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多様性

連載 | ゲイの僕にも、星はキレイで肉はウマイ | 61

両手ですくうように。

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誕生日って難しい、と小さい頃から思っていた。「自分は大切な存在なのだ」という認識をどこかに落としてきてしまったのか、気づいた時には、みんなから大切にされていいらしいこの日の受け取り方が、よく分からなくなっていた。タンクを持っていない車みたいだと、自分のことを思っていた。どれだけ「おめでとう」と言われても、それを入れるタンクがない。せっかくもらった愛情もやさしさも、道に置いていくしかない。そんな感覚だった。

諸般の事情で大阪に戻って、2年が経った。僕にとって大阪は、「地元」や「故郷」と言えるほど距離の近い存在ではない。小学生の頃、気に入っていた下町から、冷めた住宅街(それはつまり“大阪”とはいえない場所)に引っ越した。中学と高校はその住宅街の果てにある私立で、大学は兵庫の山奥、おまけに僕は陰鬱なゲイの少年であったから、大阪で温もりめいたものを感じる機会がなかった。

僕の居場所となったのは東京だった。東京に出て、僕はゲイであることを隠さずに生きた。「カミングアウトは人生において些細な出来事だ」なんて息巻いていた時期もあったけれど、振り返れば、深く息を吸えるようになったのはあの頃からだ。かつてヒューヒューと喉を鳴らしながら生きていた自分の目つきは相当悪かったようで、学生時代の友人らに結婚式なんかで会うと、「丸くなったね!」と言われる。今の自分も明らかに鋭利な部類の人間なので、以前はどんなに酷かったのだろうとゾッとしながらステーキを食べる。自分にとって都合の悪いことを人間は忘れてしまうのだ。そのことにもゾッとして赤ワインを飲む。

だから居場所なき帰阪は不安だった。友達もいないし行くところもないから、1年ほど飲み屋をよく廻った。そして、いく人かの尊敬するママに出会った。ママたちは、お店にお邪魔した翌日、たいしたお金も落とさない僕に必ず「昨日はありがとうございました」と連絡をくれる。応援している方がお店を始めればすぐに駆けつけるし、一緒に行こうと誘ってくれる。彼らはご縁を両手ですくって運ぶように生きていて、その姿を見ていると、あぁ僕もその手のひらにのせてほしい、僕もそんな風に生きたい。そう思うようになった。

思えば僕の人生にはこういうのが足りなかったのかもしれない。東京にいた10年間、「結果を出せばいい」「有能であればいい」、それだけを考えて生きてきたように思う。夢をもつ人間としてそれは大切な経験だったけれど、僕の体内には「もっと結果を出さねばならない」という絶えぬ不安と、「どこがゴールなんだ」という答えのない疑問が蓄積しつづけていった。

仕事をしていると、お中元の送付リストを面倒くさそうに整理する日や、出張土産を無感情に箱買いする日があるけれど、今ではどこかに出かけた時、ママたちに「何を買っていこうか」とお土産を選ぶ時間が本当に好きになった。彼らを真似て、こころの中で両の手のひらを丸くつくる時、僕の中にたまっていた何かがサラサラと蒸発していく。

大阪に来てよかったと思う。誰しもが、人生を思い通りに進ませたいと思うものだけど、思い通りに進むのが良い人生なのかといえば、決してそうではないのだと、この街に来て気付いた。僕は先月で35歳になった。年甲斐もなく恥ずかしいけれど、誕生日会をしてくれないかと、初めて友達に連絡をした。

文・太田尚樹 イラスト・井上 涼

おおた・なおき●1988年大阪生まれのゲイ。バレーボールが死ぬほど好き。編集者・ライター。神戸大学を卒業後、リクルートに入社。その後退社し『やる気あり美』を発足。「世の中とLGBTのグッとくる接点」となるようなアート、エンタメコンテンツの企画、制作を行っている。

記事は雑誌ソトコト2023年11月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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