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連載 | やってこ!実践人口論

“やってこ登山”は死ぬまで続く

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・「実践人口」を増やすための合言葉が「やってこ!」である。・「やってこ!」が世代を超えたつながりを生み、ローカルをおもしろくする。・実践主義者の山の登り方は無限にある。

つい先日、38歳になった。人生を振り返るにはまだまだ早いとは思うけれど、移住先の自然豊かな長野県で過ごす時間が増えたことによって、好奇心の矢印が自分の内側にずいぶんと向いている。編集者の仕事柄、好奇心は遠く強く外側へ本来向かうもの。土をいじったり、釣りをしたり。自然と自分を重ね、脳と指先の神経ががっちりと握手している感覚があって気持ちいい。

そのおかげで実践主義者としての強い意気込みが収まり、善くも悪くも精神的に穏やかな心持ちになっているのだ。これは社会に放り出されてから初めての体験かもしれない。焦らず、穏やかに、のんびりと生きる。慣れない生活にこんな感情が頭をよぎる。

「Huuuu(風)って会社を背負っているのにっていていいのか!? びゅんびゅんと風を吹かさなくていいのか?」 

目次

登りきれない20代の日々

人生は山に例えやすい。こんなにも例えやすい概念はないし、例えている本人が気持ちよくなりやすいのも厄介だが、読者の方にはグッと堪えていただきたい。26歳で上京し、約10年間は大都会・東京でお勤めを果たしてきた。遅れた社会人デビュー初日は、やることがなくて自発的に社長の机を拭いていた。昭和の漫画かよ。

編集プロダクションを経て、ウェブ系の企画広告会社へ。ライター兼編集者になる夢を叶えるべく、コツコツと”編集山“を2年登ってみたら、あまりにも専門性の高い職能を求められる世界であることに気づいて挫折……。とてもじゃないが書くことが楽しいと思えなかった。しんどさが勝る。山の6合目ぐらいまで登ったからこそ「あ、俺はこの世界で山頂に辿り着けないな」と気づくことができたのだった。なんであんなにも早く見切りをつけられたんだろう。

次にチャレンジした山は”企画広告山“だった。先輩が立ち上げたベンチャー企業に誘われて、見習いのライター兼編集者から見習いのウェブディレクターへ転身。うだつの上がらない暮らしで携帯は止まるし、住民税の差し押さえが容赦ない。銀行の通帳には「サシオサエ」の5文字が並ぶ。

転職先の会社では、営業から企画、広報、制作、経理、総務的な作業まで、幅広い役割に身を投じたことによって”何者でもないスーパーウェルカム状態“をつくり出すことに成功した。夢とプライドを押し入れにしまい込んで、元々の野心は見てみぬフリ。貧乏だった家庭環境を脱するエネルギーで上京したのに、この時期は従順な後輩として会社に貢献し、社会人としてのレベルアップに徹していた。

人生で何度も何度も挫折を味わった経験がそうさせたのだろう。自分の新たな武器をつくるべく奔走し、牙を磨き続ける日々。決して悪い生活じゃない。ウェブ業界の中で注目される会社の立ち上げに尽力できた経験は今もになっている。ただし、「俺はこの会社で40歳を迎えることができるだろうか?」と、長期的な視点でエネルギーを燃やし続けられる自信はなかった。

32歳の徳谷柿次郎
32歳(2015年)。ローカルメディア「ジモコロ」を始めた当初の取材風景。

“ローカル山”は果てしない

32歳で立ち上げ編集長を担ったウェブメディア「ジモコロ」。一度登ることを諦めた”編集山“は、6合目に違うルートがあったようだ。東京のド真ん中の消費的な価値観ではなく、全国のローカルを渡り歩きながら眠っている価値や知恵を掘り起こす役割が、結果的に自分の人生を大きく変えた。中田英寿レベルの”旅人オーラ“をまとい、仕事と遊びの境界線を溶かしていく数年間を過ごしたのは”自分にぴったりな山を登っている感覚“があったからだろう。

34歳で独立し、社員2人を小脇に抱えた現在地点の38歳へ話を戻す。住んでいる場所や職能によって登る山は違うと思っていたけれど、実はすべて地続きで人間ひとりに与えられた山は同じなのだ。”編集山“も、”企画広告山“も、”ローカル山“も、登るルートを無自覚に変えているだけで、死んだときに後悔なき人生を送るための登山にすぎない。違和感をおぼえた40歳まで残り2年。小休止して息を整えられる凪の環境に感謝しつつ、次の実践に向けて歩みだしていきたいと思う。よし、居酒屋をやるぞ。

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