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多様性

この世にはない「幻想グルメ」。物語に登場する美味しそうな架空の食べ物たち

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おでかけをしにくい今日この頃。自宅にいると、ついついお菓子をつまんでしまう。自炊をすることは増えた。それなら健康だろう、と思うが単純に食べる量が増えている。いかんいかん、と雑念を振りはらい仕事や趣味に精を出そうとしても、気づくと行けやしないレストランの情報を眺め、ため息をついてしまったりも。食欲に囚われた哀しきモンスターであることを自覚する。そこで、食欲から離れられないのならば、いっそのこと食べられないものについて考えてみるのがいいかもしれない、と考えた。

目次

幻想グルメのすゝめ

身近な食事を生き生きと描いたエッセイや、レストランや居酒屋を描いた物語ではない。文学作品に登場する、決して食べることができない「架空の食べ物」だ。

とても魅力的に描かれているのに、けっして口にすることができないそれらのグルメ。食べに行く先も、レシピも、取り寄せるサイトもない。食事は文字と、自分の脳内で完結してしまう。味を確認するすべはない。

そういえば、牛乳消費のために「蘇」を作るのが流行った時期、すこしの手間と大量の牛乳を使えば作れるはずのそれを作る勇気がなかった。学生の頃、日本史の資料集で見かけた、あのうすいキャラメル色のかたまりへの憧憬を「現実」で壊したくなかったのだ。私の中の蘇は、すべすべしてて、口に入れるとほろりと解け、練乳のような、ミルキーな味がするものなのである。現実がそれを超えられるとは到底思えなかったのだった。 

「なんだこんなもんか」の9文字の発生しえない、架空のグルメ。食べたことがあるものと似てるけど、違うもの。想像力でしか補えないもの。食べることができないものに思いを馳せることは無駄な行為だと言う人もいるかもしれない。しかし、私は敢えてこれを幻想グルメとくくり、その魅力を伝えたいと思う。想像の中で完結してしまった片思いがいつまでも理想のままで美しいように、想像の中で始まって終える食事はパーフェクトなものだろう。

食べられないものへの憧憬

フィクションな食べ物に想いを馳せた食にまつわるエッセイはすでにある。

くいいじ
安野 モヨコ(著/文) 発行:文藝春秋

 

安野モヨコの食べ物エッセイ集「くいいじ」内の一節「漫画と食事」では、作者が今まで読んだ漫画作品内の美味しそうな食べ物について想いを馳せてしまう場面がある。本筋と関係のないものであっても、漫画の中に出てくる食べ物が美味しそうでそちらばかりを思い出してしまうことはよくあるものなのだ。

安野は美内すずえ作「ガラスの仮面」で主人公の北島マヤとライバル姫川亜弓が袋入りの大福をパクつくシーンを挙げている。その大福がどんな味なのか、柔らかさは?などの詳細は、自分の想像力でしか補えない。それでも漫画内の食べ物に惹かれるのは、想像の中での食事の魅力を感じさせる。

さらに、別の一節「食べたい物」においては、「夕焼けの太陽がとろっとしていて美味しそう」「冬の夜のキラキラした光を美味しそうだと感じ、味を想像している」というような語りがある。絶対に味を感じられないものに対する憧れは尽きることはない。理想の味のイメージは大きく膨れ上がるが決して解消されることはない、アンビバレントな欲望なのだ。 

幻想グルメ2選

ここからは、実際に筆者が食べてみたい「フィクション内の食べ物」を紹介しよう。

川上弘美「秋野」の「そら豆」

神様
川上 弘美(著) 発行:中央公論新社

 

川上弘美の短編集「神様」に収録されている作品である「秋野」。主人公と、交通事故でこの世を去ったおじが、秋の野原で邂逅する場面から始まる。とりとめもない会話をしながら、ときには主人公の後悔が、ときにはおじの無念が、それぞれ語られていく。死なれた側も死んだ側も、優しくゆっくりと死を受け入れていく切ない作品だ。 

この作品には、主人公と幽霊になってしまったおじが、そら豆を食べるシーンがある。このそら豆は、幽霊のおじが謎の力で出現させたもので、生きている主人公も、死んでしまったおじも食べることができる。

死んだ人も食べれるそら豆は、わたしが時々食べるあのそら豆と同じ味がするのだろうか?作品内で描写されるそら豆の、ふかふかの皮やほくほくの身などについて考えると、なるほどそれはこちらの世界のそら豆と似たものなのかもしれないと思う。 

だが、幽霊によって秋の野原に突然もたらされたダイニングセット、食物の数々、そしてそら豆は、幽霊のおじの中にある概念の具現化だろう。それなら、その「そら豆」は、「おじの生前の記憶の中の、おいしいそら豆の概念を凝縮したもの」なのかもしれない。

私たちが「そら豆、うまそうだな。そろそろ時期だなあ。」と思い出した時のそら豆の味は、現実のそら豆の味とは違うはず。記憶の中のそら豆はいつだって苦さや青臭さをくるんで魅力的な思い出ばかり見せてくる。この物語の中のそら豆は、きっと記憶のそら豆が現実に現れたものなのだ。 

ナルニア国物語「魔術師のおい」の「タフィの木の実」

魔術師のおい
C.S.ルイス 作 , 瀬田 貞二 訳 , ポーリン・ベインズ 絵 発行:岩波書店

ナルニア国物語は全7巻からなる長編ファンタジー文学作品で、イギリスの児童文学作品である。刊行から70年あまりが経過してもいまだ愛される同作品は、異世界とこの世界を往復する少年少女たちが主人公として描かれる。 

「魔術師のおい」はストーリーの時系列としてはもっとも最初のものであり、ナルニアという国の創世記を描いたものである。ふたりの子どもが異世界(つまり、創世記のころのナルニア)で過ごす様子も描かれており、その中でわたしの心を捉えて離さなかったのが「タフィーの木の実」である。

まだ若く新しい世界であるナルニアは、地面に蒔いた種やものがものすごい勢いで育つ。ナルニアを訪れた少年少女ディゴリーとポリーは、イギリス菓子「タフィー」を地面に埋める。すると一晩であっというまに木が育ち、次の朝には実をつけているのだ。 

ディゴリーとポリーは
ひょんなことから異世界を訪れてしまい、何も食べておらず空腹を覚える。動物のようにその辺りの草を食べることもできない。ポケットを探ると、小さな紙袋の中でベタベタねばねばになっていたいくつかのタフィが見つかる。彼らは紙袋がひっついているのをむしり取ってなんとか食べ、飢えをしのぐ。そして残ったひとつを地面に埋め、どう育つかにかけてみたのだ。

そして一晩明けた朝に、タフィーの木は希望と喜びを持って描かれる。タフィーの木は小さめの茶色い木で、その実はナツメヤシ(デーツ)に似た茶色の実。それがすずなりになっている光景は、子どもでなくともワクワクするだろう。

タフィーの木の実の味は、”やわらかで、汁気たっぷりで、とてもおいしい”……と表現されている。タフィーそのものではないけれど、タフィーを思い出させる味だという。

タフィーはイギリスやアメリカの昔ながらの菓子で、砂糖と蜂蜜を煮詰め、好みでアーモンドを混ぜたり、チョコでコーティングしたりするものだ。濃厚で硬めなキャラメルのような味わいで、どちらかというとベタベタした食感のもの。味の想像はつきやすい。 

あの濃厚で素朴な甘みに、果物のジューシーさが組み合わさったら、それはなんと素晴らしいことだろうか。子どもの手のひらくらいの小さい果実、おそらく青臭さはなく、子どもの歯でもかじりつけるほどやわらかく、ジュルジュルとした果汁が溢れるのだろう。

タフィーの実はタフィーではない。タフィーを食べてもこの思いは満たされない。たったひと見開きにも満たないこのエピソードに心奪われた読者は多い。もしいつかナルニア・テーマパークが開園したとして、フードコートにはきっと「タフィーの木の実」が名物スイーツとして並ぶだろう。それでもそれを食べて満足する読者はいないのではないだろうか。それくらいこのタフィーの木の実は想像上のパーフェクトスイーツなのである。

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