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多様性

連載 | フィロソフィーとしての「いのち」

いのちは、さけぶ

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 とある認知症とされる方。どんどん外界への関心がなくなり、連れ添う夫も疲労困憊だった。ただ、本人の瞳の奥には病とは別種の光が輝いているのが時に見えた。瞳の奥の光は、見逃してしまうと小動物のように隠れてしまう。

「認知症」という病名は、時に呪詛のように働く。ラベルを着けられると、人は必ず影響を受ける。影響を受けない人はいない。影響を受けすぎると、病名と自分自身とが同化してしまい、病名が人間をのみ込む異常事態も起きる。医療においては、病の世界へ押し込めるのではなく、日常の世界へ復帰する手伝いも大事なことだ。そして、人は本当に心の底から動かされることでないと、他者からどんなに操作されても根本的には動くことはない。

 何度も相手の話を聞く中で、書道に青春を懸けていた、若いころは書道の先生になりたかったと、深い無意識から浮上してきた。そして結婚を契機に封印したのです、と。

 長く連れ添った伴侶でさえも知らない思いが誰にでもある。そう語る彼女の瞳には若かりし日々の光が灯っているのが見えた。だから、わたしは彼女に、書を少しずつでもいいから再開することを根気強く提案した。「とんでもない。できるわけがない。道具もない。紙も墨もない。何十年も筆は持っていない」。できない理由は無数に挙げることができる。ただ、自分はできる理由も同じくらい無数に挙げることができた。一人では無理だからこそ、夫に手伝ってもらう。夫婦や家族は、人間は一人で生きていけず弱いからこその運命の計らいで、そうした奇妙な集まりなんですよ、と、理解を求めた。夫もわからないなりに書の道具を懸命に探す。そうした行為自体が、病で苦しむかわいそうな二人、という悲劇の筋書きの物語からの脱出でもあった。

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 そこから長い時間がかかる。テレビドラマや小説と同じで、そう簡単に事が運ばないからこそおもしろいのだ、と、着眼ポイントを示唆しながら。すると、会う度にわたしの名前を書いてくれるまでになった。一つひとつの書は、同じように見えてもディテールはすべてが多様だ。トメ・ハネだけではなく、筆圧や勢い、スピード・疾走感、共にじっと見ていると息遣いまで伝わってくる。一枚の紙を異界へのドアとして、お互いの心の底を読み解きあっていく。一枚の紙を世界地図として、大変だった冒険のドラマを共有していく。

 封印していたものでも、心の底から感動したものであれば遠い過去の出来事ではない。常にこの瞬間に、いまここに存在しているものだ。そこにしか悲劇からの脱出の鍵はない。相手の状態を、すこしでもよくするのが治療者の義務だと思う。医療の現場で、お互いに向かう目標を見失ったとき、いつも見据えるゴールは「幼少期の自分」だ。混じりっ気がなく純粋で、その人がその人自身であったときの原型。たった一人で宇宙全体と向き合っていたころの自分。書に集中しているとき、彼女は少女へと戻っている。

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 私の文字を探求し尽くしたようなので、次は病院の名前を書いてもらおうと、「旧字でお願いできますか」と言おうとした1秒前に、こちらの気持ちを見透かしたように、「軽井沢は旧字じゃなきゃ美しくないですよ」と、威厳と誇りに満ちた声が飛び出てきた。

 わたしたちは、自分自身の声を失っていることがある。ほかでもない自分自身の声をこそ、取り戻さなければいけない。

文・絵 稲葉俊郎
いなば・としろう●1979年熊本県生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014-20年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(「山形ビエンナーレ2020」芸術監督就任)。在宅医療、山岳医療にも従事。未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。単著『いのちを呼びさますもの』(2017年、アノニマ・スタジオ)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年、同社)、『ころころするからだ』(2018年、春秋社)、『からだとこころの健康学』(2019年、NHK出版)など。www.toshiroinaba.com
記事は雑誌ソトコト2021年11月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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