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多様性

連載 | こといづ

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 長い長い十月十日の日々。お腹の赤ちゃんが大きくなるにつれて、妻の表情がちょっとずつ母親っぽくなっていくのがうれしい。僕は、少しはしっかりしただろうか。今のうちにと、できる限りの仕事を済ませておいた。次の仕事ではたくさんの曲が必要になるので、毎日作曲し続けた。これから我が子が大きく育っていくことを想像すると、これまでの自分も振り返ってしまう。幼稚園の頃はこういうのが好きだったな、成人の頃にはこういう風に世の中を見ていたなと、思い出しながら自然と音楽になっていった。自分の歴史を振り返るだけでなく、この子の視点が入り込んでくるのが、どうにもおもしろい。毎日、仕事を早めに切り上げて、今まで妻に任せていた家事をできるだけ一緒にこなすようにした。妻がどんな風に一日を過ごしていたのかが分かって感謝しかない。

 いよいよ出産予定日が近づいて、あとは陣痛が来るのを待っていた。同じように出産を待っていた友人の多くは、予定よりだいぶ早めに生まれてきて、自分たちもそうなのかと思っていたけれど、予定日を余裕で通り越し、まだかまだかとそわそわしだす。

  「おしるしが来たかも」。夜9時になって、ようやく待ちに待った変化がやってきた。そしていよいよ陣痛が起こり始めたので、急いで用意していた荷物を抱えて病院に向かった。真夜中3時、病院に着くなり検査。「子宮口は3センチ開いとるね。まだまだこれからやね。陣痛の度に、ぎゅーっと子宮を縮めて赤ちゃんを押し出そうとしとります。赤ちゃんも自分の頭を旋回させながら出ようと頑張ってるからね。お母さんと赤ちゃんの両方の力で子宮口が10センチまで開くんよ。今日の夕方までに生まれたらいいね」と助産師さんたちは部屋から出ていった。前もって勉強はしていたけれど、初産なので、全体像がさっぱりわからない。灯りを落とした部屋で、二人っきりで次の陣痛に備えた。

 ぱっと窓の外が白んで朝日が眩しい。あれからずっと5分おきにやってくる陣痛の度に、妻は痛みを受け止めながら、いきみを逃し続けていた。脂汗が出て痛そうだ。僕は背中や腰をさすったり指圧を続けた。いつになったら次に進むのだろう。ところが、寝ていないこともあってか、間隔が10分になり、20分になり、どんどん遠のいていく。陣痛が消えてしまうみたいだった。「初産やから30時間かかるかも。休める時に休んでくださいね。寝たかったら寝てください」と助産師さんが言うので唖然とした。この状態をあと24時間?  うとうとしていたら、「いたたたたた。かっちゃん、お尻、テニスボールで押して!」と今までにない痛みが始まった。「ここかな。もっと上かな下かな」。分からないままに、力の限り肛門のあたりにボールを押し付ける。どうやら、こうすると少しは楽になるようだ。ベテランの助産師さんがやって来て、一緒に呼吸を整えながらマッサージをしてくれた。ペースが安定して、ものすごく痛そうな陣痛が何度も来るようになった。彼女のやっていることを僕ができるようになったらいいのかと、計器の読み方を横目で理解し、動き方も真似て覚えた。「こうやって、普通の陣痛を乗り越えて、強い陣痛を呼び起こすんよ。逃げたら駄目。もっともっと強い陣痛が必要。私は夕方で交代やからね、うまくいってる。頑張るんよ」とまた二人の時間に戻った。気がつけば、再び真夜中。ずっと全力でマッサージをしていたので、にクラクラしてきた。子宮口はようやく4センチまで開いた。待ったなしにやってくる陣痛が嵐の大波のようだ。ほかの助産師さんも時々手伝ってくれるけれど、「ちょっと違う。かっちゃん、お願い!」と僕のやり方が合っているようだ。頼りにされているのはうれしいけれど、食べる暇も休む暇もない。陣痛の合間のわずかな時間に、妻に水を飲ませ、ものを食べさせ、空になったペットボトルに熱いお湯を入れて簡易湯たんぽを作り、背中をさする、足を揉む、気を抜いた瞬間に気絶するみたいに睡眠、また陣痛、ひっ、ひっ、ふうぅぅぅぅ、必死でテニスボールを押し込む。あまりに痛そうで、妻のお尻の骨は粉々に砕けてるんじゃないかと思った。妻が本能のままの動物みたいになっていってる。

 再び朝日が差して、医師の診察が入った。「子宮口は5センチ。あなたも赤ちゃんも元気そうやけど、まだ頑張れる?」、妻はすかさず「もう無理です。促進剤でも何でも使ってください。いま元気に見えるのは、朝になったら先生がてくれるって言ってたから我慢できてただけです」と涙ぐんだ。「わかりました。様子を見て、促進剤を打ちましょう。でもせっかくここまでたどり着いてるから、出来るところまで頑張ろう」と、再び二人きり。痛過ぎてろくに動けない妻も、最後の力を振り絞って、歩き回ったり、スクワットをしたり、いろんな姿勢で強い陣痛を作っていく。昼になり、36時間経過。もう体力がどうとか考えられない。陣痛促進剤の投与が始まって、陣痛が2分間隔になる。もう休む隙間もなく、痛みが部屋中に充満している。若い助産師さんが入って来て、「勝負です。一気に陣痛を強くしましょう」とあらゆる姿勢で痛みを受け入れた。僕も最後の力を振り絞って、マッサージをした。妻の手ががくがく震えている。代わってあげたいけれど、一緒に乗り切るしかない。もう妻が妻というより、みんな一緒ごたに、ひとつの生き物に同化していた。

 陣痛がはじまってから42時間。「分娩室に移動します」。慌ただしく、でも一歩一歩、ゆっくりと分娩台に上がる。真っ白な明るい部屋。足を広げる妻。映像や写真で何度も見てきた光景だ。現実味がない。「はい、いきんで!」、んんんんんんんん! 「はい、休んで」、はあっ、はあっ、はあっ、妻の後ろで、妻以上にいきんでいる自分がいる。「赤ちゃんの頭がちょっと違う方向やね。少し切って口を広げます。はい、いきんで!  もっと屈み込んで、自分のお腹を見て!」、んんんんんんん!  まだ出てこない。「次、出てこなかったら、帝王切開になります」。えっ。「はい、いきんで!」、うぉおおおおおお、お祭りの神輿を持ち上げるみたいに、全力で妻の背中を持ち上げた。妻の躰がぐっと前にのめり込んで、お腹の向こう側に、赤ちゃんの頭が出て来たのが見えた。くらっとした。おぎゃあああああ。予想もしなかった聞いたこともない泣き声が聞こえて、ああ、本当に全然想像できていなかった。この子がここにいる。わあ、わあ、わあ!  こんなことがあるんや!   とその瞬間、全部、すべて、リセットされるような、世界のほんとうの姿を感じたような、生まれたての赤ちゃんに僕自身がなってしまったような、そんな不思議が起こった。次の瞬間、現実に引き戻されて、赤ちゃんのきょとんとした顔がこちらに近づいてくる。はああああ、ふああああ、やったあ。よかった、よかったあ。妻がぐしゃぐしゃの笑顔になって赤ちゃんの名前を呼ぶ、抱きとめる。僕は両の手を広げて、二人を抱える。ああ、なんてこと。生まれて来てくれてありがとう。ありがとう。

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