いまのインターネットメディアのあり方を見直す「遅いインターネット」運動の延長線上に、評論家・宇野常寛さんが新しい批評誌「モノノメ」立ち上げてから半年。「〈身体〉の現在」を特集テーマに掲げる2号目が、この春に刊行されました。Web3やメタバースといったインターネットの使い方の最先端の潮流に対しても独自のスタンスから切り込む『モノノメ #2』が投げかける問いについて、Web3リサーチャーのコムギさんが訊きました。
宇野常寛 プロフィール
コムギ プロフィール
『遅いインターネット』と「風の谷を創る」プロジェクト
一つ目は、2020年に出した僕のマニフェスト的な著書『遅いインターネット』ですね。この本では情報社会論と言いますか、我々がインターネットという武器を使いこなすためにはどうあるべきかということを語っているのですが、その中で都市の問題というのが必然的に浮上してきました。我々は普段サイバースペースと実空間という対比で考えてしまいがちですが、実態としてはサイバースペースが都市空間を侵食していっています。「動員の革命」という言葉もありましたが、この10年はアラブの春から夏の音楽フェス・インスタ映えスポット巡りにいたるまで、人々はSNSプラットフォームをはじめとした情報技術を通じて実空間に動員されていった時代です。そしてSNSに動員された人々というのは比喩的に言えばハッシュタグが付いたもの、つまり目当てのもの以外は目に映らなくなる。僕は京都に7年間住んでいましたが、ああいう街に住んでいると観光客というのはいわば自分の頭の中にある京都を確認しに来ているだけなのがよく分かるんです。だから、せっかく旅をしても目当てのものばかり追いかけて、偶然何かに出会うということがすごく少なくなる。そして実際その町で豊かに渦巻いているものとか歴史が紡いできたものにあまり触れずに帰っていってしまいます。つまり、ハッシュタグはある意味で世界中を観光地化してしまった。このようにしてインターネットが人の住む実空間=都市の力を失わせてしまった、という問題意識があります。
だから『遅いインターネット』では、人間の世界に対する距離感や進入角度を変えることによって、インターネットを比喩的に「遅く」使うことによって、この状況に抗おうとしました。そしていかにして都市をハッシュタグからもう一度解放するのか、というところから都市空間について考えてきたわけです。
二つ目が、ヤフーCSO安宅和人さん主導の「風の谷を創る」プロジェクトです。僕も立ち上げからずっと関わっているのですが、これは人口密集させることによって効率良く生活を回していく「都市」とは違うロジックで、自然の中に比較的バラバラになって居住するというモデルを実験的に作ろうとする試みです。このプロジェクトのためこの数年は、安宅さんたちと一緒に全国を視察で巡り、人類が有史以来作り上げてきた形の「都市」とは異なる「風の谷」というものをどうやって創るかをずっと議論してきました。だから、必然的に都市についてもすごく考えています。
これら二つの問題意識が交差して『モノノメ 創刊号』の「都市」特集が生まれてくるわけです。
「観光しない京都」の豊かさ
おかげで、SNS上の相互評価ネットワークやハッシュタグの外側にある都市の風景というのはこういうことだというものを出せたかなと思います。この「観光しない京都」については、どこかでビジュアルブックみたいな形で本にしたいなと思ってもいますね。
「都市」から「身体」へ
つまりこの「遅いインターネット」という運動はダメな環境を改善するために、まず僕たちの環境に対する関わり方を変えていこうということを提案しているんです。「モノノメ」の創刊号とこの第2号の関係もそれで、環境=都市から主体=身体の話をセットでしているんです。そしてそうじゃないと僕は意味がないと思っています。
もう一つは少し前の話になりますが、僕のサブカルチャー評論のひとまずの集大成として2017年に出した著書『母性のディストピア』からの流れですね。この本の担当編集というのが僕の友人で、実は作業途中からフランスへ渡ることになり、パリで大学に通いながら合気道の修行をずっとやっていたんです。そして夜はインターネットのバンダイチャンネルとかでアニメを観まくって僕の本を編集してくれるというなんだかすごい生活をしていたらしいのだけれど、まあ彼のおかげもあって僕がデビューから手掛けてきたアニメを中心とした戦後サブカルチャー評論を、とりあえず一段落つけることができた。だから、次の主著は違う題材にするだろうなという想いがありました。
加えてこの頃、当時レギュラー出演していたワイドショーをテレビ局と揉めて降板したり、その直後に出た『母性のディストピア』の出版記念イベントで富野由悠季監督に「お前もうちょっと丸くなれよ」と、肩をポンポンされたりとかしたわけですよ。いや、あなたにエキセントリックな生き方をするなって言われたくないよというか、あなたの影響でこんな人間になったのだけど……とか思ったわけですが、あの時期が明らかに僕のターニングポイントだったんですよね。安宅さんから「風の谷を創る」プロジェクトに誘われたのもちょうどこの時期です。
そして、その半年くらいあとに、例のフランスにいた友人が帰国してきた。正確には、僕がパリに出張に行って4年ぶりに再会して、そこで急に帰国することになった顛末を聴いたのだけど、大事なのはそこじゃなくて、お互い身体をよく動かすようになっていたわけです。僕はランニングにはまって朝よく走るようになっていたんですが、彼のほうは4年間、パリ第一大学でメイヤスーの授業とかを受けながら、ひたすら合気道の修行をしていた。それならば、彼が日本に戻ったら二人で朝活をしようという話になって、毎週水曜日の朝に一緒に走るようになった。要するに、この4年間で、僕も彼もやり方は違うけれど閉じたネットワークで相互評価のゲームを反復する「世間」から降りることを実践していて、そのために身体を動かす時間を大事なものとして位置づけていたという点で一致しているんです。そして、僕も彼もタイムを上げるとか、大会で勝つとか、「部活動」的に集団に個を埋没させて、身体的な苦痛と引き換えに安心するとか、筋トレで鍛えた筋肉を鏡で見てナルシスティックにウットリするとか、そういったことには一切興味がない。ただ、身体を動かして世界に触れること自体が楽しくてやっているわけです。ここもポイントですね。何かのために身体を動かしているのではなくて、身体を動かす時間そのものが目的なんです。
走る動機が、体を動かすこと自体が快感である・気持ちがいいといった、自分という主体の「快楽」の問題であるという点で僕は彼とすごく一致していました。そういった中で僕にとって「身体」というものが大きなキーワードになっていきましたね。
コムギ 「走る」とか「身体」は、一般的には健康のためとか仕事のパフォーマンス向上といった意識高い系の文脈で語られることが多いと思いますが、ここ数年間の宇野さんはそれとは異なる「快楽」や「主体」という視点でとらえてきたわけですね。
宇野 そうですね、この問題は実は『遅いインターネット』を書き終わった2020年頭ぐらいから考えていたことで、たぶん秋頃に出版されるはずの僕の次の主著のテーマでもあるんです。それはちょっと、いやかなり変わった本で、要するにこの資本主義と情報技術の作り上げた閉じた相互評価のネットワークからいかに脱出するか、ということを考えた本です。ただ、ここで反動的に国家とか共同体とか家族とかに回帰してしまうと、自分が子分を従えて気持ちよくなりたいから飲みニケーションをやめられない昭和のおじさんのようになってしまうので、そうじゃない方法を考えたいと思ったわけです。情報技術が人間を共同体の一部としてではなく、個人として世界に関与する力を与えたことは否定しないまま、その快楽に溺れて相互評価のゲームの中に閉じ込められてしまっている状態からどう脱出するかを考えてみたかったわけです。そのとき、20世紀前半と後半にそれぞれ活躍した二人の人物、アラビアのロレンスと村上春樹の失敗からその手がかりを考える……という、自分で言うのもなんだけれど、やはり相当変わった本だと思います。そして、ロレンスと村上春樹、この二人の突き当たった壁にも、やはり身体という問題がまとわりついている。
話を戻すと、つまるところ批評家としての宇野が考えていることの副産物として、「モノノメ」の特集テーマは決定されてきたわけです。「都市」しかり、「身体」しかり。そもそも、僕は自分が勉強するために雑誌を作っているところがあるんです。だから、本当に僕がいま一番気になっている最先端のことが「モノノメ」の特集に反映されます。そこに載っているものは、僕の視界に入っているけれど、まだ自分のものにはなりきっていないものです。そもそも、いろいろな人を呼んで雑誌をつくっているのは、自分の意見を伝えるためではなく誰かの意見を読者と一緒に聴くためですからね。そのせいで、「モノノメ」には僕が興味を持ち始めたばかりの、僕の著書よりも新しいことが載っているわけです。
「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」での敗北
※宇野を中心に様々な分野のメンバーが集結し、東京オリンピック2020をより意義あるものにするための「対案」をまとめ、2015年1月発刊の『PLANETS vol.9』で多面的・総合的に提起したもの。
宇野 その指摘も非常に的確で、あれは決定的な敗北だったんですよ。僕の人生にとってもそうだし僕の仲間たちにとっても、たぶんそうだったと思う。そのうちの一人が友人であるチームラボ代表の猪子寿之さんです。他のエッセイに書いたけれど、僕はあの東京オリンピックの閉会式の日、式典の中継ををテレビで観ていたら彼から着信があった。「宇野さん、閉会式みてるか」って。猪子さんは、閉会式で流れたパリ大会の予告で語られたコンセプトが「オリンピックを競技場から街へ」だったのを観て、とてもショックを受けていた。これは「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」で、猪子さんが提唱していたことそのものだった。猪子さんはどちらかと言うとデジタル技術を駆使してそれを実現しようと思っていたのに対して、パリの大会は実際に街頭で競技をするというプランになっていて、そこは違うのだけど、オリンピックを市民のものに取り戻すという発想そのものはほぼ一緒だった。僕もあの動画を観て、「ああ本当に俺たち負けたんだ……」と痛切に思いました。
ただ、振り返ると僕らが甘かったなと思っています。あの頃の僕たちは、この国の言論空間というものに魅力的なプランを提示すれば建設的な議論ができて、そして世の中に一石を投じることができるとまだ信じていた。僕は誘致段階からこのオリンピックには反対で、だからこそ開催が決定した後は、自分たちならこうするという対案を示すことで建設的な批判を試みたのだけど、国民のほとんどはオリンピックを通じてどう甘い汁を吸うか、そしてその甘い汁を吸っている人を引きずり降りしてスッキリするか、くらいのことしか興味はなかった。この現実に対する認識が甘かったなと反省しています。
とはいえ、「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」をやったことはとても誇りに思っています。あのプロジェクトを収めた『PLANETS vol.9』は大して売れなかったけど自分の中では決定的と言ってもいいぐらいすごく大事な仕事で、自分の人生で世の中に誇れる一番大きいものの一つだと思っています。
では、あの敗北の後に僕らは何をやっているかというと、「自分の足で走る」ことに関心をもつようになった。要するに、他人の物語に感情移入して国威発揚が試みられるオリンピックを解体することを考えていたのだけど、今は自分の物語というか、自分が走ることに興味がある。実際ランニングが趣味になったのだけど、それ以上に自分がメディアを作って、そこに新しいタイプの読者を育てて、といったことに注力するようになった。
それはたぶん他の仲間も同じで、たとえば猪子さんはといえば、あの時のコンセプトを拡大して、チームラボボーダレスというデジタルアートの施設を世界中に作っている。あれは要するに、自分たちの理想とする世界を体現する施設を世界中に建設して、そこで、彼の提示する世界観に共感してくれる人を増やそうとしているわけですよね。それは乙武洋匡さんも、門脇耕三さんもみんな同じで、既存の体制を丸ごと打ち倒すのではなくて、それぞれの現場でしっかり足場を固めている。比喩的に言えば、オリンピックのようなお上のものをマシなものに変えるのではなくて、自分たちの取り組みを支援してくれる人たちを集めるところから再出発しているんです。
この変化は僕の作る雑誌の内容にも反映されていて、「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」の時は社会や東京という都市のことを考えたわけですが、次は身体や主体のことを考えようと思った。そして、その次号である『PLANETS vol.10』ではランニング雑誌の「走るひと」とコラボレーションして、雑誌内雑誌といった形で都市を走る特集を入れたんです。このランニング特集で打ち出しているのが、まさに僕とフランスにいた友人が毎週一緒にやっていること、つまり健康のためでもゲームに勝つためでもなければ美容のためでもなく、走ることそのものを目的とするRUNの快楽というものを打ち出しています。
だから僕の中では創刊号の「都市」特集に続く第2号の特集は「身体」しかなかったですし、僕にとって創刊号と第2号はセットなんですよ。
「身体」を正しさから面白さへ、「縦」から「横」へ
OTOTAKE PROJECTが投げかけている、ケアとサイボーグの融合のような形で多様な身体というものをいかに擁護するのかという問題意識は、実は「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」から引き続くものでもあります。多様な身体を社会が包摂するための方法論というのはもちろん全力で考えるべきだし、そのこと自体に価値があることはもう誰も疑わないと思うんですよ。ただその上で、どう豊かな社会を作っていくのかという際に、面白いこととか余計なことができることもまた、僕は同じくらい大事だと思っているんです。
だからまずはケアとサイボーグを中心に現在の多様な身体を包摂する社会をどう作るかという課題の地図を示すことにしました。そういう意図で「身体」特集の最初に「ケア」と「サイボーグ」を架橋する基調座談会をやったわけです。実はケアとサイボーグというのは、仮想敵はどっちも同じナチス的な五体満足主義なんだけれど、どこかお互いを遠ざけているような業界という側面があるんです。そこを架橋できるキュレーターは誰かというときに、田中みゆきさんしかいないだろうと考えた。彼女と何度かディスカッションしてこの人選にし、あの4人に全力で問題提起的に地図を描いてもらったという企画です。これだけでもこの「身体」特集をやった価値があるんじゃないかと思います。
宇野 僕の問いかけに牛場潤一さんが答える形で展開していく部分ですね。実はそこって巻末コラムの「東映レトロソフビコレクション」でショッカー怪人のソフビ造形から身体を語ったことに繋がっているんですよ。僕の趣味をベースにした連載「ひとりあそびの(おとなの)教科書」の記事ではあるのですが、あそこに書いている身体こそが、まさに「横」への身体拡張の可能性なんですよね。横に拡がる、つまり普段とは異なる目で世界を見るためにこういうバッタの改造人間(仮面ライダー)や草花や虫をモチーフにしたショッカーの怪人に変身しようという話なわけです。雑誌前半を占める特集に対しての撲なりのアンサーがあの最後のコラムにちょっと書いてあるという構造ですね。
『モノノメ 創刊号』でも、誌面前半の特集では都市空間や公共性についてさまざまな切り口から議論したのだけど、実はこの巻末コラムがちょっとした「オチ」になっている。それは大田区のはずれの公園で、僕がラジコンで遊んでいるという内容なのだけど、そこで遭遇した体験と、その考察が実は特集に対する僕なりのアンサーになっている。同様に、『モノノメ #2』では僕が考えるユニークな身体拡張の一つのかたちを巻末コラムに書いているという構図なんです。
コムギ ソフビのショッカー怪人の造形とは、まさに変身のあるがままの姿であるということですね。「モノノメ」は多様なジャンルの記事を読ませる雑誌という形を取りながら、実は記事同士が内容的にも絡み合っている点に構成の妙がありますね。それにしても先ほど触れた身体特集の基調座談会は、内容も深いのですがあの4名で座談会を組んだキュレーションが素晴らしいと思いますね。身体論を語るというとその分野で世間的に著名な方、例えば稲見さんや分身ロボットOriHimeの吉藤オリィさんなどを集めた記事を載せているメディアっていっぱいあるじゃないですか。今回の4名にはそういった方が一切入っていませんよね。
宇野 大前提として僕も稲見さんやオリィさんは無条件で尊敬しているし今回出てもらうこともできたんですが、彼らのネームバリューに甘えた作りをしたくなかったんですよね。僕としては稲見さんたちのやったことをベースに次の世代の問題意識を出したいということで田中さんと牛場さんに加え緒方壽人さん・笠原俊一さんに来てもらったんですが、僕らの期待以上のことをあの4人は語ってくれた。実はこの座談会は今回の記事の中でも最初に録ったんですが、その時にこの「身体」特集はもう成功したなって僕は思いましたね。
逆にOTOTAKE PROJECTの記事に出ている乙武・落合というのはもちろん有名人枠なんですが、彼らには真正面から攻めるのではなくてトロイの木馬みたいな役割をやってもらう意図があったんです。一見、これはソーシャルグッドで意識高いプロジェクトだなと思われがちだけれど、彼らはそこで正しさというよりむしろ面白さ・知的な刺激・正しさには還元できない人間を魅惑する美的な価値といったものをたくさん話しているわけですから。
だから今回の「身体」特集の流れとしては、まず基調座談会の4人に「身体」の地図をしっかり広げてもらった後に乙武・落合・遠藤の3人が感じている「身体」の面白さを語る。それによって、この特集はソーシャルグッドな外見をしているけれど実は「正しさ」を越えた価値を追求しているんだよ、ということを宣言してもらっています。そこから始めたうえで、身体特集の他の記事に進んでいくわけです。
コムギ ファッション研究者の藤嶋陽子さんの論考「凡庸な服はいかに捉えうるか──私的な身体技法をめぐる試験的考察」も面白かったですね。
宇野 そうでしょう? 藤井修平さんがマインドフルネスの発展の歴史的経緯について包括的に論じた「マインドフルネスの身体技法はいかに受容されてきたか──仏教と心理学の関わりの歴史から考える」と合わせて、特集の二つの論考はとても手応えがありました。それに続けて、映像作家の飯田将茂さんと舞踏家の最上和子さんが手掛けた現代の身体儀礼を追求するプロジェクト『もうひとつの眼 / もうひとつの身体』をめぐる対談など、僕が興味を持っているさまざまな身体文化の各論に繋げていくという作り方をしているわけです。
メタバースと身体論
宇野 そうですね。「最近の人はサイバースペースに逃避して、身体のことを軽視してけしからん」って眉間にしわ寄せて怒る人も多いですが、僕はそういう人が嫌いなんですよね。やっぱり身体を考える上で大事なのは人間が身体を欲望することだと僕は思っています。だから僕は彼らとは考え方が真逆です。だからサイバースペースに耽溺すると人間が身体性を見失って、愚かになるという考えは表面的なところしか見ていないと思う。人間がサイバースペースに接続してまで、SNSのアカウントのプロフィール写真やアバターにこだわり続けることがむしろ重要だと思うわけです。
コムギ この視点は「これからはメタバースへの移行は避けられないから、むしろリアルな身体よりもサイバースペース主体で考えよう」と言っているメタバース主流派の人たちにも伝えたいところですね。サイバースペースだろうが都市だろうが関係なく、身体の欲望はあり続けるんだと。
宇野 そういう議論は僕はそもそもあまり意味がないと思っているんです。すでにサイバースペースと実空間はかなり接続されてしまっている。同じカフェに、同じ会議室にいても、目の前の人はスマートフォンを通じて地球の裏側の人と会話している。僕はメタバースは、初期のインターネットがそうであったように、爆発的に普及するからこそ、すぐに実空間と一体化すると思う。社会において支配的なものになる代わりに、独立性を失うと思います。そして、それでいいし、それでも十分面白いと思う。ただ、いま一部に期待されているように、Web3的なものが、今日の一部の寡占的なプラットフォームによって、擬似的に中央集権化してしまったインターネットを、再び自律分散的にするという未来は難しいだろうなと思っています。今のインターネットにおけるボトムアップの全体主義も、人間が欲望してこうなったものですからね。僕は人間には、身体を求める欲望があると思うし、全体の一部になりたがる欲望があると思う。それはもちろん、身体を捨て去りたい欲望や個であり続けたい欲望とともに、一人の人間の中でも同時に存在している。だから、その欲望をどう刺激していくのか、抑制していくのかという次元で考えないといけないと思います。
日常に転がっている深いテーマ
宇野 次のテーマは「食」にしようと思っているんですよ。食というものは人間と人間外とのコミュニケーションの中で一番切り離せないものなので、それを考えてみたいんです。例えば、環境負荷的なことを考えて「美味しい食ではなく、正しい食が大事だ」といったムーブメントがあります。これは食文化の価値をもっと複合的に見るために、美味しさを食の価値の中心に置くのを見直そうとかいったものです。ただ、僕はここで「正しい」食が「美味しい」食を押しつぶすのは間違っていると思う。それはそれで、大事なものをなくしてしまう。だから僕はこれまでとは違う角度から「美味しい」ことも擁護してみたいと思うんです。今までの「都市」と「身体」というテーマは冒頭で言ったように僕の批評家としてのキャリア上の必然から出てきましたが、今度はもうちょっとミーハーに、詳しくないけれどこれから勉強すると楽しそうなことを探ってみたいなと思っています。これだけが正解とは思わないけれど、そういう号があってもいいと思う。こういった試行錯誤をしながら続けていけるのは雑誌ならではですね。
コムギ 「食」に絡んだテーマでは、創刊号でも「飲まない東京」というコンセプトを出されたのには驚きつつ感心したんですが、今回出された「水曜日は働かない」というコンセプトもすごく良い切り口ですね。親しみやすいイラストと共に「人類はなぜ水曜日に働くべきではないのか」と投げかけていて、最初は冗談なのかなと思って読み始めると、本気じゃないですか。みんな正面から真面目に取り組んでいるんですよ。
宇野 日常の中に当たり前のように転がっている生活の課題なんだけど、実は僕らにとって大きな構造についての問題提起だったり、僕らの実存のあり方を深いレベルで規定しているレベルの問題なんだというものがいくつもあるんですよ。そういったものをしっかり捉えておこう、ということは僕がずっとやってきたことでもありますし、常にどこかで忘れないようにしておこうということで今回も入れています。働き方も単に労働時間が短ければいいとか、組織がもっと柔軟であればいいとか、そういう単純な話でもないと思うんですよね。そういったわかりやすい指標で還元できそうな社会正義の議論をしても仕方がないと思っています。
なぜ日常の中の非日常が必要なのか、週休3日にして1日休みを増やすにしても、どうして金曜日を休みにして三連休にするのではなく水曜日に休むことのほうが大事なのか、そういう話が相互に繋がっていくわけですよね。単に役に立つとか効率的だということではなくて、「無い」領域のことをちゃんと話さなきゃいけない。しかもそれをちょっとユーモラスに語るということが結構大事なんです。やっぱり堅い記事も柔らかい記事もあっていろんな語り口を総合的に試せるというのが雑誌の良いところですね。
「ムジナの庭」と『ドライブ・マイ・カー』
ジャンルは異なりますが映画『ドライブ・マイ・カー』も同様です。蓮實重彦的な価値観を持った昔のシネフィル系の人であれば、同じ濱口竜介監督の映画でも『偶然と想像』の方が褒めやすい作品になっていると思うんですが、『ドライブ・マイ・カー』はそうではない。濱口監督とコルクの佐渡島庸平さんとの鼎談記事「「劇画的な身体」をめぐって―『ドライブ・マイ・カー』から考える」で語っていますが、この映画はすべての要素が洗練されているわけではないのかもしれないけれど、数々の実験的な要素が絡み合って大きい効果を産んでいる。僕はそういうものを積極的に評価したいと思っていて、だから物事に対するアプローチの仕方という意味では「ムジナの庭」と『ドライブ・マイ・カー』ってすごく似ているんですよね。
コムギ 就労支援施設とアカデミー賞を受賞した映画が似ていると言われると驚きますが、複雑な要素の総合的効果だと言われると腑に落ちます。さらにこの「ムジナの庭」と『ドライブ・マイ・カー』の両記事が『モノノメ #2』では並んで隣同士に掲載されているというのもまた意味深いところですね。
雑誌の複合性と「庭」
宇野 その部分はメインテーマとの絡みというよりも、雑誌という本体そのものとの絡みですね。もともと僕がやっている「遅いインターネット」というWebマガジンがどれだけ頑張っても記事単位でしか評価されないということに対しての違和感から「モノノメ」を出すという取り組みが始まっているんです。複数の要素が有機的に絡み合うということを物理的に担保したいので、紙の雑誌を今あえてやっているわけなんですよ。だからこれは雑誌のコンセプトがそうである、という側面が大きいですよね。
『モノノメ #2』の特典冊子で批評家の福嶋亮大さんと対談した際に、僕がやっていることは「庭」を作っているようなものだと言われたんですね。その時にハッと気づかされたんですよ。『遅いインターネット』では脱プラットフォーム、つまりプラットフォームが規定する速度に流されないように独自の速度を身につけようってことを言っていたんです。でも、おそらく速度の問題だけじゃ駄目なんじゃないかと。なぜなら、プラットフォーム上だとそもそも人間としてのコミュニケーションができないんですよね。僕と乙武さんのリアル身体は全然違うけど、僕と乙武さんのアカウントの機能は一緒なんですよ。つまり、プラットフォームというものは皆に同じ社会的な身体を与えて、同じゲームをプレイさせるわけです。そこでは多様性というものが失われていく。なぜなら、全員が同じ社会的身体を持っていることに加えて、同じ社会的身体を持った同格のプレイヤーとしかコミュニケーションできないからですね。だから僕は人間以外の物事ともっとコミュニケーションすべきだと思うんですよ。それはもう別に商品でもいいし、自然物でもいいし、いっそ物理的なものじゃなくて出来事とかでもいい。とにかく人間以外の物事とどんどん触れ合っていくべきだと思うんですよね。雑誌の名前もまさに「物の芽」なので。それは草木や花のような植物という意味ではなくて、「もの」や「こと」のことです。つまり、人間ではなくてその人を取り巻く環境や状況、そしてその人の作った作品や出来事に注目していかないと、SNS的な相互評価のゲームに巻き込まれて、何も見えなくなってしまう。
https://wakusei2nd.thebase.in/items/59297385
やはりプラットフォームに対して、人間が多様な身体のままコミットできる庭のようなものをどう作っていくのかということでしかないんです。実は今度、某紙で新連載を準備しているんですが、仮タイトルが「庭の話」なんです。実空間とサイバースペースの双方からどう「庭」的なものを回復していくのかということを議論しようと思っているんですよね。『遅いインターネット』の中で僕はプラットフォームからメディアへと戦略的に撤退すべきだって話をしているんですが、そのメディアはどうあるべきかって考えたときにやはり庭的なものでなければならない。そういったことを批評としてもうちょっと理論的なものとして展開しようと思っているのが今の段階なんですよね。
コムギ プラットフォームが人を画一化するというのは、基調座談会でファスト映画と絡めて「情報の束に還元されてツルツルしたものになる」という印象的な例えでも出ていた部分にも通じますね。そういった話に対して、まったく別の軸を提出しようというのが庭の比喩ですよね。「モノノメ」では個々の記事それぞれに作った意図みたいなものがひとつひとつ埋め込まれていて、まさに雑多な記事の複合体である雑誌として手にすることに意味があるんだというのはすごく感じます。例えばnoteのように1記事単位で買うタイプのコンテンツとは全然違う体験です。その辺は意識して伝えないと何かよくわからないといいますか、実際に手にしてみないとわからない部分がありますね。
宇野 そうですね、やはり手にしてもらいたいですね。いまや批評ジャーナリズムというのはどんどんサプリメント化している。そこに書いてあることに共感して気持ちよくなったり、そこに書いてあることを口まねしてSNSに投稿して誰かを殴ると気持ちがよかったり自分が満たされたりといったサプリメント的なもののほうが換金しやすいから、どんどん主流になっていっている。そういったものには反吐が出るので、どこまで抵抗できるだろうと考えながら、コツコツと草の根的にやっているんです。
「庭」へと繋がる2つの方向性
宇野 それはそうかもしれないですね。もちろん僕も基本そう思ってやっているんですが、集った場で何に触れるかが結構重要だと思うんです。結局そこで人間にしか触れないんだったら、多様な欲望がちゃんと発展しないと思うんですよ。
僕は飲み会という場が嫌いなんですが、それは寂しい人同士が単に互いの承認を交換してるだけだからです。そこで絆が深まって仲良くなるのは大いに結構ですが、今はSNSによって人と直接繋がれるというシンプルでわかりやすい関係性が簡単に手に入るようになり、ちょっと供給過剰になっている気がします。例えるなら料理を味わうのではなく塩や油を直接なめて血圧や血糖値を上げて気持ち良くなっているだけで、それはかなりもったいないことなんじゃないかと思うんです。人間というのは間違ったり余計なことをしたりして多様性を生み進化を促していく生き物なのに、単純な繋がりの快楽に浸ると、そういうことをだんだんしなくなっていくんですよね。だから僕は直接的に人間同士が承認を交換するというのは貧しいことだと思っています。そこの問題をクリアできない限り、GAFAに対して他のプラットフォームがどれぐらい分散しようがあまり変わらない。それより豊かな「庭」を作ることのほうが僕は大事だと思っていますね。
だから僕が考えているのは「物事を通じて人にもういちど触れる」といったテーマです。僕がムジナの庭で何より感心したのは、手仕事を通じて結果的に人とほどよく繋がる可能性なんです。直接繋がるよりも物事を通じて繋がったほうが、とても融通が利くんですよね。
コムギ 今のお話を聞いていると、たしかにサイバースペースだろうが実空間だろうが、同じ問題が通底しているという感じがしますね。ただ、「モノノメ」での都市や身体に関する宇野さんの問題提起の受け止め方によっては「実空間に回帰することが大事だ」みたいなメッセージも聞こえてきそうな感じもするんですが、そこに対するこだわりはないのでしょうか?
宇野 こだわりはまったくないですね。現に僕とコムギさんもまさにいま実空間としては全然離れた場所に居ながらリモートで会話をしているわけじゃないですか。もう空間の定義がテクノロジーによって書き換えられているのに、あんまりサイバースペースとか実空間とかという話をしてもほとんど意味がない。むしろ他者と交わる場をどう「庭」にするのかというところを、実空間とサイバースペースの両方から考えていくってことをやりたいですね。
でも実はこの二つの方向性というのは僕がずっとやってきたことでもあって、サイバースペースを「庭」にするプロジェクトは『遅いインターネット』、そして実空間を「庭」にするプロジェクトって「風の谷を創る」なんですよ。
コムギ なるほど! 冒頭に出ていたその二つがひと回りして繋がりましたね。本日は単に『モノノメ #2』を読むだけでは感じられない、非常に複合的な文脈をお話しいただきありがとうございました。これから読む方にも、既に読まれた方にも有意義な内容だったと思います。僕も再度『モノノメ #2』をじっくり読み返して「庭」の多様性を味わってみたいと思います。
構成:野中健吾
ページ数 296P
判型 B5変型版
発行 PLANETS/第二次惑星開発委員会
PLANETS公式オンラインストアにて書き下ろし全ページ解説集・特典対談集付きで発売中
https://wakusei2nd.thebase.in/items/59297076
https://wakusei2nd.thebase.in/items/59297385