広島市の山間にある、焼きたてのパンなどを売る食料品店『山のパネテリエ』。昨年7月、広島県を襲った豪雨災害の後、店主のはまむらたろうさんは避難所へ毎日、パンを届けました。最初は自費だけで、途中からは多くの支援を受けながら。「みんな、誰かを助けたいと思っている」。そんな人の懐の深さを感じたそうです。
つながりが感じられるパンを焼きたい。
広島市安芸区阿戸町、山間部の中腹にあるパンを中心とした食料品店『山のパネテリエ』。店主は広島市を拠点に、地域再生や町おこし、そのための商品開発、商品デザインなどを行う『ローカルメイド』を経営するはまむらたろうさんだ。
2018年7月、広島県は豪雨災害に見舞われた。広島市では土砂崩れや砂防ダムの決壊、冠水などにより23人の死者、2人の行方不明者が出た大きな災害となった。大雨となった7月6日には、はまむらさんの自宅から『山のパネテリエ』までの道も浸水や渋滞が発生し、雨がひどくなった7日の朝には完全に行くことができない状態になった。「なんとか店に行けたのは3日後。幸いなことに水道もガスも使えて、パンは焼ける状態でした。でもお客さんは当分来られないだろうし、どうしようかと途方に暮れました」。
もともと、はまむらさんがこの場所と出合ったのは2011年冬。『ローカルメイド』の仕事で、この場所にあった『山のパン屋さん』というパン店の運営を手伝ったのがきっかけだった。
2016年、前オーナーから託され、自身が経営者となって『山のパネテリエ』をオープン。『ローカルメイド』と並行して仕事をし、毎週木曜〜日曜の営業日には、山の湧き水を使って、スタッフと共に何種類ものパンをていねいに焼き上げている。「パンがメインですが、コンセプトにしている『つくると食べるがつながるところ』を伝えたい気持ちが第一。農家さんなど生産者と消費者との接点になることが目的です。生産者さんの顔が見えるような食料品を置いていますが、それを『おいしかった』と誰かに話していただくことで、生産者さんや消費者の方に幸せやつながりを感じていただけたらと思っています」。
はまむらさんは広島市内で洋菓子店・喫茶店などを営む両親のもとで生まれ育ち、社会に出てからは兵庫県神戸市の貿易会社で働いた。「その仕事にも満足していましたが、『ありがとう』と誰かに言われることが何より好きでした」と話す。「子どもの頃、実家でお菓子づくりの手伝いをしたときにも感じていたのですが、『目の前の人の向こうにいる誰かを喜ばせるもの』をつくることに、喜びを感じていました」。
しかし、あるとき、目に異変が起きる。若年性の白内障に罹り、パソコンを使っての仕事を続けることが難しくなったのだ。悩んだ末、充実感の原体験になった洋菓子づくりの道に進もうと、30歳にして各地に修業へ。いずれは家業を継ごうと洋菓子づくりを学んだが、時を同じくして、実家の店は廃業することになった。
「実家を引き継ぐ話もありましたが、多くのことを背負うほどに、もっと自由な働き方があるんじゃないかという思いに駆られ、業種に捉われず仕事をしようと『ローカルメイド』を立ち上げました。まずは広島のいろいろな店を回ってみました」。
食べてくれる人の顔を思い浮かべ、配達を続けた。
行った先々では、店づくりや原材料の選び方、ショップカードひとつをとっても、その店の思いを伝えるために改善できることがあると感じた。そして、店の人たちがそういった話を積極的に聞いてくれたこともあり、プロデューサーとしての仕事も請け負うようになった。
そのうちに店舗だけでなく地域のよさも伝えるようになり、商品づくりでの実績を認められ、6次産業化プランナーとしての活動も開始。そんななか、『山のパン屋さん』を引き継ぐことになったのだった。
店を「試作小屋」と位置づけ、大きな利益を上げることが目的ではなかったのでメディア露出も控え、DIYで改装しながら営業を続けた。その2年後の豪雨災害だった。
店へ続く山道が寸断されたなか、「近所のスーパーでは、手軽に食べられるパンが売り切れになっている」というスタッフのためにパンを焼いていたとき、今中扶美子さんという高齢の女性が「店に人がいる」という噂を聞きつけ、パンを買いにきた。今中さんの娘さんがよく店に来ていたのだという。その娘さんの家族が同じく豪雨被害を受けた広島県・熊野町の避難所にいるので「ここのパンを食べさせてあげたい」と、今中さんは言った。
「今中さんのお孫さんのお友達が亡くなったそうです。その事実をまだ理解できず、元気にあいさつをしてくれたお孫さんと、申し訳なさそうにされるおばあさんの姿を見て、こんな時、申し訳ないことなんてなにもないと、避難所へパンを届ける活動を始めました」。
パンは1種類ではなく、選ぶ楽しさを感じてもらおうと、6種類ほどは焼いて持っていくようにした。市販のもので支給される軟らかいパンだとうまく飲み込めないという高齢者もいたので、よく噛めて唾液が出る硬めのパンや、子どもたちが少しでも楽しい気持ちになれる形の菓子パンなどを入れた。その日手に入る食材、場所やメニューにもよるが、多いときは1日で1000個以上を各地へ届けた。子どもたちが選ぶとき、遠慮するのを見るのが忍びなく、多めに焼いた。
「卵アレルギーの子どももいて、その子に寂しい思いをさせるのが嫌だったので、卵の入っていないパンも必ず1種類は入れました」。
実際に避難所でパンを食べたという井口美智子さんは、「野菜不足だったので、ニンジンやゴボウなどの野菜入りのパンがあったのがうれしかった。食べる人のことを考えてくれていると感じました」と語る。
みんな、誰かを助けたいと思っている。
当初、この活動は自己資金だけで続けていた。パンは無償支援だ。当然のことながら金銭的に次第に厳しくなっていった。はまむらさんは覚悟を決め、SNSやメディアへの取材依頼を通し、支援金や原材料提供などのお願いを呼びかけた。「恥ずかしいし、怒られそうだけど、僕も正直に困っていることをみなさんに伝えました。すると、すぐに多くの方々から応援の声が上がりました。『このお金を届けたいから現金書留で送りたい』という方。『私の好きなあのパンを届けてあげて』とお金を振り込んでくださる方。北陸から良質な材料を届けてくださった方や、東北や熊本県の被災地からの支援もありました。ボランティア団体の方が『自分たちではできない支援だから』と、集めた支援金を預けてくださったこともありました」。
そんな活動に対して、「売名」などという声もごく一部ではあった。はまむらさんは、「『被災地を救う』というような、大きな『志』だけで進めていたら、心が折れていたかもしれません。でも、ちょっと到着が遅れただけで僕のことを心配してくれるようなおばあさんや、卵アレルギーのあの子……と、パンを楽しみにして食べてくれる方々の顔が浮かび、その一人一人に届ける思いだったので続けられました」と話す。
この活動をとおして、はまむらさんは「世間の懐の深さ」を知ったという。「みんなが誰かを助けたいと思っている。僕への支援をとおして、誰かがおいしいパンを食べられるとわかり、多くの方がお金や材料を預けてくれたことがうれしいです。ずっと人と人とをつなげるための店づくりをしていて、その思いが伝わっていたのかなと感じました」。
今、はまむらさんは、洪水で川の砂が入って使えなくなってしまった田んぼで育てたじゃがいもを使ったフライドポテト「ポテトブロッサム」づくりや、ボランティア活動の活動支援金づくりに活用してもらうための商品づくりにも励んでいる。
今年7月初旬、豪雨災害から1年を迎え、はまむらさんは4日間限定で「パンを売らない」ことを決めた。パンを焼き、持って帰ってもらえるように用意はするのだが、パンの価値を決めるのはお客様だ。対価は「ありがとう」の一言でもいい。「今日は無料です」と伝え、すべてはお客様に委ねた。
終わってみると、店の外に置かれたテーブルには材料費以上のお金が置かれていた。このお金は、これから始める復興支援活動「投げ銭パン屋」の資金にし、活動も広げていく。「被災者の方々は特別な人ではありません。ご近所さんでも友達でも同じ。ギリギリのおせっかい。防災や復興はそんな心のやり取りから始まるものだと思います。できない理由を考えず、当事者として一緒に考えていきましょう。今は被災地からの『ありがとう』の声を、支援者の方々へ何十倍にして伝えたいです」。
災害に対して、普段から備えていること、心がけていることは?
はまむら たろうさん 『山のパネテリエ』店主
相手の立場で考えること。普段から「自分がどうしたいか」ではなく、「相手は今、どういう気持ちなのか」に集中して行動するようにしています。被災者と支援者のどちらも経験して、そんなある種の想像力は、「本当に困った人」からその声を引き出してくれる気がします。
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