隠しながらお礼を言いました。剥がれた部分はガムテープで応急処置をして東京まで帰りました。しばらくそのままにしていて、ある日、同居していた仲のいい友達と千葉と茨城に魚釣りに行ったときも、その箇所はお金がないので直していなくて、ガムテープで貼っただけでした。それで常磐道を時速70キロくらいで走ると風切り音が凄くて、助手席の友人と会話ができないくらいでした。すると、今まで聞いたことがないほどのもの凄いベリベリ音がしたので「何だ?」と思ったら、運転席側のガムテープで止めていたサイドモールがすごい勢いで剥がれ、捲れ上がっているのが見えました。幸いなことに全部剥がれなかったので後方には飛んでいくことはなかったのですが、巨大なアンテナみたいにブラブラして、異音を放ちながら走るという状態が続きました。サービスエリアに立ち寄って、頑丈にガムテープで貼り直して、無事東京まで戻ることができました。その部分に関しては後日、すぐに修理しました。
ミニに乗っていて僕のなかで衝撃を受けたのは、最長距離を走った津軽半島まで行ったときのことです。高速道路に乗っているときに行きも帰りも1台も抜くことがなかったんです。追い抜かれるだけ追い抜かれて1日が終わるっていう。なので、間違いなくそのとき東北自動車道を走っていた車のなかでいちばん遅かったのは僕のミニでしょう。あのときは3人乗っていたのかな。エアコンがあまり効かないので窓ガラスを全部開けて走りました。夜の高速をひたすら走って、朝になって休憩をしようとサービスエリアに入り、トイレの大きな鏡で自分の顔を見ると、真っ黒なんですよ、排気ガスで。当時の東北自動車道を700キロくらい、窓を開けっぱなしで走っているとこれだけ顔が真っ黒になるんだって、笑っちゃいました。
話を戻すと、ローカルというのは、鉄道の世界では各駅停車という意味なんですね。僕のミニも完全に各駅停車の車なわけです。高出力、高馬力のグランドツーリングカー、GTみたいな車と比べると完全にローカルな車だったので、すぐに水温計が上がるし、水温が下がるまでパーキングで休ませなきゃいけませんでした。そんなふうに常に立ち寄りを余儀なくされる車だったので、今で言うところのGoogle mapが示してくれる最速最短の移動には合わない車なのです。そんな車をなぜ今復活させようとしているのか。おそらくこの車で今僕が高崎から半径100キロ以上をビュンビュン移動することはもうないと思うんです。どちらかというと、親の買い物でこの車を使うとか、友達とコーヒーを飲むために前橋まで行くとか、その程度の移動でこの車は第2の人生を(前の所有者との人生があっただろうから何番目かの人生かは正確なところはわかりませんが)ローカルの車として走り、ローカルの風景に合うような使われ方の道を歩むのでしょう。
車を直すって、皆さんのなかでいろんなイメージがありますよね。僕が衝撃的だったのは、佐藤さんや亀井さんという車が大好きな同世代の皆さんや、ちょっと先輩の皆さんが「直す」という言葉の意味と、僕が「直す」っていう言葉の意味が違うってことがわかったんです。直すっていうと、壊れているところを全部直すって思いますよね。でも、本当の車好きは一気に全部直さないみたいです。まずエンジンがかかって走れて、車検が通って、あとは内装がボロボロだとか、エアコンがつかないとかといった必要最低限は直すけど、その後どこまで直すかは指出さんの考え次第っていうことのようです。たとえば、小さなボディに傷がいっぱいあるのを直すのも僕次第だし、スピーカーが外れているのを直すのも僕次第。車が好きな方からすると、すべてを完璧に100パーセント直してピカピカにして、新車同様に仕上げるっていうことではないんだなってことは2人とお話をしているなかでわかりました。修理代の予算もありますが、まずは車検が通って、ナンバープレートがついて、エンジンがかかって、一般公道を走るために過不足のないところまでは直っているけれども、そこから先は車と歩む人がどうするのかを決めるという、そういう直し方なんです。僕にはそれが心地よかったんです。ひとまず、そのガレージから車を実家に戻した後、まずはなかにある30年前に敷いていた水色のクロスを洗濯に持っていこうとか、散らばっている釣り具を整理してタックルボックスに入れ直そうとか、カセットテープが無造作に積んであるけどこれもきれいにしようとか、窓ガラスのクランクがちょっと硬いから注油してもっと回るようにしようとか、エアコンは効かないけど直すとしたら相当お金かかるからどうしようとか、そういうのは全部、持ち帰りの宿題みたいな状態で車が直って帰ってくるのが関わりしろ満点で、これもローカルだなと。こんなきっかけをつくってくれた車好きの亀井さんと佐藤さんには感謝していて、さらに中学校時代からのスパルタ塾仲間でもあるジョウモウ大学をつくった橋爪光年さんは車の保険会社屋さんなので、保険についても相談に乗ってもらっています。高崎のまちづくりで知り合った皆さんや改めて出会い直した橋爪さんと、僕のライフスタイルのなかで一緒に動く時間ができているっていうのは嬉しいことです。「移動する関係案内所」としてのミニ1000と言えるかもしれませんね。

ミニ1000は1989年製で、僕が買ったのは1992年です。製造されてから37年以上経つのですが、その間にミニは世界中に愛好者が広がりました。僕が買ったときがミニの生誕30周年だったはずです。1959年くらいからミニは生まれていて、今は70年近いんですが、これまでミニを直して長く乗りたいっていう人たちが僕の前の前の前の世代くらいの皆さんがいろいろ考えながら、中には部品を改良してつくり直している人たちも出てきたりしているので、幸いなことに世界的に修理部品のストックが普及しているんです。だから、むしろブラックボックスみたいな車で限定品っていうよりは、いわば誰もが答えをちゃんと出せる車です。亀井さん曰く、古い車のなかにはどうやっても1+1=2にならない車がいっぱいあって、そういう車が好きな人たちも多いそうです。イタリアのすごい車とか。1+1をやっているはずなのに、どうしても2にならないんだよね、みたいな。そこで工夫して直すことのおもしろさを亀井さんが話してくれて。一方でミニは1+1=2になる車だから、ちゃんと答えが出る車だって言ってくれて、そうやって答え合わせをしてきた結果、70年経っても乗っている人たちがいる車であり、部品もメーカーがストックしているのではなく、好きな人たちが自分たちでストックしているという民主的な車なんです。世界中にミニのガレージがあって、そういう場所が保管している部品をお互いに回し合ったりするんです。ある意味、クラウドですね。僕が使っているスウェーデンのアブが製造してきたアンバサダーっていうリールもまったく同じ仕組みです。世界中に70年代のそのリールの愛好家がいて、最新のギアをつくるメーカーが生まれたり、世界各国で販売され、普及しているので部品のストックがまだまだあったりするんです。それは新品で残っているというよりは中古で、部品を取るために持っているとか、ここは機能として壊れてるけどこっちのギアは使えるみたいな感じでいろんな人たちがストックしていることにもよります。世界のなかでファンクラブがあったりして、困った僕がこのアンバサダーを直したいって言えば、世界の誰かがこれだったらうちにあるよって言ってくれるような関係性があるんです。そういうところで道具というのは、残る道具と残らない道具があるんだなっていうことを、ミニとアンバサダーから教えてもらっています。
今はサービスが終了しましたというともう使えなくなる機械が多くなっているじゃないですか。スマホやパソコンもそうかもしれないですけど。だから、その仕組みが改善されればより良くなっていく気がしますね、道具との関係性も。よくシニア世代のおもちゃの技師が、「おもちゃのお医者さん」みたいなことをされているじゃないですか。あれ、素晴らしいですよね。ぬいぐるみのクマがシンバルを再び叩くようになったみたいなことが起きるわけじゃないですか。「シャン! シャン!」って。それで子どもたちがすごい喜んでいる顔を見ると、「このお医者さん、素晴らしいな」と感心します。昔のラジカセとかレコードプレーヤーを直す人もいます。そういう、直して使うっていうのが変な主義主張からじゃなくて、いいものだったら純粋に直して使えばいいのにって。そこはまだ発展途上の考えでしょうか。現代のプロダクトの時代っていうのは。メーカーの方も、「直すより新品を買った方が安いですよ」って言いますけど、つくった人としては直して長く使われた方が嬉しいと思うんですけどね。僕のミニ・プロジェクトは単なるノスタルジーなのかもしれないので、美談ではくくれないでしょう。経済の発展や未来への寄与という意味では、50年前の車を直すことはむしろ経済成長にストップをかけるようなことをやっている可能性もあるんですが、新しく生まれるものもこういうふうに寿命が伸びていくようなものづくりがより出てくると嬉しいですけど。100年使っても大丈夫とか。僕が愛用している釣り竿は本波幸一さんという方が岩手県の久慈市でつくってくれています。本波さんは凄腕の釣り人であり、僕の憧れの人なんですけど、その人がつくってくれている「ホンナミロッド」っていう竿は、一般の有名メーカーさんが出している普及型の竿の金額よりは値が張るんですけど、その釣り竿には特別な保証書がついていて、本波さんが「私が生きている限り保証します」って書いてくれてるんです。すごい嬉しいですよね。実際、ルアーなどを何回も修理に出し、その度に直してもらっています。鍛冶屋さんが刃物を研ぎ直してくれるのと同じように、「私が生きている間は保証します」みたいなことが、実はすごい強い、支持される消費行動のきっかけになるような気がします。久慈をはじめとしたファンタスティック・ローカルには、そういう関係がまだまだ多く残っていそうです。1000年直してくれと言っているわけじゃなくて、自分が寄り添えるものをつくってくれた人が直すと言ってくれることへの安心感はありますね。ミニとかアンバサダーというリールはクラウドのようなものなので、1人のカリスマ的な技術者がいるわけではないのですが、僕は本波さんの、「自分が生きてる間は永久保証」とか書いておられる姿勢を見るとすごくかっこいいなと思うんです。















