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特集 | 災害と生きる with a natural disaster

自然災害が多い国だからこそ。災害から見る「正しい車中泊」のススメ。

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地震、ゲリラ豪雨、大寒波、酷暑……さまざまな災害が現在の日本を襲い、そして日常を奪うことは珍しくなくなりました。では「その時」に備えて、私たちはどのような準備が必要なのか?ここではクルマを味方にして命を守る、車中泊での避難方法を紹介します。

目次

最大震度7を記録した熊本地震。
その時、なぜ被災者は車中泊を選んだのか。

被災時の車中泊避難が、すべて悪ではない。

2016年4月、熊本地方を襲った震度7の前震。それまでの平穏な暮らしは一変し、その後も続いた本震と余震に怯えながら、多くの被災者が避難生活を送ることとなる。

そんな中、あるキーワードが、テレビやウェブサイトのニュースで連呼される。「車中泊」。全壊や半壊となった自宅に帰れなかったり、大きな揺れに不安を抱き、避難所の建物にいられなかった方々が、自家用車で寝泊まりを行い、避難生活を送る様子が数多くのメディアで紹介されたのだ。同時に「エコノミークラス症候群」という病名が毎日のように報道される。そこには「車中泊が原因で」という言葉がついてまわる。

もちろん、エコノミークラス症候群でなくなった方もおり、多くの被災者が体調不良を訴えたのは確か。しかし車中泊ができなければ、いったいどれだけの被災者が、眠れぬ夜を過ごしたことだろうか。車中泊がすべて悪いわけではなく、「正しい寝方」を知らないだけなのでは?クルマをもっと活用すれば、避難生活は少しでも快適に過ごせるはず。

ここでは、実際に車中泊避難の最前線にいた2名のキーマンに、当時の様子をお聞きした。そしてさらに、被災時、エコノミークラス症候群にならないための「正しい車中泊」の仕方を紹介しよう。

被災から約1か月後の『グランメッセ熊本』。車中泊での避難生活はまだ続いていた。
被災から約1か月後の『グランメッセ熊本』。

熊本地震を経て学んだこと。

防災は地域とのつながり、地域再発見が第一歩。

被災者であり、ボランティアとして。

ある意味、「タイミングが合った」ということなのだろう。「被災する半年前、個人事業主として独立していました。おもな仕事はITのシステム開発など。会社勤めではなかったので、フットワークは軽かったです」と、ハキハキと話し始めたのは土黒功司さん。熊本地震から3年を経て、現在でも支援活動を続けている『一般社団法人 よか隊ネット熊本』の代表理事を務める。以前は東京、さらには海外での勤務経験もあったが、被災時は熊本県に戻って10年目。当初は家族とともに車中泊避難をしていた被災者だった。

震度7を記録した前震が起こったのは午後9時26分。当時まだ1歳だった子どもと妻を連れて、最寄りの避難所へ。小学校の体育館だった。「その後、何度も余震が起きて。怖くて建物の中にいられないんです。ライトとか揺れて。あのあと車中泊で避難生活を行ったのは、最初の避難の時の心理状態が大きかったと思います。ほかの人もかなりの方が外で過ごしていました」

その後、いったん自宅に戻り、片づけの最中、またもや震度7の本震が熊本地方を襲った。前震からほぼ1日後のことだった。「それから車中泊を始めました。場所は実家近くの農道でした」という判断は、近くに倒壊する建物がなかったこと、津波の情報が入った時、すぐに逃げられる場所、ということを考えたから。「私がその後のボランティアで感じた印象と試算では、県で発表している人数より数倍は、車中泊で避難生活をしている人は多かったはず」

車中泊避難を経験した当事者として、そして被災者を支援する一員として、土黒さんが「防災の最重要事項」として語ってくれたことがある。「日頃からの地域との交流、そして住んでいる地域の再確認です。個人での物理的な準備には限界があります。でも、日頃から近所の人や親類と緊急時の話をしていれば、さまざまな連携ができます。自分がどれだけ完全防備でも、結局まわりのことも考えますよね。だったら一緒に対策を練ったほうがいい。さらに自宅付近にどういった公園があって、山や海、川からどれくらいの距離か?などの周辺状況を知っておくことも大切」と、土黒さんは力を込める。

地域の方々と連携をとり、そして地域のことをより把握する。「これこそ地域再発見=地域づくりじゃないですか?」とニッコリ笑う土黒さん。地域づくりは、やはり防災としっかりとつながっている。

実際に土黒さんが車中泊避難に使用した軽自動車。フラットな寝床になるとのこと。被災者の皆さんが書いたアンケートの原本。今見ても生々しい。『mirai-baco』の壁にはぎっしりと当時の写真が貼られている。
実際に土黒さんが車中泊避難に使用した軽自動車。フラットな寝床になるとのこと。(上)被災者の皆さんが書いたアンケートの原本。今見ても生々しい。(左下)『mirai-baco』の壁にはぎっしりと当時の写真が貼られている。(右下)

日本の防災の未来形へ。

避難所ではない場所で、被災者に何ができるか?

車中泊避難の象徴となったグランメッセ熊本。

「前震の際、帰宅して車のドアを閉めた時にドーン!と大きな揺れがきました」。熊本県・益城町の産業展示場、グランメッセ熊本の管理会社社長を務める二子石隆一さんが、当時を振り返る。グランメッセ熊本は、被災当時、2000台ともいわれた車中泊避難の„象徴“にもなった場所。そんな場所の責任者に着任するのは、本来6月からだった。「準備期間ということで4月1日から顧問で赴任しました。まさか2週間後、こんなことになるとは」。まさかの事態ではあったが、二子石さんは仕事に向かう。前震の後、グランメッセ熊本へと車を走らせた。「到着した時は、まだ駐車場には20〜30台くらい。館内の被害も少なく、避難所として使用することになりました」。前震で大きな被害を受けた益城町への救助などで、警察、消防、自衛隊、国交省などの関係者が、グランメッセ熊本に集まってきた。「午前0時ごろには、すでに九州各地から応援が来始めていました。高速道路もまだ走れましたので」と、二子石さん。しかしその後、追い打ちのような震度7の本震。「館内に避難していた方々は無事に館外へ誘導できたので、けが人はいませんでしたが、ガラスやライトが大きく破損し、館内はこれで使用できなくなりました」

車中泊の避難場所として、どんどん集まってくる車と被災者たち。しかし実は、この場所は本来「避難場所」の指定を受けていたわけではない。さらに、二子石さんが所属する『熊本産業文化振興株式会社』は、行政からの委託で施設を管理しているとはいえ、あくまで民間企業。彼らの判断でできることは限られていた。「熊本県、熊本市、益城町など、物資の問題や罹災証明の発行などは、行政の方にお願いし、医療はNPOや医療ボランティア団体に、施設の問題は我々が担当しました」。二子石さんは関係者たちと協議し、各部署の役割分担を明確にした。「現在では熊本地震を教訓に、災害時に役立つアイテムを購入しました。カセットガスで使える発電機、段ボールの組み立て式の更衣室など。被災者をサポートするために、当社の職員が3日間動ける備蓄もしています」。

本来この施設は、大規模災害時には物資を仕分けし被災地へ送る、集積拠点の役割を持つ。しかし熊本地震では、避難所としての役割も必要とされた。「もう大きな震災が熊本を襲わない」という確証はない。その時、グランメッセ熊本がどのような役割を果たすのか。日本の防災の
未来形がそこにある。

復旧されたホールの天井。銀灯はすべてLEDに、天井のパネルも軽く舞うように落ちるパネルに変更された。被災時に落ちた、水銀灯と40kg近い水銀灯カバー。被災直後、剥がれ落ちたホー ルの天 井。現在のグランメッセ熊本のロビーには、被災時の様子を伝える写真や新聞を展示。
復旧されたホールの天井。銀灯はすべてLEDに、天井のパネルも軽く舞うように落ちるパネルに変更された。(左上)被災時に落ちた、水銀灯と40kg近い水銀灯カバー。(右上)現在のグランメッセ熊本のロビーには、被災時の様子を伝える写真や新聞を展示。(左下)被災直後、剥がれ落ちたホールの天井。(右下)

 

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