「いまのインターネットは、人がものを考えるには速すぎる」という問題意識から、「遅いインターネット」を提唱した評論家・宇野常寛さん。その次の動きとして、昨秋あえてAmazonにも大型書店にも置かない新しい批評誌『モノノメ』を立ち上げました。創刊特集に「都市」を選び、「人から物事にフォーカスを変える」と訴えるその心とは? 主にデジタルテクノロジー系のメディアで活動する編集者・久保田大海さんが訊きました。
宇野常寛 プロフィール
社会に多様性を取り戻すための二つの手段
宇野 雑誌名を「モノノメ」としていますが、モノだけを基盤に置いているわけでもないんですよ。ただ、これが僕の掲げている「遅いインターネット」というコンセプトからの流れで出てきたもの、ということが結構大事だと思っています。
かつて初期のインターネットを手にしたシリコンバレーの起業家たちが、その発展形として思い描いたWeb2.0と言われるもの、それを具現化した代表例がSNSだと思います。情報技術に個性を解放する場を与えられたにもかかわらず、気がつけば誰もがほとんど同じことをやっている。要するに、ほとんどの人間は発信する能力は獲得しても、発信するに値するものは見つけられていなかった。せいぜいタイムラインの潮目を読み、他のユーザーの歓心を買いたいとか、他の誰かを批難したりダメ出しをして気持ちよくなりたいとか、人脈やライフスタイルを自慢したいとか、その程度のことしかないことが証明された。そして多くの人がTwitterではTwitterっぽい内容、FacebookではFacebookっぽい内容を書いている。
で、この状況がどうしようもないと嘆くのはかんたんなのだけれど、僕はどうしてこうなってしまうのか、少しでもマシにするにはどうしたらいいかに関心があるんです。その中で、考えたことの一つが身体性の問題なんですよね。
たとえば僕と僕の友人の乙武洋匡さんでは物理的な身体条件がまるで違います。だから移動方法も、視界の持ち方も異なります。しかし、Facebookのユーザとして得ている社会的身体の機能は基本的に一緒です。そういった、サイバースペースにおける社会的身体の画一性が、結果的に発信そのものの画一性を生んでいる側面もあるのではないかと考えています。 では、そこから多様性を回復させる手段とは何かと考えたときに、二つあると思っています。一つは人間ではなく物事にフォーカスすること。もう一つは身体、つまりSNSの社会的な身体から物理的な身体に回帰するということ。これら二つが、多様性を回復させるための条件だ、というのが僕の考えです。
この雑誌名の「モノノメ」は春の季語で、植物の芽の総称です。つまりここからあらゆるものが芽吹いていってほしい、という願いを込めた名前なのだけれど、同時に「モノ」の「目」でもある。要するに人間の目のネットワークから離れて、物事を基準に世界を見てみようという提案が込められているわけです。
紙の雑誌という形態を選んだのは、具体的に述べればやはり、目当ての記事以外のもの偶然触れられる機会はまだ物理的な紙の雑誌のほうにアドバンテージがあると感じたからなのだけれど、同時にSNSの相互評価のゲームから切断された時間を演出するために、手っ取り早く字も写真がいっぱい載っていて、そして買うのに時間と手間がかかるものに無理矢理巻き込んでいくのがこのタイミングではいいんじゃないかと考えたというのもあります。
都市の"食"や"住"
でも、僕はそこに違和感があって、文化的な存在だったインターネットが政治を変えるにはまだステップが必要で、それは僕たちの生活が変わることだと思ったんですね。2012年から15年くらいまでの僕の発言を読み返すと、そういうことばかり言っているのだけど、当時はあまり相手にされませんでした。でも、僕は生活が変わって初めて、政治が変わると今でも考えています。たとえば「中食」の普及は、やはり戦後的な核家族のモデルに大きくメスを入れる存在だし、僕たちのワークスタイルにも大きく影響する。つまり、これって実は脱戦後的な家族観や労働観の問題なんです。コロナ禍で、中食の存在が大きくクローズアップされたけれど、その前から大事な問題だったと僕は言ってきたんですよね。
同じような問題としてコロナ禍で多くの職場でリモートワークが実施された結果として、日本の家屋の問題も浮き彫りになったと思うんです。たとえば、夫婦がともに自宅でリモートワークをするようなケースが増えてきたと思うんですが、日本の家屋のほとんどが夫婦が2人とも家で仕事するのを前提にしていないので、ものすごく使いづらい間取りになっているはずなんです。。だから今、日中ほとんどの時間、すごく不便さを感じながら、ダイニングテーブルに向き合っていたり、たとえばリビングに1人、ベッドルームに1人みたいに分かれているケースをよく聞きます。つまり、夫婦がそれぞれ書斎を持つといった考えが日本の間取りの文化の中にはない。そうした問題も2013〜14年くらいから指摘してきたつもりです。
要するに中食の可能性にせよ、この住環境の問題にせよ、ここ10年くらいの間に僕が衣食住に関して考えていた問題が、一気にこのコロナ禍で噴出してきたところがある。それらを自分なりに受け止めてどう打ち返すかというのが、実は「モノノメ」の裏テーマでもあったんですよ。
久保田 なるほど! いや仰る通りだと思いました。住環境の絡みで言うと、宇野さんが距離を置いているテレビ文化とかも、リビングの主役の場所にある前提の設計になっているわけですよね。今でもモデルルームとかに行くとテレビが鎮座していたりもしていますが、あれってZ世代や10代の若者からしたら「なにこれ?」っていう感じ方をする可能性が高いですよね。
宇野 この20年の日本の没落を「比喩的に」表現するなら、ジョブズがスマートフォンを構想している頃に、ソニーはPSXを一生懸命売ろうとしていた、というのがわかりやすい。つまり、21世紀になっても人間が夜や休日はお茶の間で一家団欒があって、その中心にテレビがある、という発想から離脱できずに、ああいった的外れも甚だしいホームコンピューティングの夢を提示してしまったわけじゃない? これは要するに僕たちが戦後中流のライフスタイルの延長にしか未来がない、と思い込んでしまった結果だと思う。まず「生活」から昭和を終わらせることが、僕は絶対に必要だと言ってきたんですよ。
SNSネットワークの"外部"にあるモノ
宇野 僕は今の指摘と「モノノメ」でのスタンスはそれほどずれていない、いやむしろすごく合致していると思っています。モノっていうのは基本的には誰かが所有している。ところが、それが「シェア」されるとどうなるか。それは計算されて、情報ネットワーク上のデータの一部になる。そして、モノのサービス化というのは、世界に流通されるモノのうち、シェアされるモノの割合がどんどん増えていくことによって、全体が計算可能になっていく、という現象のことです。これが逆に何を意味するかと言うと「シェアされないものはネットワークの外部にある」ということだと僕は考えています。だから、僕は紙の雑誌に回帰した、という側面もあるんです。要するに、閉じた相互評価のネットワークの外部を物理的に確保したかった。
前の10年は、「動員の革命」という言葉が象徴的だったけれど、とにかくSNSを使って人々が実空間に「動員」されていた時代なんですよね。それは「アラブの春」から「夏フェス」まで、全部そうです。「インスタ映え」なんて言葉はまさにその象徴だと思う。しかし、それが実空間の価値を再浮上させたかというと、まったく違うと思う。むしろSNSに動員された人間は、比喩的に述べればハッシュタグ以外の者は目に入らなくなっている。それって、観光客が名所旧跡の前で絵葉書と同じアングルでセルフィーを撮っているのと同じで、何ものにも出会っていない。予め自覚していた欲しいものに出会って、予定調和的な満足を得て帰っているわけです。
しかし、前の10年のSNSと実空間の関係は、世界中を「観光地」にしてしまったように僕は思う。だから、そこからどうこの閉じた相互評価のゲームの外側を確保するのかをいろいろ考えた結果、もしかしたら有効かもしれないなと考えて紙の雑誌や本屋への回帰も試してみた、ということです。もちろん、これですべてが解決するなんて脳天気なことは思っていなくて、復数のピースの組わせでやっていくしかなくて、そのうちの一つですね。SNSでとにかく人に難癖つけて自分を賢く見せたい人には他人の実行しているアイデアに「お前のやり方は完璧じゃない」と批判して気持ちよくなっているけれど、それって、「お前は神様じゃないからダメだ」といっているのと同じだと僕は思うし、何より鏡で自分の姿をよく点検してから言うべきだと思いますね。
ちょっと話がそれたけれど、あとは現代では20世紀後半の消費社会のように他人へひけらかすためにモノを所有する、ということが相対的にかなりなくなっている。その結果として、モノはいま、SNS的な相互評価のゲームから離れた回路になりつつある。モノとつながっている時間は、少なくともSNS的な相互評価のゲームからは開放されている。 いま、ネットワークの外部は空間的には成立しなくなっている。あるとしたらそれは時間的なものでしかない。つながらない場所はないけれど、つながらない時間ならある。自分に所有されるモノ」と孤独に向き合い、相互評価のネットワークをまったく気にしなくなる時間。そういった時間が人を自由にすると思っているんですよ。
都市における"場"
宇野 まず前提として、当然のことですが「飲まない東京」プロジェクトは別に飲料としてのアルコールやそれを提供する店をまったく敵視していないし、むしろ政府の飲食店を生贄に差し出して、国民の「自粛」気分を形成するという手法には、憤りすら感じます。その前提の上でいうと、プロジェクトの趣旨の一つとしては、日本的な飲みニケーションへのカウンターなんですよ。
そもそも「大人の遊び」=「飲み会」という等式がこの国は強すぎると思う。お酒を介して、人間関係を確認することで安心したい人が多いのだと思うけれど、僕はそういうのはあまり好きじゃないし、それ以前に、都市の夜の過ごし方が「飲み」だけだというのはとても貧しいと思うんです。コロナ禍の以前の話だけれど、僕は東京は24時間眠らない街であることが、素敵なところだと思っていました。でも、ほとんどのお店がお酒を飲むことが前提になっていて、僕みたいなお酒が苦手な人にはいる場所がない。だから大人の「遊び」のバリエーションがもっと増えていいと思ったし、あと都市に「飲まない」人のための場所がもっとあったらいいなと思ったんです。それが「飲まない東京」カフェですね。
久保田 「飲まない東京」プロジェクトの記事では、アルコール文化があったところにノンアルコールを持ち込むと何が生まれるのか、もしかしたらそこには遊びが発生するかもしれない、という内容も書かれていましたよね。僕自身はアルコールが飲めないということもあり、その発想がすごく面白いと思いました。
ちょっと話は変わりますが「場」に関してということで、IT起業家たちのサウナブームに対して何を想われますか?
宇野 僕の周りにもサウナ好きは何人かいるので実感もあるのですが、サウナというのは、半ば喫煙所的な、自分の外部に触れるコミュニケーションの場として使われているのだと思います。
居酒屋と喫煙所を例にすると、さきほど言った通り居酒屋というのは普段の繋がりを確認しに行く場です。対して喫煙所というのは、隣の部署や下のフロアに居る別の会社の人との雑談をする場所です。だから居酒屋と喫煙所の間でかなり喫煙所寄りの需要が出てきている、というのがサウナブームだと思いますね。
その点で言うと、「モノノメ」にも出ているEN TEAの丸若裕俊さんと、「世界からタバコは消滅するけど喫煙所的なコミュニケーションは絶対にいろいろな形で残っていくはずだ」という話をしています。時代と共に喫煙所的なコミュニケーションも移り変わっていくなか、21世紀におけるその一つの形がサウナである、ということだと思いますね。
"場"における無関心的な歓待
たとえば震災後の10年、特に日本では災害時に生まれるユートピア的な助けあいといったものが再注目されました。普段から醤油の貸し借りができるような関係性こそが災害の時には人を助ける、といったものです。日本の地域コミュニティの封建制のような負の側面が半ば忘却されて、コミュニティの協同性の再擁護が行われていたのですが、僕はやっぱり隣人のこともお互いよくわからないような、都心の匿名性の方が性に合う人間なんですよ。それでも実際に大震災が起こったりしたら、普段全く関わりが無い人であっても助けると思います。これを読んでいる読者の人も、目の前に産気づいている妊婦さんがいたら10人中9人くらいは救急車を呼ぶと思います。むしろ、普段から醤油の貸し借りをしていると敵味方がはっきりしてしまいます。その結果、目の前でケガをしているのは、村の外れに住む変人のおじさんだとわかっているから助けない、とかいったことが起こりうると思います。これって完全なディストピアですよね。
僕は高田馬場に住んでいるんでが、僕のように服装にも気を使わずに昼間からブラブラしている中年男性には、意外と暮らしやすい街なんです。高田馬場っていうと学生街のイメージが強いと思うんですが、早稲田通りの南側の諏訪町にあたりは古い住宅街で、比較的年齢の高い世帯が多い。西武新宿線の事実上のターミナル駅なので、東京の西側や埼玉県のベッドタウンからやってくるサラリーマンや家族連れも多いし、何よりミャンマーやインドなど、外国人の人が多い。高田馬場はかなり多様な街で、その多様性が僕みたいな人間にも居場所を与えているわけです。
僕は週に一度、同年代の男性とランニングをしているのだけれど、その後にいつも昼食を取る町中華があります。友人は酒好きなので、昼間からガブガブ飲む。その店のホールのオバちゃんから「あんたたち、こんな昼間から何やってんのぉ!」とか言われたります。でも、別に彼女はその答えを本気で知りたいわけじゃない。とりあえず、馴染みになりそうな客に好意的に声をかけているだけだと思うんですよね。敵でも味方でもない、というかなりようがない無関心な相手だからこそ、とりあえず歓待する。この客商売の無関心的な歓待が、僕はこれからの都市というか、公共的なもののベースになると思っているんです。
人から物事へ
そういえば先日、ラジオ関係の友人と話した際に「深夜ラジオの意義」みたいなことを言っていました。今や日常のすべてが常時繋がっているけれども、深夜だけはそういった普段の繋がりから解放されて、自分の好き嫌いだけでラジオというものと繋がれると。宇野さんのお話を聞きながら、その話に近いなと思いました。
宇野 おそらくその彼の話での深夜ラジオというのは、彼個人に「所有されるモノ」なのだろうと思います。ラジオから流れるのは人の声ではあるけど、DJが彼のことを知っているわけでもなく、彼もDJとの関係性を気にしたりせずに、番組コンテンツとして個人の好みで向き合えている、ということですね。つまり、深夜ラジオをモノとして所有している。
やはり人間以外のモノに触れるってことが結構大事なんだと思います。例えばSNS上でAさんについて語ってしまうと、Aさんに賛同するかどうか、あるいはAさんへの意見を表明することで自分に繋がる人達はどう思うか、といった視野の狭い話になってきてしまう。でもAさんがやっているビジネスをどう思うかとか、そこで売られているものに対しての自分の感想というのを考える時には、より広い視点や角度から意見が出てきやすい。だから僕はそういった「人から物事へフォーカスを変える」、みたいな視点が大事だと思っています。
個人が"作る"モノ
宇野 そういう部分はあります。「もうモノを消費する時代は終わった、モノを顕示するというのはバブル世代のものだ」とよく言われたりしますが、僕がここで言うモノというのは、モノそのものだけじゃなくてそれを作るコトも含んでいるんですよ。
そして、そのモノを「つくる」とき、その「モノ」はどちらかといえば「コト」のほうに近づいていく。僕は「ヒト」と承認の交換のゲームをすることだけではなく、「モノ」をつくることで世界に触れる回路も得たほうがいいと考えているんですよ。
「モノノメ」で言うと井庭崇さんの「創造社会における創造の美」という論考がそれにあたります。僕が「遅いインターネット」の活動で展開している世界観は、発信能力を持った多くの人は安直な承認欲求を満たす発信ばかりを行いがちで、その過程でどんどん愚かになっていく、というものです。それに対して井庭さんは建設的な批判を加えている。宇野の「遅いインターネット」論は前提としたうえで、名も無き人々がカジュアルな創造性、もう少し深く言えばパターンランゲージを応用した民藝的な創造性、それを身に着け創造することによって、宇野が言うある種の愚民論は克服できる、ということを彼は試論しているんですよ。
宇野 ただ、僕としては創造性が大きなキーワードだとはあまり思っていません。それよりもやはりモノを通じて世界に触れる回路を得ることのほうが重要だと思っています。僕は仮面ライダーが好きで、いま手元にもバイクに乗った仮面ライダーフィギュアがあります。これ実は、改造して頭部だけ別のものに自分ですげ替えているんですが、そんなの他人に見せたところでわかりません。ただ自分のためにフィギュアをいじって、ただ自分の納得いく角度で写真を撮ったりしている。その写真を誰に見せるわけでもありません。たとえば料理好きな人も自分の好きな味に向けてとか、自分の料理を食べさせる人の目的/好みに向けて味を調整したりしますよね。そういった、モノそのものとの対話を深めるだけで充分なんじゃないかというのが僕の考えです。逆に創造性にこだわっているという点で、どこか評価経済のゲームを切り離せていない面がある気もします。
麻薬的な承認ゲームから抜け出す
たとえば『スーパーマリオブラザーズ』をプレイするとき、Bダッシュで加速して大きくジャンプするのってすごく気持ちいいですよね。ところが、点数を気にしている人間は、このBダッシュを心から楽しむことができない。むしろ点数に関係ない大きなジャンプなんて邪魔なものになってくる。逆もまたしかりで、Bダッシュの喜びを最大化しようと思うと、点数を気にすることから抜け出す必要があるわけです。
世界は今、さきほど述べたような承認ゲームの点数を競いあっている状況です。この麻薬的で終わりのないゲームからいかに抜け出すかが結構大事だと思っています。そのためにBダッシュの快楽を取り戻す運動を展開したいんです。ただ、Bダッシュの快楽自体に囚われすぎると、また別の問題が生じてしまう。要するにどんどん自分の中に閉じてしまう。ただ、かといって今のSNSのような相互評価のゲームは副作用が大きすぎる。ではどうやって新しい形で「開かれて」いくのかが僕の課題で、実はそういったことをまとめた本を今書いています。
「モノノメ」は視点の提供
宇野 というよりも、こういったことを考えながら都市を眺めたのがあの雑誌ですね。僕の本領としては、しっかり理詰めで理論的なことを書いていこうと思っています。けれど、「モノノメ」ではあえてそこを押さえて、色々な視点を提供するというスタンスで作っているんです。こういう視点で都市を歩いてみよう、動植物を観察してみよう、普段自分たちが食べたり飲んだりしているもの見てみよう、住空間を点検してみよう、といった内容になっていて、感覚的にも身近でとっつきやすくもなっていると思います。
久保田 確かに「モノノメ」の内容は、具体的な行動のハンドブックというより、きっかけを与えるってスタンスが近い印象ですね。
宇野 そうなんです。こうしよう、といった結論ではなく、僕は世界をこんな切り口で観ていますが皆さんどう思いますか?という形ですね。だから割と「僕の中でも確証を持てていないけれど、なんか気になる」くらいのものをどんどん取り上げることができています。僕が今まで刊行してきた「PLANETS」という雑誌は数年に1回の雑誌で、その瞬間の僕の世界観の表示やマニフェストに近いものにどうしてもなっていたと思います。対して「モノノメ」は年に1回とか2回とか定期的かつ継続的に出していくものにする予定なので、むしろ今僕がこんな視点で世界を見ているというのをストレートに追及するのがいいと思った。お米にたとえると、「PLANETS」がきちんと精米した白米なら、「モノノメ」は玄米。粗削りかもしれないけれど、それゆえの豊かさ、といったものを出していきたいですね。
今後に向けて
宇野 ひとつは「続けていく」ということですね。今回の「モノノメ」は流通も大手には出さず非常に絞っています。こういった、世間の潮流というものに戦略的に距離を置いたやり方でも、このクオリティのものを継続的に出せるんだなっていうことを見せ続けていくこと自体が結構大事だと思っています。目の前の収益を上げようと思えば、それこそSNSを存分に活用して人々を動員するようなビジネスをやった方が良いのでしょうが、そういうことをやるために生きているのではないので。こういう生き残り方、生き方があるんだっていうのを世の中に示すことが大事だから、やはり続けたい。
だから「やり続けていくための工夫」も続けていかないといけません。もちろん、自ら守るべきと思う範囲はちゃんと遵守しながら、しっかり作っていきたいなと思っています。実はもう次号も作り始めているんですよ。楽しみにしていてください。
久保田 今のお話だと、かなり長いスパンでの展開を考えられているんですね。
宇野 でもまあ、とりあえずは5年かなと思っていますよ。僕も40代後半になった時に今と同じレベルで書き手とメディアの運営者を両立できるかっていうと体力的に難しくなってくるでしょうし、その時になったらまたその時のやりたいことが出てくると思うんですよ。だから5年というスパンが、中期なのか短期なのかわからないけど、それくらいに目標を定めてしっかりやっていこうと思っています。
久保田 今後のご活躍にも期待しております。また僕がお役に立てることがあれば、ご一緒させてください。本日はありがとうございました。
聞き手:久保田大海
構成:野中健吾
価格 3,080円(税込)
ページ数 320頁
判型 B5変型版
発行 PLANETS/第二次惑星開発委員会
PLANETS公式オンラインストアにて書き下ろし全ページ解説集付きで発売中
https://wakusei2nd.thebase.in/items/51216334