これが、今のモンゴル。
怪我をした大学の友人に頼まれ、彼女の代役でセックスショップの店番を務めることになったサロール。一日の売り上げを届けるため、閉店後、カティアの家へと足を運ぶことが、バイトを始めた彼女の日課となる。
瀟洒なインテリアが目をひく高級フラットに一人で暮らすカティアは、家にいても完璧な化粧を施し、それが様になるという華のある、そして謎多き女性。やって来たサロールに「猫にエサをあげて」と、当然のようにいい放ったかと思えば、売り上げを渡してすぐに帰ろうとするサロールに「できたてだから」と手づくりのボルシチを一緒に食べようと懇願するあたりに、感情の振幅の大きさがのぞく。
腹が据わっているのか、ただ単に高給のバイトに魅かれたのか。内気そうな雰囲気とは裏腹に、友人から店の商品の詳細や、客への対処法を説明されるときも、商品のデリバリー先のホテルで、“お客”を取っていると間違えられて警察に勾留されたときも、サロールは動じない。カティアに連れられて行ったロシア料理店で、彼女にセックスの奥義を語られるときのリアクションも、好奇心むき出しというよりも、社会観察しているように見える。
だが、考えてみれば、画家志望のサロールにとって、観ることはいわば習性のようなもの。未知の出来事や人に対して、まずは向き合うという姿勢は、当然といえば当然かもしれない。
ボサボサの眉と弓なりの細い人工的な眉が端的に象徴するように、サロールとカティアは年齢や暮らしぶりだけでなく、その嗜好もだいぶ異なるように見える。だが、かつてバレリーナだったカティアは、サロールの裡にある芸術志向をキャッチしたのか、彼女に自分を開くように働きかける。
親から言われるまま原子力工学を専攻したサロールが、カティアとの衝突も経て、自発的、能動的にと変わってゆくさまを、本作が映画デビュー作となったバヤルツェツェグ・バヤルジャルガルが、自然でかつみずみずしく演じている。
人は互いにどう影響し合うのか。二人の関係性の変化を、センゲドルジ監督は細やかに描いてゆく。新旧それぞれの役者による、年齢や経験差を超えた女性同士の対等なやりとりは、多くの人の共感を誘うだろう。
カティアの趣味嗜好や、サロールの父親がかつてロシア語教師だったことなど、旧世代にはロシアの影響が色濃い一方、サロールの友人がK‐POPに憧れる青年として描かれるなど、監督は民主化後のモンゴルの変遷や世代間のギャップもさりげなく描く。ステレオタイプを軽やかに覆し、現代のモンゴルの一面を見せてくれる映画だ。