その後、水道の水、トイレの水、お風呂の水、雨、霧、水たまり、池、川、海。あらゆる場面で水と遭遇することになる。ふと、病室で見た水滴と同じものではないかと、少しずつ水のつながりを発見していった。水はつながっているようで離れている。バラバラのようでいて矛盾なくつながり合っている。水は巨大な生命ではないかと感じていた。
さて、あなたが“空白で純白で白紙”だったころ。「水にまつわるはじめての記憶」は、なんだろうか。水の記憶をさぐることは、あなたの深い無意識に至るためのゲートだ。
幼少期、こうしてベッドサイドで「いのち」のことを考えていた。むしろ、「いのち」の表現が、水であり、人であり、空間であり、風であり、光だった。いのちが常に主語でありはじまりであり、その姿かたちは万華鏡のように展開されていた。言葉を学習していくと、自然界は名前のカテゴリーの中でていねいに区分けされていき、違和感が残った。子どもの自分にとって、自然界に名前はなく、あえて言えば「いのち」の発露でしかなかった。この世に存在するもの、それは人でも植物でも動物でも、路傍の石でも砂でも、空間に漂う風でも水でも光でも、すべてはいのちだ。いのちは、死という区切りを迎えることで、すべての存在に平等に分配されていく。そうして「いのち」は分配されるように循環する。
受け取ると決めた人が「いのち」を受け取ればいい。いのちは光のように同じ場所に重なっている。死に行く人を看取ることも同じ。死にゆく人の話をしっかりと聞き、「いのち」を受け取ると決める。そうすれば、みんながいのちの中で重なっている。子どものころ、誰もがそうした体験をしていると思う。表層の意識では忘れているだけだ。言語の習得で得るものもあるが、失うものもある。子どもや赤ちゃんを見ていれば誰もが感じることだ。「いのち」は主体的に受け取ろうと決めない限り受け取れない。いのちは集合的なもの。わたしたちは誰かにいのちを託しながら、いのちは重なっている。