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移住・定住

製薬会社を脱サラして北海道・鷹栖町に移住。第三者経営継承制度で米農家に転身した夫婦の挑戦

山﨑 陽弘(やまざき あきひろ)

山﨑 陽弘(やまざき あきひろ)

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槇敦史さんは、元製薬会社の営業マン。約10年勤めた後に脱サラし、夫婦で茨城県から北海道鷹栖町へ移住。その後、第三者経営継承制度を利用して13ヘクタール(東京ドーム約3個分)の水田を耕す米農家になりました。北の大地で夢を叶えたふたりの挑戦を取材します。

目次

30代前半で模索した「人生の岐路」

槇敦史(まき あつし)さんは茨城県出身の37歳。

大学卒業後、製薬会社に約10年間勤めた敦史さん。各地を転勤するなか「このままの人生で、ほんとうにいいのかなあ」と考えていた頃、赴任地の京都で巡り合ったのが週末に開かれていた社会人向けの農学校でした。もともと農業に興味があった敦史さんですが、それが本当にやりたいことなのか試すために入校。1年間、座学で畑と農業について学び、作物を育てる難しさ、楽しさ、充実感を味わいます。

「そこでさまざまな年齢や職業、考え方の同期と出会い、将来の人生への考え方が柔軟になりました」

そう話す敦史さんはその後、各地の移住・就農フェアに参加したり、本気度を試すために農業簿記1級を受験し習得するなど、「来るべき時」に備えてチャンスをうかがう日々を過ごすのです。

軽トラックを乗りこなす妻の陽子さんは、北海道札幌市出身。

敦史さんが札幌で勤務していたときに知り合い、お付き合いを経て結婚した妻の陽子さん。彼女も当時、敦史さんと同じく会社勤めをしていました。

「夫が農学校に通うことに、当初は興味がありませんでした。ですが、それなりの学費もかかるなか、家族は無料で学べると聞いて『それだったら……』という感じで一緒に通うようになったんです(笑)。一緒に学ぶ中で、夫がやりたいのは稲作だと知りました。ほかの作物ならひとりでも栽培できるものもあると思いますが、稲作は絶対にひとりでできる作業ではないとわかっていたので『いつか、一緒にやるんだろうな』という、覚悟みたいなものはそこで芽生えていたかもしれません」

と話す陽子さんですが「就農することを決め、勤めていた会社に退職願を出す前日まで、本当は迷っていましたけどね」

今では軽トラックが似合う、素敵な「農家さん」です。

運命的な出会いが待っていた鷹栖町

移住・就農先を探していたとき、妻・陽子さんの祖父母が昔暮らしていた鷹栖町(たかすちょう)で人生を変える運命的な出会いを果たします。

「偶然、同じ製薬業界から転身し、農業をされている方と知り合ったんです。半年後、その彼から離農される農家さんを紹介してもらいました。その離農される農家さんが(後に槇夫妻が事業継承を受けることとなる)僕の師匠というわけです」

敦史さんは師匠からご馳走になった米の旨さに衝撃を受け、人に感動してもらえるものを自分たちで生産し、喜んでもらえるものを届けたいと、稲作農家になることへの思いをさらに強くしたのです。

ここから話は一気に進みます。師匠、鷹栖町役場、槇夫妻の三者で継承の相談・調整を行い、2年後の2019年春に「※ 第三者継承」を締結。鷹栖町での生活が始まりました。

※高齢化や後継者不足で離農する農家さんのもとで研修を積み、経営を継承すること。

上川管内・鷹栖町(たかすちょう)

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