人間関係も地域もジャンルもフラットに。

連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶーローカルプレイヤーの働き方とは | 36 人間関係も地域もジャンルもフラットに。 居心地よく暮らすために、“良き隣人”でありたい。

2021.11.23

ュージシャンとして活動しながら、鹿児島・東京を拠点としてジャンルを超えた場づくりをする坂口さん。東京に憧れ鹿児島を出た坂口さんが、再び鹿児島に拠点を持つまでには、どんな思いやきっかけがあったのでしょうか。そして、「居心地よい場づくり」のために大切にしていることとは?お話を伺いました。

坂口 修一郎
さかぐち しゅういちろう|BAGN Inc.代表。1971年鹿児島県生まれ。BAGN Inc.代表。小学生よりトランペットを始める。1993年、無国籍楽団「Double Famous」を結成。2004年ライブハウス「代官山UNIT」の立ち上げに参画。2010年より、鹿児島にて野外イベント「GOOD NEIGHBORS JAMBOREE」を開催。ミュージシャンとして活躍する一方、イベントや場のプロデュースを幅広く手掛けている。

好きなことを思いきりできる、東京へ

鹿児島県鹿児島市で生まれました。家族が社会福祉法人を経営していて、その施設の一つである保育園に自分も通っていたんです。山に登ったり、ヨットに乗り込んだり、自然の中で遊ぶ経験をたくさんしました。親が持っている油絵の具に触れる機会なんかもあって、興味の対象は広かったですね。

物心つく前から、レコードをかけると喜ぶような子どもで、親や親戚にジャズ喫茶に連れて行ってもらうこともありました。初めて自分で音楽に触れたのは、保育園のオルガン教室です。大きくなると、オルガンから移行してピアノを弾くようになりましたね。

演奏するのは楽しかったのですが、落ち着きがなくて、ずっと椅子に座っているのが苦手だったんです。親に辞めたいと相談したら、せっかく続けてきたんだから、別の形で音楽を続けたらと言われました。そこで選んだのがトランペットです。もともと鹿児島は、吹奏楽が盛んな地域。小学校に入り、吹奏楽をやっている子達を見て、トランペットなら持ち運べるし、かっこいいと思ったんです。

小学校、中学校と、吹奏楽でトランペットを吹きました。高校に入ってからは、クラシック以外にも興味が湧いて、ロックバンドを組んだりしましたね。ドラムを叩いていました。

音楽を聴いたり、絵を観たり、映画を見たりするのはすごく好きでした。ファッションにも関心がありましたね。ただ、マニアックな趣味ばかりだったので、変な奴だと思われたくなくて、あまり公言はしていなかったんです。喋っても理解できる人はほとんどいないだろうと思って。友達はいましたが、趣味は一人で楽しんでいました。

高校に入ってからは、特に映画にはまりましたね。鹿児島には、旧作映画を上映するような映画館はあまりなかったので、レンタルビデオショップを周りました。行ける範囲のお店ではすべて会員になり、間違って入荷されたレアな映画があると、探し出しては借りてきていました。

一方で、学校生活の中では上下関係が苦手でした。先生と生徒、先輩と後輩。文化系の部活でもそういう関係性はあって、ずっとモヤモヤしていました。制服を着ることを強制されたり、口答えするなと言われたり。先生は「個性を伸ばせ」と言うのに、いざ個性を発揮すると怒られる。それがすごく嫌でしたね。

自分の好きなことを思いっきりやれる環境に、僕は憧れていたんです。だから、東京に行きたいと思いました。東京なら、映画館もレコードショップもたくさんある。高校卒業後は「目指せ渋谷!」で、東京の大学を受験することにしました。

ライフスタイルの中にある音楽

念願だった東京の大学へ入学。大学へはほとんど行かず、下北沢にあるレンタルビデオショップでアルバイトをして、映画ばかり観て過ごしていました。レコードショップで、世界中の音楽を浴びるように聴けるのが、本当に嬉しかったです。

ちょうどバンドブームで日本中が盛り上がっていた時期。大学にも、学生ながら音楽デビューしている人がたくさんいました。そのうちに「あいつトランペット吹けるらしいぞ」と、文化祭などで呼ばれるようになったんです。バンド演奏をするトランペッターは他にあまり居なくて、いろんな所から誘われました。そのうちにギャラももらうようになって。もともと音楽は好きなので、どんどんのめり込んでいきましたね。

でも、「音楽で食べて行こう」とは、全く思っていなかったんです。周りには常に新鮮な情報が溢れていました。音楽や映画やファッションなどの文化に触れて、それを追いかけてさえいられれば、もう何でも良くて。音楽活動を続けるうちに、他の分野のアーティストとも知り合うようになり、また新しい情報に出会って…。そういう出会いがひたすら楽しかったですね。

部活動の延長のように活動していたのが、やがて認められ、メジャーなレコード会社からCDを出すことになりました。いろんなミュージシャンとコラボしたり、全国のフェスにも出演したりするようになったんです。音楽で稼いでいけるかなと考え出しました。

一方で、やはり関心は音楽だけにとどまりませんでした。フランスの旅行先で、とあるアパレルショップに出会ったんです。その店はアパレルなのに、レコードを売っていました。ショップのスタッフやデザイナーが演奏した音楽を売っていたんです。洗練されたファッションも、その音楽も、とてもかっこよかった。そして、洋服屋なのに音楽の機材が置いてあって、いい香りがするキャンドルなどの雑貨も売っていたんですね。

それを見て、ライフスタイルの一部として音楽がある風景が、面白いなと思いました。自分も音楽だけではなく、映画やアパレルにも興味がある。このお店は、それらを全てひっくるめて表現していると感じたんです。そこで帰国後、そのブランドの日本店舗に就職しました。音楽とアパレル、二足のわらじで活動していくことにしたんです。

「青い鳥」は、ここにいた

入社して5年ほどは、半分はアパレル企業のスタッフとして、半分は音楽家として働く日々でした。しかし、どっちつかずの中途半端さを感じて、アパレル企業を辞め、音楽活動に専念することに。そんなとき、代官山にライブハウスをつくるプロジェクトに関わらないかと誘われたんです。演奏者ではなくプロデューサーとして、音楽の場づくりをする仕事でした。

ライブハウスを運営し、イベントを企画するようになると、裏方の仕事に目が行くようになりました。今までは自分が演奏することに必死でしたが、音響や照明などの仕事は、ステージをつくり上げる際にとても大事な要素。裏で支えてくれる人がいなければ、アーティストのステージは成立しません。

舞台裏の仕事を見ているうちに、日本が培ってきた舞台文化にも気づきました。日本の音楽の舞台用語は、歌舞伎、能、狂言などの伝統芸能から来ているものが多いんですね。自分は文化の豊かな国に生まれたんだなと、思い至ったんです。ステージ上で演奏されているのは西洋の音楽でも、そのステージを支えているのは、日本文化の歴史的な積み重ねなんだ、と。

そんな経験は、自身の足元を見つめ直すきっかけにもなりました。僕は、鹿児島にいたときは東京に憧れ、東京に来てからは海外に憧れていた。ずっと、今ここにないものを追いかけていたんです。でも改めて考えてみると、物事の表面しか見ていなかったのかもしれない。鹿児島には何もないと思い込んでいました。でも実は、考え方も体つきも含め、これまでの自分を形づくってきたのは、他でもない地元・鹿児島です。目の前にいた青い鳥に、やっと気づいたような感覚でした。

18歳のときに鹿児島を出たので、地元のいいお店も知りません。でも帰ってみると、豊かな郷土料理や、焼酎に代表されるお酒の文化など、地元のいいところを改めて知る機会がありました。学生のとき何気なく歩いていた通学路に、実はすごくいいお店があったりして。豊かなものがいっぱいあるんだなと、どんどん新しい景色が見えてきたんです。

今までは、一刻も早く地元を出たくて、「ここで生まれちゃったから、仕方なくここにいるんだ」と思っていました。それが「ここで生まれてよかった」と、思えるようになったんです。僕は新たな活動拠点として、鹿児島という土地をもう一度選び直しました。

グッドネイバー(良き隣人)であれ

鹿児島に意識が向き出した頃、偶然にも同じタイミングで同じことを考えている友人がいることを知りました。彼は、鹿児島と東京の2拠点で活動しようとしていたんです。

彼も僕も、海外での知見があり、ある共通認識を持っていました。それは、例えばアメリカでは、どんなに小さい都市でも有名なミュージシャンが活躍しているし、地方だからといって卑下することもないという事実です。その地域を自ら選んで住んでいるミュージシャンもいました。だから、東京での活動にこだわらなくても、地方で面白いことができるんじゃないかと考えたんです。

そして、自分達も鹿児島で何かやってみようか、と。強制的にでも帰らなければならない用事をつくろうと、鹿児島でイベントを開催することにしたんです。僕はミュージシャンですが、音楽メインのフェスではなくて、クラフト、アート、食、文学、映像、スポーツまで、あらゆるコンテンツが集まるイベントにしようと思いました。自分が出演してきた音楽フェスは、音楽のステージがメインで、そのサブとして、フードやクラフトのブースがあるものがほとんどでした。僕はその形態に違和感を感じていたんです。

だから、音楽のステージもあるけど、シェフのトークセッションやクラフトマンのブースもあり、それらを上下関係なく、対等に扱うお祭りにしようと考えました。メインディッシュと付け合わせではなくて、ワンプレートの料理のように、それぞれが自立して支え合っている関係性を目指したんです。

例えば家で好きな音楽を聴くとき、美味しいコーヒーも飲みたいという気持ちがあります。お気に入りの器も使いたいし、気持ちのいい椅子にも座りたい。すべてひっくるめたその居心地のよさを、そのままイベントにしたいと考えました。フランスのアパレルショップで目にしたような、ライフスタイルそのもののイベントに。

コンセプトを考えていた時に、友人に教えられてたどり着いたのが「グッドネイバー(良き隣人)」という言葉です。海外の公園では、よく看板に「Be a good neighbor」と書いてあります。これは、公園で過ごす人への、互いに良き隣人でありましょう、という呼びかけ。日本では「騒音禁止」などと書いてありますが、単に禁止するのではなくて、「相手への想像力を持って互いに心地よく居られるように行動しよう」という意味だと解釈したんです。

上下関係ではなく、並列関係。それぞれが独立していながら、互いに尊重し合っている。それが「グッドネイバー」です。この言葉がぴたりときて、イベント名を「GOOD NEIGHBORS JAMBOREE(グッドネイバーズジャンボリー)」としました。

被災地で感じた、音楽活動の虚しさ

2010年、グッドネイバーズジャンボリーの初回を、鹿児島県の山奥にある廃校で開催しました。人が来てくれるのかと心配でしたが、蓋を開けてみれば、開場前に行列ができるほどの盛況ぶり。ところが、翌年も開催しようと準備していた矢先、2011年3月に東日本大震災が起きたんです。

震災後、フランスで活躍してきた大女優、ジェーン・バーキンがチャリティで来日することになり、そのバンドメンバーに加わりました。それがきっかけで、彼女の世界ツアーにも参加することになったんです。復興支援への想いを込めたツアーでした。2年の歳月をかけて、被災地から全米、ヨーロッパ、アジアなど世界中を周りましたね。

ツアーをきっかけに、世界のいろいろな人と知り合うようになり、東北に足を運ぶ回数も増えました。それは、自分の活動を見つめ直す機会にもなったんです。今までは、自分や仲間のパフォーマンスを第一に考えていました。それが、もっと社会的な活動に関心が向くようになったんです。

2011年は、本当にもう音楽を演奏するなどと言っている場合じゃなかった。虚しい気持ちが大きかったですね。自分は好きで音楽をやっているけれど、みんなが自分の音楽を好きかどうかは分からない。もちろん、演奏を聴いて一瞬でもほっとしてくれる人がいるなら、それは素晴らしいことです。でも、そうではない人もいると考えたときに、すごく独りよがりなことをしているのではないかという気持ちになりました。

ツアーなどで各地を訪れると、音楽以外のさまざまな困り事について、聞く機会がたくさんありました。演奏よりも泥かきをして欲しいとか、そういう要望も当然あるわけですね。困っている人がいたら、できることは何でもやろうという気持ちで動くようになりました。

焼き物の産地である栃木県の益子町に行ったときには、震災で作品が大量に壊れてしまって困っている陶芸家がたくさんいました。毎年の陶器市をやっても人が集まらない。そこで、若手中心に80組の作家のみなさんをまとめて東京のデパートで展覧会を開いたりもしました。目の前のことに取り組むうち、自然と活動の場が、音楽の外にも広がっていったんです。

九州地方は震災の影響がそれほどなかったこともあり、鹿児島でのイベントは予定通り開催することにしました。多くのイベントが自粛で中止となる状況でしたが、自粛するだけでは良くないという想いもあって。できるのであればやろうと、開催を決めました。

グッドネイバーズ・ジャンボリーは年に一度開催することになり、たくさんの人が来てくれるようになりました。やがて口コミが広がり、イベントの企画や演出の依頼が増えてきたんです。一人では抱えきれなくなってきたことから、2014年に会社を立ち上げました。社名は「Be A Good Neighbor」の頭文字を取った「BAGN Inc.」です。

2016年には、東京にある虎ノ門ヒルズ開業のイベントを企画することに。僕らは、高層ビルの下にある、緑の多い広場を活用しようと考えました。コンセプトは、自分たちの公園「OUR PARKS」。音楽やヨガ、花のマーケットや古本市など、さまざまな企画を実現しましたね。1回で終わりでなく、その後も続くイベントになりました。

もともと鹿児島の山奥でやっていた僕らの取り組みを、東京の人達が見に来てくれて、東京のど真ん中でやることになった。東京のものを地方に持って行くのではなくて、地方から東京への逆輸入ができたんです。この企画を皮切りに、仕事の依頼は一気に増えました。

居心地よい場づくりから始めよう

今は、BAGN Inc.の代表をしています。東京と鹿児島に事務所があり、主に「場づくり」に取り組んでいます。イベントを開催したり、施設をプロデュースしたり、行政と一緒にさまざまなコミュニケーションを企画したり。例えば鹿児島では、廃校になった場所を「リバーバンク森の学校」という名で、自然体験施設として運営しています。他にも、コワーキングスペースの運営や、子どものためのメディア運営にも関わっています。

「場づくり」の際に大切にしていることは、大きく2つあります。1つ目は、音楽環境をつくること。2つ目は、居心地のよい場をつくることです。

音楽環境のためにやっているのは、コワーキングスペースなどの施設やイベントなど僕らがつくる場での設備や選曲ですね。僕は、日本の音楽環境は弱いと思っているんです。インターネットもあって世界中の音楽にアクセスできるにも関わらず、みんなが音楽を愛する世界になっているかというと、必ずしもそうじゃない。電車に乗ってイヤホンをしている人も、音楽を楽しむのではなく、外部の音を遮断するために、耳をふさいでいるように見えるんです。街のレコード屋さんもどんどん無くなって音楽自体を純粋に楽しむ機会が減っているんじゃないかと思いますね。好奇心を持てば、世の中にはもっと素敵な音楽があるのに、未知の音楽に触れる機会は少ないと感じます。

そんな中で、例えばコワーキングスペースに入ったらいい音楽が流れていて、「これなんだろう?」と思えるような音楽環境を生み出していくことを常に意識していますね。旅行はしづらい状況ですが、音楽ならば地球上ほとんどの地域を巡ることができる。そうやって外国の文化を受け入れる耳があれば、差別も減っていくでしょうし、いろんな意味で良い影響があると思っています。

2つ目に挙げた「居心地のよい」場づくりでは、まず社内で、自分やメンバーにとって居心地のよい場をつくることを意識しています。僕にとって居心地のよさとは、時間にも空間にも縛られないこと。仕事は全国にあるため、僕達は活動場所を1ヵ所に絞らず、旅をするように暮らしています。そして、決められたルーティンワークをするのではなく、自分で選んで、自分で行動しているんです。それが心地いいですね。

もう一つ、居心地よい場に必要なのが、「グッドネイバー(良き隣人)」だと考えています。良き隣人に来てもらうには、まず自分達が良き隣人になるべきです。しかめっ面をしている人のところへ、笑顔の人はやって来ません。類は友を呼びますから。

社外に対しても、心地よく仕事をするために、グッドネイバーとして隣にいたいんです。僕らは小さな会社ですが、大企業から依頼をいただいても、決して「下請けではない」と言っています。もちろん、上からアドバイスをする訳でもない。並列の関係で横にいたいんです。

これは、地方と東京との関係性にも言えること。東京もローカルの一つだし、規模の大小はあれど、それぞれの良さに優劣はありません。対等の関係なんです。鹿児島に限らず、地方の人は「うちの町には何もない」と言うけれど、果たしてそうでしょうか。僕も地元への肯定感は低かったですが、20年以上東京で暮らしてようやく、地元のいいところに気づきました。

どこの町に行っても、面白いものや人は見つかります。それをちゃんと見つけて、地元で認め合う。「文化の地産地消」が必要だと思うんです。そうすれば、みんなが東京に出てこなくても、ハッピーに暮らせるんじゃないか、と。地元を肯定することは、その土地で生まれ育った自分を肯定することにも繋がります。

今後やっていきたいのは、新しく会社に入ってきた人たちの場づくりです。50代になった今、今度は厳しい状況の中社会に出てきた若い人達に、場所をつくりたいと思っています。それから、子ども達のための場づくりにも力を入れていきたいです。どこにも行けなかったり、イベントがなくなったりする中で、子ども達がもっと自由に振る舞える場所をつくりたい。運営している子ども向けメディアでも、イベントをやろうとしています。子どもたちとも、対等な関係性の中で学ぶことがたくさんあると感じています。

大きなことは考えていないんです。いつも会社のメンバーに言っているのは、「小さな主語で考えよう」ということ。いきなり国や世界をなんとかしようと考えると、どうしていいか分からなくなってしまう。だからまずは、自分や仲間にとって居心地のよい場づくりから始めていきたいですね。そこから広がっていけば、最終的には周りの環境も、どんどん居心地よくなっていくんじゃないかと思っています。

インタビュー: 粟村 千愛 ライティング :塩井 典子

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another life.」からのコンテンツ提供でお届けしています。※このインタビューはanother life.にて、2021年9月30日に公開されたものです。