幼い頃は本を通して、今は取材を通して、人の物語に寄り添う友光さん。ある編集者の誘い をきっかけに、フリーランスのライター・編集者になりました。友光さんが、人の物語に寄 り添う取材を続ける理由とは。お話を伺いました。
チームでのものづくりの楽しさ
岡山県岡山市で生まれました。一人っ子で友達が少なく、小さい頃は内向的で人見知りな性格でした。
読書が好きで、小学生の頃までは、いつも一人で本を読んでいましたね。10代向けのファンタジーやヤングアダルト小説から読み始め、両親の部屋の本棚にある大人向けのエッセイや小説まで、ジャンルを問わず読み漁りました。筆者の暮らしを綴ったエッセイや、知らない世界の物語。本の扉を開くと、自分の身の回りにはない新しい世界に出会えるような感覚があり、読書が大好きでした。
中学生になると、体育祭前にクラスの有志で集まり、ブロックごとの大きな応援看板を作るイベントがありました。絵を描くことも好きだったので、自分が図案のアイデアを出し、皆でそれを形にすることに。2年生のときには、看板をはみ出すようなデザインにしたり、3年生のときには立体のデザインに挑戦したりしました。とくに立体は目新しかったのか、ほかのブロックが制作中の看板も途中から立体に変わったときは、うれしかったですね(笑)。自分のアイデアが形になり、すごいと言ってもらえるのは楽しかったです。
ただ、もちろん反響もうれしいですけど、一番好きなのはものを作っている過程そのものでした。放課後や土日に学校に行き、人と協力して作っていくのは不思議な高揚感があり、没頭しました。
地元の県立高校に進学すると、今度は2年生のときの文化祭で、クラスで劇をすることになりました。僕は脚本を担当し、古い小説をもとに劇を作ったんです。ステージを三分割して、それぞれに場面展開して表現するなど、舞台の演出にもこだわりました。放課後も残って皆で練習しましたね。
自分が考えた脚本に、クラスメイトが意見を出し、より良い劇に仕上がっていく。自分のアイデアに、一人では思いつかなかったアイデアが足され、より大きくて良いものができる。一人でのものづくりも好きでしたが、チームでのものづくりも、とてもおもしろいと知りました。劇では僕自身も助演を務め、本番では皆で作り上げた劇を成功させることができました。
気の合う仲間との編集の楽しさ
その後、東京の大学へ進学しました。「好きな本にまつわる勉強をしたい」と、文学系の学部を選んだんです。
大学1年生の5月、ある雑誌サークルに出会いました。僕の入った学部の前身である「第二文学部」の表現・芸術系専修の機関誌で、学生が書いた小説を載せたり、教授や著名人へインタビューしたりしていて。雑誌づくりに興味が湧いて、そのサークルに入ることにしました。
サークルでの活動を通して、編集のおもしろさを知ることができました。それまでは編集者といえば、恥ずかしながら漫画やドラマに出てくる「先生の原稿を回収するため、ひたすら待っている人」くらいのイメージしかなかったんです。でも、雑誌づくりを通じて、「編集」の本来の意味を知っていきました。
機関誌では、企画を立てる、取材して執筆する、誌面をデザインするなど、ひととおりの編集業務に携わることができました。皆で企画会議をして特集を決め、それぞれ取材に行って素材を集め、記事を作る。気の合う仲間たちと、年に一冊の出版に向けて作り上げていく過程は、とても楽しかったですね。その後はサークルの同期とミニコミも立ち上げ、紙の雑誌を作って対面で配布したり販売したりするリアルな手ごたえに、はまっていきました。
大学卒業後も雑誌の編集をやり続けたい、と就職活動に臨みました。サークルでの経験もありましたし、とある教授からいただいた、「雑誌とはそもそも雑なものであって、だからこそ逆に時分の花をちらつかせることができるのだ」という言葉が印象に残っていたことも大きいです。出版社に就職し、プロのチームによる雑誌作りを仕事にしたいと考えるようになりました。
3年生の夏頃から、数社の出版社を受けました。しかし、すべて落ちてしまったんです。4年生の春頃、ある出版社の募集を見つけ、「ダメだったら就職浪人をしよう」と思って受けたところ、内定をいただき、就職することができました。
ものづくりに向き合うということ
雑誌の出版社では、編集者として、女性向けライフスタイルの雑誌を4年ほど、車中泊の雑誌を1年ほど担当しました。しかし、次第に編集者としてステップアップしたい気持ちが強くなり、27歳のときに転職活動を始めました。
その後、ある出版社から内定をいただき、これまでお世話になった人たちに退職の挨拶メールを送っていたんです。すると、ウェブメディア「ジモコロ」編集長の徳谷柿次郎さんから「一緒に働きましょう!」と突然お声がけいただきました。柿次郎さんは前職の会社から独立し、自分の会社であるHuuuuを立ち上げたタイミング。以前、僕が車中泊の雑誌を編集していたとき、ジモコロの取材を受けたことがあり、そのときに知り合っていました。ウェブの編集は考えたことがなく、最初は迷ったのですが、柿次郎さんから「まずは一度、取材の雰囲気を見てみない?」と提案がありました。
そこで行ったのが、兵庫県への取材ツアーです。メンバーは柿次郎さん、カメラマンさん、ライターさんと僕の4人。取材は、すごく丁寧で、かつ泥臭くて。チームで熱量を持って取材相手に向き合う姿がとても印象的でした。また、取材の中では、地元のおじさんにいきなり好きな異性のタイプを聞いたり、写真を撮るときにコミカルな動きをしたりと、雑誌時代にはなかったエンタメ性があるんです。隣で見ていて、とても刺激的でしたね。
ツアー中、もうひとつ意外だったのが、たい焼きを買いに行って店主の方と長話をしたり、温泉に入って畳の部屋で昼寝をしたり、一見無駄にしか映らない時間があること。取材以外の余白や、遊びながらチームの交流を深める時間を大切にしていたんですね。
いいコンテンツを作るためには、取材だけではなく、チームの存在や取材以外の時間も大切であると、身をもって体験しましたね。この人たちと一緒に働きたいと思い、Huuuuに入ることを決めました。
ウェブコンテンツのおもしろさ
Huuuuでの最初の3年間は、フリーランスとして所属していました。会社員時代とは違い、自分の書いた記事の本数で収入が上下したり、自分で確定申告をしたり。ここではじめて、世の中の税金の仕組みや、自分が何に対してお金をもらっているか、身をもって知ることができました。
最初にジモコロで記事を書いたとき、柿次郎さんからライターネームを付けてもらいました。僕の出身が岡山で、きびだんごが有名なのと、覚えやすいという理由で本名の「友光哲」から「友光だんご」になったんです。もともとウェブでどんどん顔出しするような性格ではなかったのですが、「だんご」という別の人格を得たことで、苦手意識を感じなくなりましたね。新しい顔をもらったような感覚です。
Huuuuに入って3カ月ほどが経った頃、ジモコロの企画で、群馬県桐生市で小さなコーヒーショップを構えた15歳の少年を取材しました。高校へ行かず、自分のやりたいことを見つけて打ち込む彼と、背中を押す両親。その親子の姿を伝えた記事が、SNSを通じて想像以上に拡散され、反響を呼んだんです。公開直後はTwitterを見るたびに、どんどん感想が上がってきて。うれしかったですね。ウェブでは、読者の素直な感想をすぐに知ることができる。雑誌にはない、ウェブの面白さを感じるようになりました。
ウェブならではの良さは、ほかにもありました。例えば、コンテンツ制作の過程で関われる点が多いことです。僕のいた出版社では、企画や取材調整は編集者、文章を書くのはライター、紙面のデザインはデザイナーと、役割分担しながら誌面を作っていました。しかしウェブでは、編集者がライターやカメラマンまで兼ねることもあり、企画から取材、写真撮影、記事執筆まで一人で行うこともあります。大学時代に雑誌サークルでやっていた編集の感覚に近く、自分でたくさん手を動かしながらコンテンツを作る楽しさを思い出しました。
一方で、コーヒーショップを構えた少年の記事によって、メディアの責任も感じました。記事が話題になった結果、小さなお店に全国から人が押し寄せ、一時はお店を閉じることになってしまったんです。少年と両親の人生を一変させてしまった、と青ざめました。
その後も彼らと連絡を取り続け、1年ほど経ってから、もう一度、取材をしに行ったんです。少年と両親は「人生は変わりましたけど、感謝しています」と笑って言ってくれました。取材して伝える者の責任として、取材相手の方たちに向き合い続けることの大事さを、そこで強く実感しました。
人の物語に寄り添うおもしろさと責任
現在は、Huuuuの取締役兼編集部長を務めています。Huuuuでは、全国47都道府県の地元と仕事を取材するメディア「ジモコロ」や、ヤフー株式会社が運営する海の豊かさを次世代につなぐメディア「Gyoppy! (ギョッピー)」の運営をはじめ、ウェブと紙を横断したコンテンツ制作、場づくりなどを行っています。僕はHuuuuの関わるコンテンツの編集をはじめ、ライターとしての記事執筆、そしてチームのマネージャー的な役割も担うようになりました。
「ジモコロ」に携わるようになってから、本格的にインタビューを始めました。事前にしっかり準備してから取材を行うときもありますが、ジモコロでは旅先で偶然出会った人から面白い話が聞けたり、偶然の流れで全く予想していなかった話が飛び出したりすることもあります。そういうときは、釣りをしていて大きな魚がかかったときみたいな興奮がありますね。
取材では、「繋がる瞬間」にテンションが上がります。例えば、山形のある農家さんを取材していて、「土の中の微生物の働きによって土が元気になり、おいしい野菜ができるから、微生物が大事なんだ」と聞く。その半年後に、岐阜の牛飼いの方の取材をしていたら「微生物は大事だ」という話が出てくる。全く違う土地で、別の仕事をしている人どうしなのに、根っこの部分で大事にしているものが同じ。そんなことが、ライターを続けていくうち次々と起こっています。そういう時の繋がった瞬間は気持ちよくて、ライターの醍醐味だと感じています。
日本各地を取材するなかで、現地の方とは長時間一緒に過ごし、夜遅くまで酒を飲み交わすことも多いです。そうやっていろいろな土地の人と関係性ができると、そこから次に繋がっていくんですよね。「今度イベントに来て」と誘われたり、僕も「また会いに行きたい」と思う。気づけば大きな波みたいなものに乗っている感覚があります。日本全国にできた深い関係性を、これからも大事にしたいですね。
かつて本を読む時に感じていた「物語の面白さ」を、いまは取材する方たちの話に感じています。ただ、人の物語は本を読むこととは異なり、一方的に楽しんでいるばかりではいけません。伝える責任が存在するうえに、けして「伝えて終わり」でもない。取材時点では最新の記事であっても、人は必ず変わっていきます。人の物語に触れるとき、その物語は時間とともに変わっていくことを忘れずに、時間が経っても関係性を続けていく。そしてもし、新たな場所で相手が伝えて欲しいことがあるなら、できる限り寄り添っていく。それが一つの責任だと考えています。
人の物語に寄り添うことの怖さや危うさを心に留め、寄り添い続けていきたいです。