ソーシャルでエシカルな関心をもつ人を惹きつける、街の中に広がる学びの場「ソーシャル系大学」。2020年3月、新型コロナウィルス感染拡大に関するWHOによるパンデミック宣言は、モノとヒトが頻繁に行き来するグローバリゼーションに急ブレーキをかけている。学びの場づくりに力を注いできたソーシャル系大学の関係者たちも、オンラインとオフラインの利点を見極めながら、新しい学び方を実装化しようと動き出している。今回はそのような動きから改めて問われる、ソーシャル系大学にとっての学びの意味を考えてみたい。
自由に集まり、自由に語り合う場をつくり出す。
過去47回の当連載では、主として日本全国で見られる大人の学びの場を訪問してきた。念頭にあったのは、生涯学習とはカテゴライズされないところにこそ、豊かな学びが広がっているのではないかという仮説だった。そのような観点から情報を集めていると、実際に、いくつものソーシャルな学びを目撃した。
街角の喫茶店で歴史を語る会を開催したり、手作りの一品を持ち寄り、初めて会う人たちと食卓を囲んだり、駐車場に集まった仲間と語り合ったり、街の人が集える公園を実現しようと動き出したりする人たちがあちらこちらに存在し、すでに活動を始めていた。2006年頃から各地で見られるようになったソーシャル系大学は、大学と名乗りながらも自由なコンテンツを、自由なスタイルで展開し、社会の課題を“自分事”として考え、行動する人たちの登場を促していた。
この自由さが、ソーシャル系大学の軸なのだと思う。そしてこの地に足の着いた自由さは、本物の大学の自由が縮減する傾向と対をなしている。
1990年代以降、教育のグローバル化は、教育の経済化(economization of education)、教育の企業化(corporatization of education)、監査国家(the audit state)を生じさせてきた。教育の経済化とは,グローバルな市場で価値を持つ知的財産や人材を送り出せるのかが重視されるという意味である。
教育の企業化とは、そのような教育の経済的価値を最大化するための調査や施策を国に提言する教育産業の発達を指している。監査国家とは、国際機関や民間の調査会社が提供する指標に基づき自国内の教育機関を評価し、質の保証を迫り、点検する国家の登場を意味している(Joel Spring,Globalization of Education: 2nd Edition, 2014, Routledge)。
教育のグローバル化は、国境にとらわれない世界で活躍するグローバル人材の育成を目標に掲げることで、それ以外の目標を、例えば自分たちの暮らしを支え、耕し、改善しようという働きを余分なことのように見せている。
けれども、ローカルな場がないことにはグローバルな世界も成立しない。街のローカルな関心事は、グローバルな世界の社会課題でもある。教育のグローバル化が目指しているのは、自由に発意し、行動する人の育成そのものだと言える。このように考えると、ソーシャル系大学の学びの意味とはやはり、関心を共にする人が、オンラインでもオフラインでも、自由に集まり、自由に語り合う場をつくり出すことなのだと考えられるのではないだろうか。