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連載 | 「自分らしく生きる」を選ぶローカルプレイヤーの働き方とは

目指すは教育大国・日本。 仕事と家庭が隣接した、新しい地域を創る。

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【野村不動産株式会社提供】千葉県流山市でコミュニティ、教育、オフィスを掛け合わせたシェアサテライトオフィスを運営する尾崎さん。そのベースには、教育への課題感がありました。目指すのは「日本を教育大国にすること」だと語る尾崎さんが描く未来とは。お話を伺いました。

尾崎 えり子
おざき えりこ|株式会社新閃力代表取締役社長
早稲田大学法学部卒業後、株式会社リンクアンドモチベーションに入社。4年間コンサルティング営業に携わったのち、スポーツデータバンク株式会社へ転職。子会社の設立に参画し、スポーツ通信教材を開発。二子の出産ののち退職し、株式会社新閃力を立ち上げる。千葉県流山市を拠点に、コンサルティングや新規事業のプロデュースを担当。2016年にはシェアサテライトオフィス「Trist」やをオープン。2020年から、奈良県生駒市の職員としても活動。
目次

目立つために、茨の道を選ぶ

香川県丸亀市に生まれました。三兄弟の真ん中です。両親は私たちを平等に扱ってくれていたとは思うのですが、真ん中の私はどうしても、見てもらえないような寂しい気持ちがありました。父は3つ上の兄を、母は1つ下の妹を可愛がっているように思えて、いつも「私を見て!」と思っていたんです。

家の中で何をやっても見てもらえないと思い、幼稚園に入ると園内で目立つことに全力を注ぎました。劇では主役、遊んでいる時もジャングルジムのてっぺんに登って、空に向かって手を伸ばしていました。とにかく、注目を浴びたかったんです。両親にみて欲しいという思いは、徐々にみんなから注目されたい、という思いに変わっていきました。

小学校では、学級委員になりたくて立候補。しかし何度立候補しても、自分の1票しか入りませんでした。でも、めげませんでしたね。恥ずかしかったけれど、目立てるリーダーになりたいという思いの方が圧倒的に強かったです。

自分は頭も外見も飛び抜けて良いわけじゃないから、人と違うことをしないと目立てない。そのためには、まだ誰も進んだことのない茨の道を行かなければならないといけないと考えました。そうしないと、私は自分を満たせないと。

みんな茨の道で血を流すのを嫌がるけれど、むしろ血を流せばいいんでしょ?くらいの感覚でした。その大変さにやりがいを感じましたね。誰もやっていないことを、と考えて、野球を始めました。日本初の女子プロ野球選手になることが、私の夢になりました。

こんなところで終わらない

中学校に入っても目立ちたい性格は変わりませんでした。ある日、女子たちが同じクラスの外国人の女の子の悪口を言っているのを見て、とっさに言い返したんです。すると、次の日からいじめられるようになりました。机がなくなり、話す人もいなくなりました。流石に先生が気づきましたが、「尾崎からみんなに話があるそうや」とみんなの前に立たされて。大人も頼りにならないと感じました。

毎日、お昼休みになるとトイレに行き、一人でご飯を食べました。トイレの中でずっと、自分が日本初の女子プロ野球選手になって、スポットライトを浴びてヒーローインタビューに応えているところを想像していました。どうやったらいじめがなくなるかの論文を書いて、論文大会に出したこともあります。

なぜかわかりませんが、「私は日本を変えるから、こんなところで終わらない」という、根拠のない圧倒的な自己肯定感がありました。だから、今がどんなに辛くても学校を休もうとは思いませんでしたし、自分の軸は揺らぎませんでした。

それでも、ひどいいじめがあった時は、どうしても辛くて泣きながら帰ることもありました。両親に心配をかけたくないから、泣いてることがバレないように、町で時間を潰して帰るんです。

帰りに寄ったラーメン屋で、泣きながらラーメンを食べました。そうすると、おじちゃんが「お前はすごいよ」と褒めてくれたんです。理由はよくわかりませんでしたが、めちゃくちゃ褒めてくれて。私には味方がいないわけじゃない、と感じることができました。本当に辛い時、悲しませたくないしがっかりさせたくないから、親には言えないんですよね。でも、ある程度距離がある大人が近くにいることで、救われている感じがしました。

少年犯罪をなくしたい

高校は進学校へ。二度と女子のいじめのターゲットになりたくないと思い、男子っぽい格好をして学ランを着て応援団長になりました。そしてようやく、念願の生徒会長になることができたんです。高校には「マフラー禁止」という校則があり、おかしいと思って撤廃するよう働きかけました。

全国の学校に「マフラー禁止っていう校則ありますか?」とアンケートをとるなど、積極的に行動。おかしいと思うことをそのままにしておけなかったんです。課題を見つけたら、どうやって面白く解決するか考えるのが好きだなと思いました。もっと広い世界を見たい、香川を出て東京に行きたいと思うようになりました。

その頃、近しい人が不良グループに入っていたのですが、ある日もうやめると言い出したんです。所属していたグループで、標的の頭をバットで殴る「根性試し」があったそうで、自分は殴れなかったと話してくれました。私の顔が浮かんで、できなかったと。その人の他にもう一人、殴れなかった子がいました。その子は「近所の駄菓子屋のおばちゃんの顔が浮かんだ」と言ったそうです。

人を傷つけてしまう、やってはいけない最後の一線を越える時、「あの人が悲しむんじゃないか」と誰か一人でも思い出せる人がいたら、思いとどまれるんじゃないか。そんな思いが生まれました。不良グループの子たちは、家庭環境がぐちゃぐちゃの子も多くて。家族がダメでも、友達や地域とのつながりを変えられたら、彼らは罪を犯さずに済むんじゃないかと思うようになりました。

将来の夢は、小学生から変わらず女子プロ野球選手。それに加えて、少年犯罪専門の弁護士になりたいという気持ちが生まれました。2つの夢を追って、野球部に女子がいない東京の大学の、法学部に進学しました。

夢への決断とNo.1のプレッシャー

大学で少年犯罪を専門に勉強するうち、自分が冷静に判例を見ることができないと気がつきました。見ているうちに、あまりにも理不尽で、子どもが可哀想すぎて、ご飯も喉を通らなくなるんです。弁護士はそんな判例を元に、子どもたちを見続けなければならない。自分には無理かもしれないと感じ、法ではない手段で解決方法を模索するようになりました。

学ぶ中で、子どもたちに義務教育のうちから稼ぐ力があれば、再犯を防ぎやすくなるということはわかっていました。なので、まずは自分も稼ぐ力を身につけようと考え、経営を学ぶために、経営コンサルティングを手がけるベンチャー企業へ就職しました。

一方で、プロ野球選手になりたいという夢も追い続けていました。社会人チームに入り、女子プロ野球の世界大会出場を目指して練習していたんです。しかし、プロになるために全てを注ぐほかの選手たちを見るうちに、野球以外にもやりたいことがある自分との温度差を感じるようになりました。それで、入社1年目でプロ野球はきっぱり諦め、会社一本に絞ることにしたんです。

それからは、とにかく売り上げ1位を取ろうと、ひたすら頑張って、なんとか1年目で売り上げ社内表彰を受けるほどの結果を出しました。

ところが、2年目になると大きなプレッシャーに苦しむようになったんです。目標を達成したら、どんどん扱う金額が大きくなる。そのたびに、今よりどんどん辛くなるの?そう思うと何を目指しているのかわからなくなり、会社に行くと涙が止まらなくなってしまいました。どうしようもなくて、3カ月のお休みをいただきました。

これまで、進学校に行って希望の大学に入り、注目されているベンチャー企業に就職。そこでも成果を出して表彰されてと、ずっとレールの上を歩いてきました。そのことに対して、プライドもあったんです。初めて、自分からそのレールを降りる決断をしました。

でも、降りてみたら、意外と大丈夫だったんですよね。今までは、泣くなんて弱くて、私のやることじゃないと思っていましたが、詩人の「泣いたっていい、人間だもの」という言葉をみて「まあいっか、人間だもん」と思えるようになりました。生きるのが楽になったんです。3カ月後、別の部署に異動させてもらい、職場復帰しました。

働くことと幸せと

異動先の部署では、徐々に成果を出し、再び社内表彰を受けました。ただ、会社の中だけでなく、もっと広い場所で表彰されたいと感じるようになったんです。加えて、もともとやりたかったこども教育に関わりたいという気持ちが強くなり、転職を決意しました。

転職先の会社では、子会社の執行役員に。親子が一緒に遊べるスポーツ用品が毎月届く、スポーツ版の通信教育サービスを作ることにしたんです。道具を使って親子が一緒に遊びながら、子どもの運動神経を鍛えていけるプログラムを開発し、販売しました。

しかし、思ったようにはうまく行かなかったんです。前職でさまざまな会社のコンサルティングをしてきましたが、自分でやると全然違いました。結果、親会社から1000万円投資してもらった事業を、潰してしまったんです。

失敗の要因は、商品の企画段階で親の視点が欠けていたことでした。私たちは、親が子どものちょっとした成長を見ていられるようにしようと、親と子どもが一緒でないとできないプログラムを作っていました。でも、親は子育て中、本当に自分の時間がないんです。だから、もちろん子どもの成長は嬉しいけれど、子どもが自分一人で熱中して時間を過ごしてくれることの方が大事だったんですよね。そこに気づかずに商品、サービスを設計してしまったために、顧客に受け入れられなかったんです。

ただ、事業を潰してしまっても、どんなに業績が下がっても、雇われ社長だった私の給料は変わりませんでした。こんなに会社に損失を出しているのに、私はのうのうと生きていけてしまっている。このままでは、自分の心の弱さに負けて、仕事に本気で向き合えない人間になってしまうと危機感を覚えました。

加えて、在職中に2人の子どもを出産したため、仕事の時間を捻出するのが難しくなっていました。千葉県流山市に住んでいたので、都内への通勤に時間がかかりました。加えて、夜泣きがひどいと、全く眠れない中で出勤することも。

ある日ふと、子どもに向かう自分の顔を鏡で見ると、びっくりするほど怖い形相だったんです。こんな顔を子どもに見せて、子どもは幸せなんだろうか。そう感じて、自分が何をしているのかわからなくなりました。

会社に迷惑を欠けないためにも、子どものためにも、そして自分自身のためにも、退職することに決めました。

地域で働ける仕組みづくり

子育てをしながらできる仕事を探し、フリーランスのコンサルタントとして働き始めました。でも、子育てと両立しながらフリーランスをしていると能力 を正当に評価されないと感じる場面が多くありました。

法人の器を作ることで、対等な立場で仕事ができると気づき、3カ月で法人化しました。実際、個人だとそもそも取引ができない企業が多かったので、法人化したことで契約が結べるようになり、口座登録も可能になって仕事しやすくなりました。

私は、流山に縁もゆかりもなく、友達も地域のつながりもゼロ。子育てし始めてから、イベントを開催するなどして地域のネットワークを作り始めていました。知らない人たちの中で初めてのことだらけだったので、ネットワークがないと辛い、という危機感があったんです。大企業と一緒に中高生が街の課題を解決するアプリを作るイベントを開くなど、会社員時代に築いてきたネットワークを生かし、地域を考えるイベントを開いていました。

すると、そんな活動が広まり、流山に進出した企業が私にご連絡してくるような流れができたんです。流山市は人口が増えている街で、企業の進出も活発。民間の学童保育の立ち上げなど、さまざまな仕事ができるようになりました。

そんな中、ある人から流山にシェアオフィスを作りたいという相談を受けました。オフィス運営をしている事業者は知らなかったものの、私自身、企業に勤めていた頃は通勤時間が長いことに課題感があり、シェアオフィスを作りたいという思いがありました。そこで、やったことはないけれど「私がやります」と言ったんです。

相談してくれた方を最初のお客さんとして、2016年にシェアオフィスをオープンしました。東京に働きに行かなくてよくなれば、子育て世代の負担を少しでも軽くすることができます。面白い人材が地元にとどまるので、地域も盛り上がるはず。そして子どもたちにとっても、面白い大人が地域にいることがプラスになるのではないかと考えたんです。

私が幼い頃も、地域で親や先生以外の人に出会うことで、いろいろな価値観や考え方に触れることができていました。生き方はいくらでもあるんだということを、子どものうちから感じられるようにしたい。そのためには、面白い大人が、家族の近くで、地域の中で働ける場所が必要なのです。

そんな場所になることを目指して、個人と企業と自治体が出会い、働き方改革を進め、地方創生やイノベーションの創出に取り組むことのできる仕組みを整えていきました。

日本を教育大国に

今は、株式会社新閃力の代表として、千葉県流山市でシェアオフィス「Trist」を運営するほか、学童スクールや創業スクールなどを手がけています。さらに、2020年4月から、奈良県生駒市の教育指導課教育改革担当職員としても働き始めました。

今は学校を回り、先生たちと話をして現場の課題や希望をお聞きしています。もちろん、自分にも取り組みたいことはありますが、まずは現場の課題を解決するためのアイディアを柔軟に考えていけたらと思っています。

生駒市でも流山市でも、その他の地域でもよいのですが、私が実現したいのは「学校の空き教室にシェアオフィスをつくる」モデルです。

これまで流山市では、仕事と家庭が隣接した、新しい形の地域をつくろうと活動してきました。ただ、やってみてこの2つがもっと近くにあれば良いと思ったんです。そうすることで、子どもたちは学校の中で仕事している大人と触れ合う機会ができますし、登下校も大人と一緒にすることが可能です。安心ですし、子どもと一緒にいられる時間も増えますよね。

このアイデアが実現すれば、少子化による学校の空き教室増加の問題の解決や、子どもの登下校時の事件の防止、学校生活で悩む子どもが親や先生以外の第三者に相談できる場の提供など、さまざまなプラスの効果があると思うのです。子どもに業界や専門分野に興味を持ってもらうことは、将来的に業界全体の人材確保、リクルートの機能もあり、業界の未来を守ることにもつながるはずです。民間としてトライアルをしつつ、行政と一緒に公教育のなかで実現することで、日本全国へ広めていきたいですね。

最終的には、日本を教育大国にしたいと考えています。地域ごとに特色を出して、世界中の企業が日本のシェアオフィスに入りたいと感じ、世界中の子どもが日本で学びたいと思えるような形をつくりたいのです。

例えば、農業に興味のある子どもは、広い農場を持ち、世界中の農業テックの企業が集まるシェアオフィスのある北海道の学校へ。宇宙に関心のある子どもは、宇宙センターを有し、世界中の宇宙テックの企業が集まる種子島の学校へ、という具体です。

地域がそんな風になれば、地域の中にいろいろな国の、いろいろな文化を持つ人が入り混じり、地域にいながらにして多様性を学ぶことができるはず。お金があり、親に理解がある家庭の子しか英語を学べず、世界を知ることができないのではなく、どんな子たちも地域のつながりの中で多様な経験を積める機会をつくりたいと考えています。

世界が包括された地域を作ることで、家庭環境によることなく、どんな子どもも面白く経験と人とのつながりを持てる世界をつくっていきたいです。

※この記事は、野村不動産株式会社の提供でお送りしました。

この連載記事は、自分らしく生きたい人へ向けた人生経験のシェアリングサービス「another life.」からのコンテンツ提供でお届けしています。※このインタビューはanother life.にて、2020年10月22日に公開されたものです。
インタビュー・ライティング: 粟村千愛

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