鳥取・賀露の漁港から旬の鮮魚を全国へ。 脱サラ船酔い漁師が見つめる漁業の未来。

連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶーローカルプレイヤーの働き方とは | 50 鳥取・賀露の漁港から旬の鮮魚を全国へ。 脱サラ船酔い漁師が見つめる漁業の未来。

2022.07.26

漁師をしながら、鮮魚の漁師直送通販サイト「弁慶丸」を運営する河西さん。営業マンとして働いていた河西さんが、脱サラして船酔いしながらも漁師になった理由とは?そして、鮮魚の直販を推進する想いとは。お話を伺いました。

河西 信明
かわにし のぶあき|脱サラ船酔い漁師、株式会社弁慶丸 取締役
大阪府出身。大学を卒業後、住宅メーカーに勤務。営業部員としてトップセールスに。鳥取県の漁業研修に参加し漁業の魅力を知り、脱サラ・移住し、鳥取県の賀露港の漁師となる。2007年から、漁師直送の鮮魚通販「弁慶丸」をスタートさせる。2021年には総セット販売数6万セット、定期顧客が累計680世帯を突破し、漁師直送のパイオニアとして走り続けている。

助けを求めてもダメ、自分が変わる

大阪府東大阪市で生まれました。両親は商売をしていたため、僕はよく祖父母や親戚の家に行っていましたね。幼稚園くらいから両親の仲が悪くなり、小学校3年生のときに離婚しました。僕は母と共に、お隣りの町、大東市に移り住むことになったんです。

転校初日に、みんなと大けんかをしてしまいました。転校生は、ちょっと変な扱いをされがちじゃないですか、両親の離婚のストレスもあり、色々なことが我慢できなかったんでしょうね。この日以来、「猿」とあだ名をつけられました。猿は目が合うと襲ってくるからです。

みんなから恐れられてしまう存在だったので、友達なんてできないし、授業も出る気になれませんでした。でも体育は好きだったので、毎日勝手に一人で体育の授業だけをしていました。みんなが教室で普通に授業を受けている時間に体育倉庫に入って、跳び箱やマットを取り出して練習するのです。教頭先生や校長先生が付きっ切りで、毎日、僕と一緒に遊んでくれていました。超問題児ですよね。

僕が普通教育を受けるのは無理だと、PTAで何度も話し合われているみたいでした。でも僕は、本当は誰かに助けて欲しかった。問題行動でサインを送っているつもりだったけれど、大人は誰もそのサインに気づいてくれませんでした。だから余計にどうしていいかわからなくなって、もっと暴れてしまうんです。

救いは小学校5年にあがるときのクラス替えでした。僕もみんなと同じように友だちが欲しい。だからこの機会に、変わろうと思いました。大阪は面白い子が人気者になれます。だから面白い人間になろうと、クラスの子を笑わせるようなことをし始めました。するとみんな笑ってくれて、自然と友達ができ、人気者になれたんです。いつの間にか、授業を抜け出したり、人を殴ったりしなくなっていました。地元の中学校に進学すると、学級委員や体育委員を務めるようになりました。周りの友人たちはグレ始める時期でしたが、僕は、熱血野球少年として、すっかり更生していました。

野球の挫折、打ち込めるものを探して

小学校4年の頃から始めた野球を中学校でも続け、高校は野球で有名な学校に推薦で入学しました。プロ野球選手を目指していた僕は、高校で野球をするのが楽しみで。しかし1年生のとき、疲労感で練習ができなくなってしまったんです。

おかしいと思い病院に行くと、ドクターストップがかかり、すぐに入院することに。退院してからも「脈拍が120を超える運動は禁止」と言われてしまい、結局、野球を辞めることになりました。

小学生の頃からずっと野球をやっていた僕には、野球しかありませんでした。野球があったからこそ、辛かった時も非行に走ることなくやってこられました。野球に救われていたんです。それがポツリとなくなって、入学してすぐに目標を失ってしまいました。問題行動を起こすとかグレるとか、そういうエネルギーも何もない抜け殻のような状態で、ただただ日常が過ぎていくばかりです。

大学付属の高校に入学したため、同級生はエスカレーターで進学を希望する人がほとんどでした。でも僕は大学どころか、高校にも興味を持てなくて。「野球もできないし、学校辞めようかな」と思い悩んでいたんです。

そんなとき、中卒で就職したり高校を中退した友人たちが、「高校だけは出ておかないと職業を選べない。だから絶対に高校は辞めるな」「高校をやめたら自由と思っていたけど、全然自由じゃない」など、実体験を交えた社会の厳しさを教えてくれて。惰性でも高校は出ようと思うようになったんです。

なんとか高校を卒業して、夜間に通える大学の商学部に進みました。大学の学費は自分で稼ぐつもりだったため、夜間大学を選んだのです。大学の4年間で自分のやりたいことを見つけるため、あらゆる業界のあらゆる仕事を経験しました。それなのに、20種類ぐらいのバイトをしてみても、自分のやりたいことが見つからないんです。

日本には自分のやりたい仕事はないけれど、海外にはあるかもしれない。そう思った僕は、大学3年のときに、思い切って学校を1年間休学して、イギリスに渡りました。

ある日、ショーウインドウの装飾がきれいなことで有名なデパートに行くと、人だかりができていました。そこにはクリスマスのデコレーションとともに、機械仕掛けの模型やカラクリ人形などが飾られていて、その空間だけ別世界のようでした。真冬なんですけど、みんながそのショーウィンドウを見て、あったかい気持ちになって帰って行くんです。ショーウインドウに、そこまで人を笑顔にさせる力があるなんて衝撃でした。「すごい、こんな職業があるんだ」と思って、ディスプレイの仕事をしようと心に決めました。

トップセールスマンを捨て、漁師に

大学に戻り、就職活動を始めました。もちろん、目指すはディスプレイ業界です。しかし、バブルがはじけ、華やかだったディスプレイ業界の採用そのものが無くなってしまいました。そこで商空間プロデュースと住空間プロデュースは似ている仕事なのではと考え、住宅メーカーに就職を決めたんです。

実際に働いてみると、想像とはまったく違う仕事でした。空間プロデュースとは名前だけで、住宅展示場で営業社員として接客し、家の建て替えや新築のお手伝いをするゴリゴリの営業の仕事だったのです。

しかも配属されたのは、上司が新人の顧客を奪って利益をあげていくという悪習慣のある店舗だったんです。歴代の新入社員は泣き寝入りし、1年で会社を辞めていたようですが、僕はそういうタイプではありません。直談判したところ、上司ともめてしまって。「上司や店に頼らず、自分で営業して成績を上げますから!」と啖呵を切り、展示場には行かず、ひとりで飛び込み営業を始めたんです。

でも、営業初心者なこともあり、まったく売れません。本などを読み、独自に勉強しつつ一生懸命やったのですが、空回りばかり。それでもメゲずに頑張っていたら、その情報をききつけた別店舗の店長に引き抜かれました。

最初は反発して、異動先の店にも行かず、飛び込み営業ばかりしていました。でもその店長はとても熱心な方で、生意気な新入社員の僕に、1から営業を教えくれたんです。すごくお世話になって、成長してこの人を喜ばせたい、と思うようになりました。1年目は成果が出ませんでしたが、どんどん数字が上がっていって。数年後には、あこがれていたトップセールスの仲間入りを果たすことができました。

住宅営業は、クレームも多くストレスの溜まりやすい仕事です。そのため息抜きに、仲間たちと海などでバーベキューをすることもよくありました。肉に飽きてくると、素潜りで魚を捕まえて、それを食べるんです。体育会系の仲間が多かったため、みんなすぐに上手くなりましたね。これなら漁業の仕事をしても良いかも、なんて冗談も飛び交うほどです。漫画やテレビの影響から、漁業は儲かると思っていましたし、自然相手でカッコいい仕事というイメージがありました。

そんなときに、鳥取県の漁業体験の広告を目にしたんです。研修の中に、素潜り体験がありました。本場の漁師さんに教えてもらったら、仲間内でいちばん魚を獲れるようになれるかもしれない。そんな軽い気持ちで、漁業体験に参加することにしました。ところが、僕の行った地域では素潜り体験はやっていませんでした。仕方なく底曳き漁を体験することに。

やってみて、世界観が変わりましたね。船上に魚がたくさん溜まっている袋網を広げると、無数の魚たちがピチピチと跳ねている。その光景が目に焼き付き、離れなくなったんです。子どもの頃にカブトムシやザリガニをとっていた時のような、人間に備わっている狩猟本能みたいなものが刺激されました。加えて、営業をしている自分と比べて、自然相手に生身の体一つで立ち向かう漁師のみなさんがカッコよく見えたんですよね。

4泊5日の体験から帰ってきて営業の仕事に戻っても、魚がピチピチ跳ねるイメージがずっと頭の中に残っていました。今回の体験は入り口で、興味を持った人には鳥取県で漁師になるための本格的な研修が用意されていたんです。一緒に体験に参加した人が「仕事を辞め、研修に参加することにした」と言っているのを聞いて、少しずつ僕もやってみようかな、という気持ちが芽生えて来ました。

ちょうどそのころ、いきなり親会社が変わると発表されたんです。これまでさんざん営業として頑張ってきたのに、従業員には何の相談もなく決められていて。反感をおぼえました。上のさじ加減で好き勝手に決められてしまうのがすごく嫌で、それがきっかけになりましたね。歯車の様に簡単に使い捨てされるなら、自分は違う道に行こうと思ったのです。この時点で会社を辞めて、漁師になろうと自分の中では覚悟を決めました。

しかし、「漁師になる」と、まわりに伝えてもなかなか理解されませんでした。付き合っていた彼女も最初は「は~何言ってんの?」という感じです。でも、「漁師になれるか、何年かかるか分からないけど、今やらなかったら一生後悔すると思うから、1回研修だけでも受けるわ」と言い切ったんです。しばらく考えたあと、彼女は「じゃあ私も行こうかな」と言ってくれ、予期せぬ嬉しい返事に急遽、結婚が決定。7月に体験漁業をしてから人生が急展開し始めました。12月末に相手の両親にご挨拶にいき、3月に挙式。4月1日に鳥取県に移住しました。

自然に生かされている感覚が魅力

研修に参加し、漁に出るようになったものの、船酔いに悩まされました。本当にひどくて、まったく直らないんです。3カ月で13キロ痩せました。

何度も帰ろうかと思ったけれど、盛大に結婚式を祝ってもらい、送り出してもらった身です。「船酔いがひどくて帰ってきました」とは口が裂けても言えません。もう、耐えるしかないと思って、一生懸命我慢しました。

あまりに船酔いが酷いのを見かねたのか、ある先輩漁師の方が「実は、わしも酔いながら漁をやっとるで~」とこっそり教えてくれたんです。かなり驚きました。口に出さないだけで、船酔いしながら漁をしている漁師は他にもいて、船酔いを慣らしながらやっているみたいなんです。ほっとしたと同時に、もう割り切って付き合うしかないなと思いました。根性で耐え続けたところ、船酔いをしていても何とか作業はできるところまで辿り付けたんです。

船酔いの他にも、漁村独特の文化や慣習には戸惑いましたね。まず言葉がまったくわかりませんでしたし、閉鎖的で秘密主義なところもあるかと思うと、プライバシー無視のお節介焼きな所もあって。まったく知らない異国の文化や生活の場に、ポツンと入れられたような感覚です。

それでも、漁をして魚がピチピチ上がってくると、自然の中で生かされているという感覚がわいてきて、漁業を選んで良かったなとしみじみと感じました。それから、漁師の仕事は魚を獲るために工夫したことが、目の前ですぐに結果として現れるので面白かったですね。

自然を相手にしていると、予定調和なマンネリ感もなく、毎日違う環境です。潮の流れや風の向きは刻一刻と変わっていき、しっかりと状況判断をしていかないと命にかかわります。刺激や緊張感が常にあり、サラリーマンの時とは違う魅力がありました。

河西くん、魚送ってくれる?

2年半に渡る研修ののち、無事漁師になることができました。通常は、独立してすぐ船を持つのはなかなか難しいのですが、県の助成があり、通常よりはるかに少ない自己負担金で自分の新船を持つこともできたんです。

独立して3年目で、700万ほど水揚げすることができました。しかし自分の手元に残ったお金を見ると、その半分にも満たなくて。このままでは、船の借金を返済しながら生活していくのは厳しいと知りました。同期の研修生の中にも、船を置いて夜逃げする人も出てきました。これは何か別で収入を立てなければいけないと思うようになったのです。しかし、なかなか良い手は見つかりませんでした。

ちょうどその頃、港に市民風車をたてるプロジェクトが始まり、コーディネーターをすることになりました。県外から視察に来られた方を案内している時、話の流れで漁業だけで生活することの大変さをついついボヤいてしまったんです。すると、その方が「魚を送っておいで、全部売ってあげる」と。半信半疑で自分で獲った魚を発送したところ、本当に全部売ってくれたんです。

購入者は最初2、30人規模でしたが、どんどん広がっていき、やがて100人ほどになりました。最初は僕がまとめて魚を送り、その方々が仕分けて手渡ししてくれていたのですが、さすがに大変なので僕からお客さんに直接発送するようになりました。

ただ、購入者は、魚をさばいたことのない人たちばかり。すると「河西くん、簡単なレシピ作られへん?」とまた声をかけられて。レシピや魚の雑学や豆知識の新聞を作ったり、料理講習会をしたりするようになりました。

購入してくれる人と接するようになると、「新鮮な魚は、僕らにとっては当たり前でも、都会の人にとってはすごく貴重なんだ」と気がつきました。自分のやっている仕事や魚そのものには、大きな価値があるのだと改めて感じたのです。それまでは、獲った魚をセリ市場に並べたら漁師の仕事は終了でした。でも、直販を始めて「おいしかったよ」「体に気をつけて頑張って」という言葉をもらえて、複雑な流通の先にいるお客様のことを考えるようになりましたね。「人に感謝をされる仕事をしているんだ」と気づけたことで、自分の仕事の認識が大きく変わりました。

とはいえ、問題も生じます。魚には、産卵に向け脂を蓄えて美味しくなる、いわゆる「魚の旬」と、その魚がたくさん捕れる「漁獲の旬」があるんです。魚が季節ごとに移動する中で、水揚げしやすい時期があるんですね。底曳きだと夏場にもアンコウが獲れるので送ったところ、お客様に「夏にアンコウ鍋はないわ」とお叱りを受けてしまいました。漁獲の旬ではなく、食べる側にとっての本来の「魚の旬」にこだわらないと、お客様を満たすことはできないと実感しましたね。そこで、これまでは自分の獲った魚だけを送っていましたが、他の漁師にも声をかけて「魚の旬」にこだわった鮮魚セットを作っていくかたちに進化させたのです。

その中では、漁業の商慣習と折り合いをつける大変さを感じました。本来、漁獲物はどこの港のセリに出してもいいのですが、昔からの商慣習で、賀露の漁師は賀露の港のセリに魚を出し、漁業組合に手数料を払って売ってもらうのが当たり前とされていました。僕は自分の通販サイトで売っているため、本来なら魚をセリにかける必要はないんですよね。でも、組合は港のセリに魚を出して手数料が欲しいし、地元の仲買人さんとのもめ事も避けたいと平行線のまま、いくら話し合っても、なかなか理解してもらえませんでした。

「あいつは手数料を払っていない闇の魚を売っている」と思われてしまうのも良くありません。そこで、組合に手数料を払って一度魚をセリに出し、欲しい魚をセリで買い戻すことにしたんです。これなら手数料も払っているので、地元の仲買人さんにも納得してもらえます。筋を通して鮮魚の直送販売を進めることができました。

漁師だからこそできることを

現在は、底曳きなどの沿岸漁師をしながら、日本全国に旬な魚を直送する仕事を続けています。ただ年々、魚が獲れなくなってきていて、販売メインに事業の比重を移しています。自社サイト「弁慶丸」のみで運営して、もう14年目になりますね。他の漁師から購入した魚も交え、年間を通じて日本海の旬の魚が楽しめるよう工夫しています。

毎週50セット限定の単発注文と、月に1〜2回新鮮な魚をお送りする定期注文があります。定期注文では、食べてみて気に入っていただけなければ、金額はいただかない「完全保証制度」を実施。後払い制を採用しているので、満足された方のみにお振り込みをいただいています。

岩ガキや松葉ガニなど、季節ごとの魚の特別セットを提供、「弁慶丸を囲む会」という食事会へのご招待、無料の料理講習会の開催なども実施しています。魚の生態や雑学まで学べる、魚種ごとのレシピ集もお届けし、いろいろな食べ方を楽しんでいただけるようにしています。購入された方たちが集まるコミュニティも運営しているので、家族ぐるみの付き合いになっている人もいるんですよ。お互い顔が見える関係が良いと思っています。そのためか定期注文を選ばれる方が多く、毎月約500名の定期注文のお客様にお届けしていますね。

今、漁師の中には収入を得るのが難しく、廃業していく人が多くいます。賀露の漁港も、ここ20年ほどで漁船数が半分以下になっている状況。このままでは後継者不足により、日本の漁業は衰退ではなく、完全に消滅してしまいます。日本の漁業が継続できるような仕組みを何とか作らないといけないと考えています。

漁師は魚を捕るだけが仕事と思われがちですが、他にも漁師だからこそできることが、まだまだたくさんあるはず。直販もその一つで、自分の取り組みが他の漁師の方の参考になったら良いなと思っています。漁業生産だけでは思うような収入が得られない場合でも、現状を受け入れて我慢したり、船を手放し漁師を廃業しなくていい方法があることを知って欲しいです。弁慶丸のビジネスモデルをどんどん真似てもらい、次に続く人が出てきてくれれば嬉しいですね。生産者同士で力を合わせ創意工夫しながら、漁業を持続可能なものにしていきたいです。

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another life.」からのコンテンツ提供でお届けしています。※このインタビューはanother life.にて、2021年8月19日に公開されたものです。

インタビュー:中川 めぐみ
ライティング:夏野 久万