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多様性

連載 | こといづ

あいた

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 ブオオオィィィン、朝も早くから、草刈り機のエンジン音が聞えてくる。バリバリバリ。「もうすぐコンサートやから草刈り機が使えへん。振動で指が動かへんくなんねん。コンサートが終わったら思いっきりやるわ」と、スエさんに話していたのが、ありがたいなあ、スエさん、何も言わずに我が家の伸び放題のぼうぼうの草っ原を何日も掛けて刈ってくれた。腰を悪くしているのに申し訳ないと思いながらも、いまやれることに集中しようとピアノの練習に向かう。ピアノの前に座って、楽譜を広げてみる。さて、困った、どうしよう。初めての本格的なオーケストラとのコンサートなので、準備ひとつ、練習ひとつとっても要領が掴めない。まずいことに、自分が作った曲なのにメロディが覚えられない……。

 かれこれ20年、楽譜やメトロノームを使わないやり方でやってきた。料理するときに分量や時間を計らないようなもので、「だいたい」でやってきた。妻にはすっかりバレているけれど、僕は音痴だと思う。音痴といってもいろいろあって、僕の場合、正しいメロディを覚えるのがほんとうに苦手で、できれば、歌ったり演奏したりするたびに、「もっとよいメロディないかな。今日、このいまの気持ちにふさわしいメロディがないかな」と探したい。弾く度に少しずつメロディが違う。テンポも違えば、ノリだって違う。その日の気分で変わってしまう。これが、オーケストラと一緒に奏でるとなると、どうにもうまくいかない。70人近い演奏者が一斉に音を鳴らすのだから、揺るぎない計画が必要で、その計画書に従って、脱線しないように慎重に奏でなければいけない。ああ、こんな風にきちんと演奏したのは高校生の頃が最後だっけ、久し振りに背筋を伸ばして、決められたメロディを決められたとおりに演奏してみる。うう、辛い。1か月、続けてみると、だんだん楽しさがわかってきたけれど、やっぱり新しく思いついたことを試してみたくなる。「あんた、どうしたん。背中が痛いんか」、ハマちゃんが練習を覗きにきて、ギックリ背中で寝込んでいた僕の背中をじっくりさすってくれた。「気負い過ぎて内臓が詰まってしまったんやわ。わたしはな、あんまは上手や。隣のおばちゃんもな、時々あんましたげんのやで。気持ちよいです、よう効きます、と、そんな塩梅やから、あんたもようなる」。「週末のコンサート、楽しみにしとるで。あと少しや、気張りない」。

 オーケストラとのリハーサルが始まった。「この曲はこういうイメージです。こういうテーマがあるので、そこを目指したいです」と皆の前で話をしてみたけれど、いつもと違ってなんだか反応がない。し〜んとしている。これまでにもプロの現場で何度か味わったことがある空気だ。言葉が違うのだろうか、何か間違ってしまったのだろうかと不安がよぎる。僕が音楽に対して使う言葉は、「エチオピアには首を振るダンスがありまして、その踊りがこの曲の元になっています。なので、(踊りを見せながら)、右に身体が来る時と、左に身体が来る時に跳ねるようなアクセントが欲しいのです」といったもので、曲が生まれていった過程をそのまま相手に理解して欲しいのだと思う。「ここでクレッシェンドして、ここはフォルテで」と言ったような説明のほうが通じやすい場もあるけれど、僕には難しい。「踊れることのほうが大事なので、楽譜どおりでなくても大丈夫です。間違っても変更していただいても構いません。踊りたくなるような演奏にしたいです」と、いつもなら「そうかそうか」と伝わる言葉でも、ここでは伝わりにくいのかもしれないと思った。

 指揮者に合わせてピアノを弾くのもはじめての経験だ。指揮者の広上淳一さんを目で追っていても、意図がわかるようでわからない。試しに、手を振り下ろした時にピアノを弾いてみる。ジャン! あれ、オーケストラも一緒に鳴らすはずなのに一人ぼっち……すると、少し遅れてオーケストラがズジャン!! どうやってタイミングを合わせたらいいのか、さっぱりわからない。「あなたは小型車。だからどんな狭い道もすいすい、急カーブも曲がれます。だけど、オーケストラはダンプ車のようなものです。だから急発進はできないし、カーブもゆっくり曲がります。その感覚に慣れてください」。コンサートが終わった今なら広上さんの言葉の意味がよくわかるけれど、練習の最中は気にすることが他にもたくさんあり過ぎて、解釈が追いつかない。そこで、目を閉じて、いつもどおりやってみようと、周りの音を聴いてみた。音を鳴らす直前のちょっとした物音や息遣いが聴こえる。広上さんの呼吸が聴こえる。それが分かってからは、耳を頼りに、呼吸や心を合わせられるようになっていった。本番では、僕の心も溶けて、歌い手のアン・サリーさんも加わって、大きな鯨のような、皆でひとつの、ゆったりとした生き物のようになった。

 オーケストラの音をホールで聴くことも、一緒に奏でることもはじめてのことだったので、学びがたくさんあった。学ぶということは、自分が今まで持っていたものを破壊しないといけないんだなと気づいた。掃除と一緒で、空いているスペースがあるから新しいものが入っていける。「これはこう」と決めつけ過ぎていると、相手が入っていけるスペースがなくて、人と一緒に何かをやる意味はあまりないのかもしれない。リハーサルの間中、戸惑っている僕に、広上さんは何度も言葉を掛けてくださった。それまでの人生の経験や音楽への取り組み方にたくさんの違いがあるし、思い込みや勘違いもたくさんあるので、いただいた言葉を直ぐにそのまま受け止めることは難しかったけれど、本番が終わっても、もらった言葉の意味を考え続けている。その場では「なぜ、そういう風に言うのだろう」と思った言葉でも、「あれはこういうことを伝えようとしてくれたのかもしれない」と受け止め直して、そうなると、それはもう誰かの言葉ではなくて、自分の言葉になったということなのかもしれない。

 コンサートから戻った翌日、初めての自分たちの田んぼに、初めての田植えをした。村のおじいちゃんおばあちゃんも集まって、同じ世代の若い友人たちも遠方から駆けつけてくれた。さて、困った。集合時間に田んぼに行くと、村の人たちが「まだ始まらんのか、遅いにぃ」という雰囲気になっておる。そうだった、30分前、いや、1時間前には集まってしまうのだった。若い組で「これくらいの幅だから、何センチ感覚で均等に割って」と相談していると、見かねたヒロシさんが「うりゃあ、そんなもん勘じゃぁ」と、ぎゃぎゃいと杭を打って紐を張っていく。もはや、最初の計画なんてあったもんじゃない。頭の中がぎゅるぎゅる渦巻きながら、それでも、「えいやっ、どうせもともと何もわかっとらんのやから」と裸足になって泥田んぼに入っていく。「手植えなんて、30年振りや。こう、こうやって苗を突き刺していく。握るんやない。こう」、ハマちゃんの手に吸い付くように、苗がするするっと泥の中に植わっていく。僕の5倍のペースで、とても追いつけない。田んぼ一面に緑の産毛がそよぐ。ここはみかをちゃんがやった列、ここはミホちゃんがやった列。その人の癖がそのまま出ている。「ああ、皆でやるってええなあ。いっぱい混じっておるなあ」。

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