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多様性

連載 | フィロソフィーとしての「いのち」

いのちは、うみだす

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 母校から声がかかり、高校生と対話をした。

 高校時代は自分も悩み多き時期だった。そもそも勉強をする意味が見出せなかった。ブラブラと遊んでいるように見えた時期も、レコード屋を巡って音楽や歌詞を学び、古本屋を巡って漫画や古書で哲学を学び、洋服屋を巡って色彩やファッションを学んでいるような時期だったとも言える。

 目標が定まらない。クラゲのように浮遊していた時、親が東京へ連れて行ってくれた。東京という場所で身体が反応し、場の力(ゲニウス・ロキ)なのか、時間軸が捻れたのか、数年先まで東京で暮らしている自分自身のリアルな映像が頭のスクリーンに浮かび上がった。明確な未来に引っ張られるようにして物事が動き出したのだった。

 現在地と目的地がクリアになった。車のカーナビでも大事なことは、自分が今どこにいるのかということと、目的地はどこか、という2点の情報だ。その2つが明確でないとナビゲーションは有効に起動しない。自分の位置と目的地が“旅の航海”に必要なのだろう。

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 現役の生徒から「問題が解けず困っている」という、一見ありふれた悩みを聞いた。高校生の自分も、同じ悩みを根源まで深く考えた。その結果として、意外な鉱脈にたどり着いたことを思い出した。

 テストの問題には、必ず問題を作った人がいる。人工物の背後には、必ず見えざる作者がいる。そして、人間だからこそ、気質や性格が問題に浮かび上がってくる。意地悪く重箱の隅をつつく性質の人もいるし、正しい理解へ導くことに苦心する愛ある人もいる。問題のテキストを入り口にして、出題者がどんな気持ちで問題を作ったのかと、問題の受け手ではなく作り手側の立場に立って問題の成り立ちを眺めることが大切なのだ。立ち位置と視点とを意図的に移動しないと、問題を出す側・出される側という構造自体が変わらない。出題者側に立つ習慣をつくると、問題を作る側の視点が自分の中に生まれる。そして、問題は必ず解けるようにできていることがわかる。

 自分は問題を出した側の視点に立って、問題を眺めていた。時には批判的に、時には賛辞を送りながら。出題者の気持ちに共鳴する。そうしていると、出題者の机や椅子や部屋の空間も含め、どんな気持ちで問題を作っているのかと、イメージが泉のように湧いてくる。対話しながら問題を解くことができる。

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 高校生の自分がぶつかっていた壁は、問題の背後にある場の構造そのものだったようだ。問題を出す側・出される側としてテリトリーが明確に分けられると、枠の外へ出られなくなる。枠自体に気づかないからだ。そうして学問の消費者側へと永久に回される。そうではなく、学問の創造者側にも回る必要がある。消費者と生産者は対立概念ではない。食の世界もそうだし、文化や芸術の世界もそうだ。そして、わたしは医療者としても同じ気持ちでいる。

 医療を消費者側の立ち位置だけでいると、自分のいのちは消費され消耗していく。一人ひとりがいのちの当事者として、自身のいのちの生産者、創造主の側に立つこと。わたしは高校生の時に対峙していた壁に、今も向き合っている。

文・絵 稲葉俊郎
いなば・としろう●1979年熊本県生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014-20年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(「山形ビエンナーレ2020」芸術監督就任)。在宅医療、山岳医療にも従事。未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。単著『いのちを呼びさますもの』(2017年、アノニマ・スタジオ)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年、同社)、『ころころするからだ』(2018年、春秋社)、『からだとこころの健康学』(2019年、NHK出版)など。www.toshiroinaba.com
記事は雑誌ソトコト2022年1月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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