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多様性

連載 | 福岡伸一の生命浮遊

フェルメールの“音楽”を再現する

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 私は、ニューヨークのフリック・コレクション美術館の大階段前のホールにたたずんでいた。ここは私が初めてホンモノのフェルメール作品に出合った場所だ。いまから30年も前のこと。当時、フェルメールの名前こそ知っていたものの(昆虫オタクだった私は顕微鏡の歴史をたどるうちにオランダのデルフトという小さな街で、顕微鏡の始祖アントニ・レーウェンフックとフェルメールが同時期、ごく近接して暮らしていたことを知った)、実際の絵を見たことはなかった。フリック・コレクション美術館には、『兵士と笑う女』、『手紙を書く女と召使い』、そして『稽古の中断』と、3点ものフェルメール作品がある。いずれも門外不出で、ここに来ないかぎり見ることができない。
 最初にフェルメールを見たとき、不思議な感覚に胸を打たれた。正確な遠近法とやわらかな光のヴェール。それはどこまでも公平で、清明だった。まるで写真を見ているみたいだ、と思った。そしてフェルメールのことを画家というよりは、世界をありのままに写し取ろうとしている科学者的なマインドの持ち主だったのではないか、と感じた。実際、フェルメールは、カメラ・オブスクラ(レンズつきの針穴写真機のような装置。ただし、まだフィルムはない。磨りガラスの上に風景が映し出される)を使って、3次元空間を2次元のキャンバス上に正確に引き写そうとした。この光学機器は、レーウェンフックから教えてもらったものである可能性が高い。
 当時、私もまた生物学者の卵として、科学の道を模索していた修業中の身だったから、おこがましいことながら、なんだかフェルメールの科学者マインドに好意を覚えた。以来、私は世界中に散らばっている37点のフェルメール鑑賞の巡回を始めることになったのだが、ニューヨークに来る時には必ず、ここフリック・コレクション美術館を再訪することにしている。マンハッタンの喧騒の中にあって、この館の内部だけは静謐な空間がひっそり閉じ込められている。そしてフェルメールの作品は見るたびに、私に新しいことを気づかせてくれる。
 いま、目の前にある『稽古の中断』は、音楽の稽古をしていた女性がふと手を止めてこちらに視線を投げかけた、そんな一瞬を捉えた作品である。そう、フェルメールの絵の中には音楽が満ちている。ギターやリュート、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴァージナル(鍵盤楽器)、フルートといった楽器の数々。そして合奏や練習に集う人々。フェルメールが生きた17世紀中盤、貴族や教会が占有していた音楽が、庶民の手に、普通の家の室内に普及してきた、そんな時代でもあったのだ。彼ら、彼女らはいったいどんな音楽を楽しんでいたのだろう。もちろん絵画なのでそこから直接、音を聞くことはできない。フェルメールの没年は1675年、J.S.バッハが生まれたのは1685年のことだから、フェルメールの音楽はバッハ以前のものだった。
 さて、『稽古の中断』の中の女性はその手元になにか冊子体を持っている。小さな絵の中の、さらにほんの数センチ四方のことなので、細部はよく見えない。それはどうやら楽譜のようである。五線譜のような横線があり、その上に微かに音符のような点が散らばっている。経年劣化や降り積もった時間のヴェールによって、描かれたものはもはや摩耗してしまったかのようにも見える。しかし角度を変えたり、近づいたり、遠ざかったりして、ためつすがめつして凝視するとそれは確かに楽譜なのだった。
 フェルメールの絵に描かれた事物。たとえば地球儀、天球儀、製図用具、地図、画中画、天文学の書物……これらにはすべてほぼ寸分違わない実物が存在していることがわかっている。つまりフェルメールはあたかも写真で撮ったかのように正確、ありのままに被写体を写し取った。『小路』という風景画に描かれた家のレンガと間口の寸法から、それがデルフトの町並みのどの一角だったかまで割り出すことができる。先に述べたとおり、フェルメールは画家というよりは科学者であり、いかに3次元空間をありのまま2次元平面に投射するかを究明していた研究者だった。これが私の見立てである。
 ならばこの音符だって実在する楽譜をそのまま正確に写し取っている可能性がある。それこそ顕微鏡的に楽譜の部分を拡大し、私たちがリクリエイトによるデジタル解析によって、ノイズや汚れ、経年劣化をクリーンアップすれば、音符の相対的な関係を解読することができ、それを五線譜の上に再配列すれば、当時の“フェルメールの音楽”を再現することができるのではないか。そんな夢想に胸が高まった。実際、私はその探求に乗り出すことにした。
 (つづく)

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