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多様性

連載 | 福岡伸一の生命浮遊

トリング珍鳥盗難事件

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 わたしが、イギリスのトリングという小さな町にある『大英自然史博物館』を訪問したのは2010年の夏。うかつにも、そのときにはまったく知らなかったのだが、当時、この『大英自然史博物館』をめぐって過去最大とも呼ぶべき事件が起こっていた。正確に言えば、事件そのものは前年の2009年6月に発生した。犯人が捕まったのは2010年10月。つまり、私が訪問した2010年8月は、犯人逮捕に向けて捜査の網がまさに狭められようとしていた最中だったのだ。私の取材依頼に対して、博物館がなかなか許可を出してくれなかったこと、訪問に際してもセキュリティ・チェックがかなり厳しかったこと、防犯ゲートのブザーが絶えず鳴っていたこと(誤作動?)、などいろいろ不思議なことがあったのだが、こうしてその背景を知ると納得できるというものだ。

 それでは、事件について見てみたい。

 2009年6月のある朝、博物館の裏側、塀に近い場所の小さな窓ガラスが割られているのが見つかった。夜間に何者かが侵入を試みたようだった。もちろん守衛はいたのだが、その時間、守衛室でテレビのスポーツ中継に夢中になっていて異常に気づかなかった。そもそもここは自然史博物館。館内にあるのは、動物の剥製や昆虫の標本ばかり。金銀の遺物や宝石の類があるわけではない。なので、泥棒に狙われるような金目のものはなにもなく、警備体制にも油断があったことは否めない。もちろん、貴重な品々も所蔵されていた。ダーウィンやウォーレスといった自然科学史に名を残す学者たちが蒐集した標本類、オーデュボンの鳥類図鑑。そういった所蔵品には文化史的な価値がある。

 博物館は、侵入事件が発覚した後、ただちにそのような主要な所蔵品をチェックしたが、いずれも無事だった。ショーケースに陳列された剥製、そして標本の数々も無傷だった。なので、捜査はいったんここで沙汰止みとなった。誰かがいたずらで、石でも投げて窓ガラスを割っただけか、仮に侵入者があったにせよ、金になるものがなにもないことを知り、そのまま退散したのだと。

 しかし、これはとんでもない楽観論にすぎなかった。侵入者は緻密な計画と明確な目的をもって博物館に侵入し、きっちり仕事を遂行した。つまり、意図した品々を持ち出すことにまんまと成功した。しかし、盗品の価値は、犯人とその閉じられたサークルにしかわからないものだった。それよりもなによりも、博物館側は、当初、何が盗難されたのか把握できなかったのだ。収蔵品が多すぎたからである。そのほとんどは展示されるのではなく、標本の引き出しにぎっしりと詰め込まれ、それが何段何列も並ぶ研究棟の所蔵キャビネットに保管されていた。

 犯人は、事前に、研究者を装って博物館の所蔵キャビネットを詳細に下見して、自分が望むものがどの棚のどの引き出しにしまわれているかを調べ上げていた。彼はその夜、まっすぐに目指す場所に行き、キャビネットを開け、サンプルを次々とスーツケースに移していった。

 彼が窃盗したものは、鳥の剥製だった。赤、青、緑など美麗な羽を持つ珍鳥299点。いずれも捕獲や取引が国際条約で禁じられているか、制限されている絶滅危惧種や稀少種ばかり。それは正確には、仮剥製と呼ばれるもので、内臓や脳を取り除き、防腐処理を施した後、細紐で脚を折りたたんで、学名、採取地や年月日、採集者などのデータを書き込んだラベルが付されていた。いったい、彼はなんのために鳥を盗んだのだろうか。

  『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』(カーク・ウォレス・ジョンソン著、矢野真千子・訳、化学同人刊)は、この事件を詳細に記録した出色の調査報道ドキュメント。本は冒頭、犯人がひそかに博物館に侵入する夜のシーンから書き始められている。ミステリー小説で言うところの倒叙法である。しかも現場に居合わせたようなリアリティがある。なぜなら著者は執念をもって事件を徹底調査し、実際に犯人およびその関係者に直接取材しこの本を書いているからだ。

 盗難された鳥の標本は解体され、きれいな羽が高値でネットのサイトで売買されていた。犯行の裏には、稀少な鳥の羽に血眼になるフライフィッシングの毛針づくりのコミュニティが存在していた。彼らは実際に釣りをしない。美しい羽に飾られた毛針をつくることにだけ執着している。人間が珍鳥に狂奔するようになったのは19世紀後半、博物学的な蒐集に人々の関心が集まることと同時に、ファッションに鳥の羽が重宝されるようになってからのこと。やがて何種類もの珍鳥の羽を使って、芸術品としての毛針がつくられるようになったのだった。

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