情報の分配

連載 | 福岡伸一の生命浮遊 | 90 情報の分配

 私たちヒトは、多細胞生物である。脳細胞、皮膚細胞、筋肉細胞、膵臓細胞など、姿形が異なるさまざまな細胞が役割分担をして、私という一個体の身体を構成している。その数はおよそ37兆個。この数は昔は約60兆個と長らく信じられてきた。私を含め生物学者も気にせずそれを使ってきたのだが、最近になって改訂された。何事も懐疑的・批判的な精神が必要であることの見本のような事例である。


 というのも、60兆という数値の推定方法がかなりずさんなものだったからである。細胞ひとつの平均的な重さで、人体の重さを割っただけだったのだ。しかし、ひと口に細胞といっても、赤血球のようにごくごく小さいのにものすごい数があるものから(健康診断で出てくる数値を憶えていますか。1マイクロリットルあたり約500万個。体重50キロの人の血液はおよそ4リットルあるからそれだけで約20兆個にもなる)、神経細胞のように細長いもの、筋肉細胞のようにぎっしり詰まったものなど、千差万別。そこで各組織、各臓器ごとの細胞の特徴をもとにもっと精密な推計が必要となり、これを実際に行ったイタリアの科学者が新たに算出した値が約37兆なのである。数は減ったとはいえ、依然膨大な数字である。60兆個という昔の推計も、桁数は間違っていなかったので大目に見るべきだろう。


 さて、この37兆の細胞はすべて、受精卵が2、4、8、16……と分裂してできたもの。これが多細胞生物の由来である。37兆の桁に達するには45回分裂する必要がある。


 受精卵は、精子と卵子とが合体してできたひとつの細胞である。受精卵が持つDNA情報の量を仮に100とすると、それは父方に由来する精子が運んできた情報50と、母方に由来する卵子が運んできた情報50の和の100ということ。受精卵が細胞分裂すると、この100の情報はその都度、コピーされて受け渡されていく。だから脳細胞も、皮膚細胞も、筋肉細胞も、膵臓細胞も、すべて受精卵と同じ100の情報量を受け継ぐことになる。少し前の時代の生物学者たちは、そうは考えていなかった。


 多細胞化の過程で、細胞はそれぞれ専門化していく。そのとき受精卵が持っていた100の情報は取捨選択され、その結果として個性化が進むと考えられていた。つまり、脳細胞なら100のうち、神経活動や情報伝達に必要な情報40を、皮膚細胞なら表皮の形成や感覚、汗腺のために必要な情報35を残して、あとは捨て去っているというのが古典的な仮説であった。これを完膚なきまでに否定したのが、英国の生物学者ジョン・ガードンの核移植実験だった。皮膚になったカエルの細胞のDNAを、受精卵のDNAとすげ替えても、その受精卵はちゃんと細胞分裂を行い立派な一匹のカエルとなった。つまり専門化した細胞であっても、受精卵と同じ100のDNA情報を保持している、ということを証明した。


 では、専門化した細胞と受精卵細胞ではいったい何が違うのか、ということが問題となるが、それはまた別の稿で詳しく述べるとして、ここでは細胞分裂とDNA情報の受け渡しについて考えてみよう。すでに述べたように細胞が専門化(これを分化という)してもすべての細胞は受精卵と同じ100の情報を受け継いでいくのだが、ただひとつだけ例外がある。もしあなたが女性なら、細胞が分化して卵子が形成されるとき、そこに受け継がれるDNAの情報量は受精卵の半分の50となる。もしあなたが男性なら、精子が形成されるとき、そこに受け継がれるDNAの情報量も受精卵の情報量の半分の50となる(さらに正確にいえば、X染色体とY染色体の差異があるのだが、これまた別の機会に述べることにしたい)。


 この50という情報量は、もともと受精卵がその母と父から受け取った50・50の情報量と同じ分量であるのだが、その内容はまったく異なるものになっている、という点が重要なのである。この点に留意して次回以降、さらに話を進めてみたい。

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