「あっ、ちいさい春がやって来てるね」。くたくたになった土からひょっこり、ようやく顔を出しはじめた植物たちを見つけて、妻が笑った。毎年、思う。あんまりに冬が続いて、もう春や夏の感覚もすっかり忘れてしまって、このままずっと、道を歩いていても誰にも出会わない、もの悲しい雰囲気が続くのだろうか、諦めかけた頃に、そうそう、やっぱり春は来るんだ、なあんだと、気楽になる。
三人暮らしになってから、毎日が規則正しく動いている。朝目覚めると、夢から覚めたばかりなのか、ぼんやり天井を眺めていた息子は目が合うと、恥ずかしそうに笑って妻の寝床に潜り込む。起きるよ、と手を広げると、へへへっと起き上がって手を広げながらトタトタやって来る。なんと、愛しい。抱きしめる。寝室から母屋に移ると、妻は朝食の準備、僕はその間に掃除をしたり猫の食事を用意したり。落ち着く暇もなかった息子の食事も、おおかた一人でごはんを食べられるようになってきて、ホッとした。食べることだけでなく、一人で遊んだり、一人で寝たり、ずっと付きっきりだった三人でひとつの日々から少しずつ時間が溶けて、それぞれの時間もぽつぽつと流れはじめた。
コロナ禍になってから人に会う機会も減ってしまっていたけれど、久しぶりに立て続けに人に会えた。こちらからも、あちらからも、そろそろ皆、むくむく冬眠から目を覚ます時かな。人に会えば会うほど、それまでの自分を脱いでいくみたいに身軽になった。冬に難しく考えていたことが、どんどん溶けていって、真新しい柔らかい心だけ、むくっと起き上がると、何もかも新鮮に、自分のことなんてどうでもよくなって、誰かと何かを分かち合いたくなってくる。ああ、春はもうすぐ。いいね。いいね。
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文・高木正勝
絵・Mika Takagi
記事は雑誌ソトコト2022年5月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。