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連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶローカルプレイヤーの働き方とは

今やりたいことを全力で。 公園が皆にとって楽しめる場所であるために。

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自らの子育て経験から、地域の交流の場である「公園」を守るために奮闘する椛田さん。全国の公園愛護に励む人々をつなぐ「みんなの公園愛護会」を立ち上げました。公園にかける想いとは。お話を伺いました。

椛田 里佳
かばた りか|一般社団法人みんなの公園愛護会代表
1979年愛知県名古屋市生まれ。京都大学農学部卒業後、大手上場企業で研究所向けのソフトウェアの営業を担当。25歳で退職し、デザインの道に興味を持ち始める。2007年にデザイン事務所に転職し、上海へ。2009年に帰国し、自由大学の企画運営を担う。2016年に、家族とともに鎌倉へ移住。2020年に一般社団法人みんなの公園愛護会を立ち上げる。
目次

新しい世界を夢見る子ども時代

愛知県名古屋市に生まれました。元気で活発な子どもで、公園で遊ぶのが大好きでした。よく町内の地図を見ながら、自転車で行ける公園を探していましたね。遊具で遊ぶのが楽しかったし、公園によって雰囲気に違いがあるのも面白かったんです。車で移動中に、公園を見つけては「ここで遊びたい!」と駄々をこねて、両親を困らせているような子どもでした。

小学校に入ると、4年生からソフトボールを始めました。スポーツ万能な先輩たちに憧れたんです。中学ではハンドボール部に所属し、県大会にも出場しました。厳しかったけど、楽しかったですね。

そして高校では女子サッカー部に。ハンドボール部にも誘われたのですが、あまり心が踊らなくて。ずっと同じことをやり続けるよりも、新しい扉を開きたいと思ったんです。新しい挑戦に恐怖はなく、ワクワクしていましたね。好奇心が旺盛で、なにかもっと楽しいことがあるんじゃないかといつも考えているような性格でした。

大学は憧れだった京都の大学を選びました。環境に興味があったので農学部に進学したんですが、ほとんど勉強はせず。アメフト部のマネージャーの活動に打ち込みましたね。

そのアメフト部を選んだ理由は、日本一を目指していたからです。高校まで部活に打ち込み、県大会や地区大会に出場しましたが、いつも最後は負けて終わりでした。ずっと、勝ち続けるのはどんな人たちなんだろうと気になっていたんです。選手という立場じゃなくてもスタッフとして日本一を目指したいと、4年間をアメフト部に捧げました。

結局、日本一にはなれませんでした。でも学ぶことはたくさんあって。企業やOBから支援金をもらったり、グッズの制作販売をして活動費を捻出したりするなど、まるで小さな会社の経営をするような機会もありました。何より、人のサポートをする面白さにも気づいたんです。選手たちが、もっと力を発揮するためにはどうしたらいいんだろう。そう考えて行動している時間がすごく楽しかったです。新しい自分の一面を発見しましたね。

一歩踏み出せば“向こう側”に行ける

就職活動はほとんどせず、アメフト部の監督に薦められた大手上場企業に就職。東京で、ソフトウェアの営業をしました。

トントン拍子で社会人になったものの、いざ会社に入ってみると、モヤモヤしている自分がいました。それでもなんとか頑張ろうと働き続けましたが、25歳のとき、このままでいいのだろうかと不安になりました。周りを見渡したとき、「将来はこんな人になりたい」と思えるような人が見つからなかったんです。

それまでの私の人生は、いい学校、いい会社に入って安定の道をたどっていました。でも私は、安定を求めていたわけではなかったんです。本当は新しい道を探し続ける、チャレンジングな人生を送りたかった。それに気づいて、退職を決意しました。周りからは「せっかくいい企業にいるのにもったいないよ」「転職先が決まってからでもいいんじゃない?」と諭されましたが、決意は揺るぎませんでした。

在職中から退職後にかけて、2つの学校に通いました。1つ目は、建築系の夜間の専門学校。建物を見るのが好きだし、建築かっこいいなという理由で入学しました。でも想像と違っていて。やってみると、細かい計算を積み重ねて図面を書く作業は、自分には向いてないことが分かりました。なんとか卒業までこぎつけましたが、正直学びになることはありませんでした。

2つ目は、スクーリングパッドという学校です。クリエイターが創る新しい学校で、学校といっても、学位や資格取得は一切なし。新しいアイデアや、社会的インパクトのある仕事を形にしていくためのヒントを学ぶような場でした。私は毎週、デザインコミュニケーションの講義を受講しました。
世の中の面白いコトを仕掛けている人や、ものづくりをする人からお話を聞く中で、刺激を受けましたね。自分の今までの生き方と全然違っていたんです。好きなことを仕事にして生き生きとしているクリエイターたちがすごくかっこよくて。「目標とすべきはこの人たちだ!」と思いました。教壇に立つ人たちの輝きを見ながら、私も彼らがいる場所、“向こう側”に行きたいと、ひしひしと感じました。

ある日、スクーリングパッドで企画を任されることになりました。いつもは前に先生がいて、“こちら側”で座って聞いているだけだった自分。そのときはじめて、前に立って話したんです。そこから見る景色は、今までと全然違うものでした。

その日まで、私にとって向こう側は、憧れでした。成功して活躍している、輝かしい人だけが立てる場所。勉強をしたりスキルを身につけたりした後に、ようやく向こう側にたどり着けると考えていたんです。でも一歩踏み出してみたら、いとも簡単に向こう側の景色を見るができて。できないと勝手に決めつけずに、挑戦してみたらよかったんだと気づきました。

その後、ゲスト講師に来ていたインテリアデザイナーから、「上海で働くスタッフを募集しているけど、どう?来る?」という話を聞き、思い切って手を上げました。新しい世界に踏み出そうと思ったんです。

入社したのは、飲食店や物販の店舗デザインをしている会社でした。上海事務所のスタッフとして、現場を見に行ったり、写真を撮ってデザイナーさんに送ったり、営業もしたり、銀行に行ったり、現地の人を雇ったり。設計業務以外は全部担当しましたね。

中国では日本で当たり前のことが通用しません。「差不多(チャーブドー)」という言葉が好きになりました、あんまり違わないよとか、大体OKみたいな意味で。厳密に行かずに大体OKで進んでいく価値観がすごく面白かったですね。毎日が楽しくて、住んでいるマンションの守衛さんと仲良くなって、階段で一緒にビールを飲んだりもしました。中国に滞在したことで、価値観が揺るがされましたし、図太さを身につけられたように思います。

改めて感じた、人をサポートする喜び

3年後、東京に戻り結婚。私の原点となったスクーリングパッドの新事業として自由大学が始まった頃でした。誰もが自由に学び、自由に教え、自由に創ることができるスタイルで、学べる分野も幅広く、哲学から言語、食など多岐にわたるプログラム作っていこうとしていました。ここでもまた誘われて、企画運営担当として参画することにしました。

企画運営担当の役目は、「教授」たちの面白さを引き出すこと。自由大学はだれでもいつでも教える側になれることが理念の一つです。そのため教授といっても、普段から教える仕事をしている人たちではありません。靴磨きや盆栽、占い、起業など、それぞれ専門性があるけれど、誰かに教える経験をしてこなかった人たちです。その人たちの魅力を引き出し、5回の講義を一緒に設計しました。

やりがいはすごく大きかったですね。いろんな人の転機に携われたんですよ。受講している学生だけではありません。人生が変わったのは教授たちも同じでした。会社を辞める気だったけれどやっぱり会社で頑張ることを決めた人、ここで出会って結婚した人、有名になってメディアに出演するようになった人など、人生が変わる瞬間をたくさん見ました。

悩んでいる人たちにジャンプ台を用意することで、新しい世界へと羽ばたいていく。その姿を間近で見ることができるのが、すごく嬉しかったですね。自分は人をサポートする仕事に喜びを感じるんだなと改めて気づきました。

地域とともに子育てを

しばらくして子どもが生まれ、子育てをしながら働いていました。でも子どもの年齢が上がるにつれて、仕事と子育ての両立に悩み始めたんです。子どもを大切にしたい気持ちはあるけれど、希望の保育園に落ちてしまって。職場に子どもを連れていったりもしていましたが、動き回る子どもから目を離すこともできません。

待機児童向けの保育園になんとか入園したものの、もっと広いところでのびのび遊ばせたいと感じてしまって。こんな状態なら毎日公園に連れて行くほうが子どものためになるんじゃないかと考えていました。2人目の子どもを妊娠したタイミングで限界を感じ、やり方を大きく変えることを決意。今後も関わっていける余地は残しながらも、担当していた仕事を他の人に任せて自分の時間を持てるようにし、鎌倉に引っ越すことにしました。

鎌倉の幼稚園はすごくいい環境でした。周りが助けてくれる人たちばかりで、地域で子どもを育てようというコミュニティができていましたね。

しかし、引っ越して間もなく夫の難病が判明。入院を繰り返したりで大変でしたが、そんなときに子どもを預かってくれたり、一緒にごはんを食べさせてくれる友人がいて。すごく助けられましたね。

精神的な面でも助けられました。子どもがいたずらをしても「あるよね」と一緒に笑ってくれるような人たちばかりで。子育てをしているとどうしても自分の子どもばかりが気になって視野が狭くなりがちなんですが、年上やいろいろな個性を持つ子どもたちのお母さんの話を聞くと視野が広がります。苦しい時に何度も励まされました。

そんな素敵な人たちがよく集まっていたのが、公園でした。よく通っていた公園は、隣接した子ども会館という施設とセットで、赤ちゃんから幼児、小学生、中学生、おじいちゃんまでいろんな人たちが利用していて。みんな思い思いに過ごしていて、とても自由な雰囲気でした。

しかしある日から、少しずつ景観が荒れ始めました。隣の施設が閉鎖となり、 いつも見てくれる人がいなくなったんです。

荒れているのを見かねて、ある日友人が「今度草取りをやらない」と言いました。すぐにいいねと賛同し、草取りをはじめたんです。幼稚園を卒園しても、公園はいつでも行くことができる、友達とつながれる場所。そんな場所であり続けるために、なにかできることがないかと思ったんです。

全国の公園をつなげたい

2年間の闘病の末、夫が亡くなりました。夫が勤めていたのは、公園の遊具を作っている会社。社長とお話しする機会があり、自分も夫も関わっていた「公園」をテーマに何か仕事ができないか、ともに考え始めました。

そこで行き着いたのが、行政と住民が協力して公園を守る「愛護会」でした。公園はもともと、昭和30年代に住宅開発が進む中で、一定規模の住宅地を開発する際は公園を必ず作るという法律の下で整備されてきました。全国10万近くあるうちの約9万は地域の小さな公園で、管理は市区町村が担うことになっています。しかし人口増とともに公園が急速に増える中で、行政が管理しきれなくなりました。そこで住民の助けを借りるようになったのが公園愛護会の始まりだといわれています。

公園愛護会には厳密な定義はなく、地域の小さい公園を住民と行政が協力して守っていく仕組みです。一般的には、報奨金や活動費をもらって掃除道具の手配や花壇の手入れなどをするパターンが多いですね。ほかにも地域の人たちがボランティアで掃除したり、遊具が壊れているときは連絡する窓口を設けたりしているケースもあります。

とはいえ、市区町村が独自にルールを定めているため、愛護会活動に統一した方針や考えはありません。また、横のつながりもありません。せっかく各地でいい知恵やノウハウがあっても、それが別の地域に活用されていないのです。

全国の愛護会がつながれば、もっと公園がよりよい場所になるのではないか。そんな考えのもと、2020年6月、一般社団法人みんなの公園愛護会を立ち上げました。1年目は、私の住む神奈川県33の市町村でアンケートを取りました。今ある愛護会がどんな活動をしているか、どんなサポートをしているか、どんな課題があるか調査したんです。

公園は他者と緩やかにつながれる場所

現在、地域の公園に関わる2つの活動をしています。1つ目は、私が住んでいる鎌倉での公園愛護会の活動です。メインは、月1回の清掃。中心メンバーは10人ほどで、親子や友達を誘って毎回2~30人ほどが参加しています。

2つ目は、みんなの公園愛護会の活動です。公園愛護会のことはまだあまり知られていないので、まずは認知を広げていきたいですね。2020年はスタートとして神奈川県で活動を始めましたが、これから全国に広げていきたいです。

公園は、目的がなくても誰でも行けて、それぞれが自由に過ごすことができる場所です。図書館やカフェなども似たような機能がありますが、「自由さ」では群を抜いていると思います。それに自然と、つながりも生まれやすいんです。道ですれ違う人に声をかけることなんてなかなかありませんが、公園だと「花がきれいですね」「お子さんかわいいですね」など、ちょっとした気づきから自然と会話が生まれるんですよね。他者とゆるやかにつながれる場所だと思います。

公園で遊べるのは子どもだけではありません。大人になっても新しい楽しみ方を開拓できます。数十年愛護会の活動しているベテランさんから話を伺うとすごく面白いんですよ。「この時期に草を抜いておくと夏に全然違うんだよね」「今年は花が咲くのが早いな」とか。彼らには身近な生態系が見えているんですよね。公園ボランティアの活動は、自分が手をかけた場所が育っていく面白さもあると思います。活動を通して、地域にいろいろな世代の顔見知りができるのも、うれしいことです。

今後については、あまり考えていません。今が楽しめればいいなと思いますし、自分も皆も楽しめることが何より大事です。今の私にとって一番楽しいのが公園。多くの人にその面白さを知ってもらえると私も楽しいですね。私ができることは、皆が公園に関わって、ちょっとでも楽しくなれるようなアイデアの種をまくことだと思っています。公園を盛り上げようと思う仲間をサポートしながら、公園という地域のつながりを形成する場を大切にしていきたいです。

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another life.」からのコンテンツ提供でお届けしています。※このインタビューはanother life.にて、2021年5月27日に公開されたものです。
インタビュー:粟村 千愛
ライティング:林 春花

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