中川千代治

中川千代治 ~時を超えて鳴り響く、“平和の鐘”の音~

ニューヨークの国連本部に、「平和の鐘」と呼ばれる梵鐘がある。これが第二次世界大戦終結後、日本がまだ国連復帰も果たせていなかった1954年に、ある日本人が世界平和を願い贈呈した鐘だということを、いったいどれだけの日本人が知っているだろうか……。

第二次世界大戦でビルマへ出征。 九死に一生を得て決意した世界平和の理想実現への歩み。

 ニューヨークの国連本部にある梵鐘「平和の鐘」。1954年、設立間もない国連にこの鐘を寄贈した日本人が、今回紹介する中川千代治である。
 千代治は1905年、愛媛県・八幡浜町(現・八幡浜市)の生まれ。戦前は伊予銀行の支店長などを務め、日中戦争への出征、『日本食糧統制組合』理事長などを経験し、宇和島市では名士として知られる人物でもあった。

 太平洋戦争開戦に際し、千代治はビルマ(現・ミャンマー)戦線に従軍。ここで得た悲惨な戦争体験こそが戦後、千代治の一途な平和活動の原動力になる。
 終戦後、ビルマから復員した千代治は、供出のために鐘を失った故郷の寺(神田山泰平寺)に、自らの軍刀と当時集めて回った世界26か国のコインを鋳込んだ「世界絶対平和万歳の鐘」を寄付した。この鐘は今も泰平寺の境内にあり、国連にある平和の鐘のルーツでもある。
 1951年、千代治はオブザーバーとして参加したパリ国連総会で、同じように平和の願いを込めた、各国の貨幣を鋳込んだ鐘を寄付したいと訴え出る。その切実な願いは、「人類の平和希求の声」として深い共感を集め、翌年、国連経済社会理事会で受理されることが決まった。千代治の鐘が一個人的な取り組みの域を超え、分け隔てのない全人類的な“平和の祈り”として受け入れられたのだ。このとき千代治は、世界65か国の代表から各国の貨幣を譲り受け、時のローマ法王からもキリスト及びマリア像の金貨を授けられる。これらを材料とし、現在国連にある平和の鐘の鋳造が始まった。
 その後、宇和島市で完成した平和の鐘は太平洋を渡り、1954年、ニューヨークに設立された国連本部に到着。時の国連事務局次長立ち会いの下、平和の鐘の贈呈式が執り行われた。ここに千代治が平和の鐘に込めた平和への祈りは、世界共通の理念として広く共有されたのだった。敗戦国からぽっと出てきた一個人の平和活動が、全人類共通の祈りとして受け入れられたのは、もはや奇跡としか言いようのないセンセーショナルな出来事で、当時、日本でも広く報道がなされた。
 国連に鐘を贈呈したあとも、千代治は慢心することなく、地道に平和活動を続けた。キューバ危機で米ソの緊張が極限に至ったとき、アメリカと旧ソ連の大使館を訪れ、平和の鐘(レプリカ)を贈呈。「少しの思いやりと笑顔で世界の平和が保たれる」というメッセージを、両国のケネディ大統領(当時)とフルシチョフ首相(当時)に託す。その後、平和の鐘は各大使館を通じて世界140か国へ贈られた。こうして千代治の平和への切実な想いは、その後も永年にわたり世界へ伝播することとなる。

平和の鐘同様、世界中の貨幣を鋳込んだレプリカ。千代治はこれを世界140か国に贈呈した。

連綿と継承される千代治の祈り。没後50年を前に、鐘の贈呈活動は国連も正式に認めるものに。

 千代治が始めた平和の鐘贈呈活動は現在、娘の髙瀨聖子さんが代表を務める国連NGO・一般社団法人『国連平和の鐘を守る会』によって、脈々と引き継がれている。
 2021年6月25日、同会は国連NGOとして正式に承認され、奇しくも翌2022年は千代治没後50年に当たる節目の年。千代治が一人で始めた平和の鐘の活動が、人類共通の普遍的な祈りとして、国籍や宗教、人種や信条、価値観による分け隔てのない世界平和の願いとして、今再び世界から注目と共感を集めている。

9月に行われる「平和の鐘式典」では、ニューヨークに集まった若者に向けて、千代治の功績や平和の鐘贈呈活動についての講義も行う。

なかがわ・ちよじ(1905~72年)●元・愛媛県宇和島市市長。第二次世界大戦中、ビルマ戦線で多くの友を失い、九死に一生を得て復員したのち、「二度と戦争をしてはいけない」という想いのもと平和活動に従事。1954年、ニューヨーク国連本部に平和の鐘を贈呈。戦後の人生の多くを世界平和の実現に捧げた。

photographs by Association for the Preservation of UN Peace Bell
text by SOTOKOTO

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