2024年。一万円札の顔は、長く親しまれていた福沢諭吉翁から渋沢栄一翁に変わりました。しばらくは新旧入り混じって使われているものの、定着してきたのではないかと思います。

渋沢栄一翁は、「日本資本主義の父」と呼ばれています。明治時代、日本初の銀行である第一国立銀行(現:みずほ銀行)をはじめ500社(多くがその後廃業や合併等を経たため、現存する企業を数えると約180社)にものぼる企業の設立や経営に携わり日本の近代化に大きく貢献したためです。とはいえ、この時代は三菱(岩崎)・三井・住友などの豪商が成長した時代でもありました。どうして渋沢翁が特別なのか。これには、3つの理由があると思います。
- 商工業に、確固とした理念をもって向き合い続けた。
幼いころから儒学などに触れ、社会の理不尽に直面しつつ時代の荒波を泳いできた経験などから、「国力を高めるためには、道理に則ったうえで商工業に励み利益を得ることが大切だ。」という考えを持つようになり、それを常に実践していました。実業界を引退する頃に、この考えをまとめたものが代名詞的存在である「論語と算盤」です。
- 商工業で得た利益を自分だけのものにしなかった。
渋沢翁は財閥をあえて作りませんでした。また、企業設立(出資)も自分ひとりで推し進めず、実際の経営は信頼する人に任せる形をとることが多かったのです。第一国立銀行はそのための拠点でもあり、たくさんの実業家を育てた人物でもあります。
いま風に言えば、社会起業家、起業・経営コンサルタント、エンジェル投資家の3つの顔を併せ持っていたといえるでしょう。
- 医療・福祉・教育などの社会事業(非営利事業)に、商工業と同等かそれ以上のエネルギーを注ぎ続けた。
渋沢翁がその生涯で最も長く務めた役職は「養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の事務長」であり、貧困に陥ったひとたちのために力を尽くしました。ほかにも、日本赤十字社、済生会、商法講習所(現:一橋大学)、同志社などに600にものぼる組織や事業に対して、自ら寄付するほか、寄付募集の世話人を引き受ける等、単なる名誉職ではなく実務に精力的に携わりました。いま風に言えば、スーパープロボノであり、一流のファンドレイザーです。
晩年には、民生委員からの相談に応え、病気の体にムチ打って救護法(いまでいう生活保護法)の実施を政府に訴えに行ったエピソードまであります。
渋沢翁は、単に商工業で成功しただけでなく、日本の社会全体が「誰ひとり取り残さず」、健全に発展していくことに生涯を捧げた人物で、その功績の多くはいまも受け継がれています。没後1世紀近くなり、社会情勢の変化も相まって再び評価されるようになったのだと思います。

そんな渋沢翁の生涯に触れることができる場所は、故郷・埼玉県深谷市の「渋沢栄一記念館」と、東京都北区の王子地区にある飛鳥山公園です。深谷には行ったことがありませんが、飛鳥山公園は、先日関東に出かけたついでに行ってみました。そのことをレポートしたいと思います。
東京駅から京浜東北線の電車で20分ほど、あともう少し行けば埼玉県というところにある、王子駅。改札を出て跨線橋を渡り、階段を昇るとそこは飛鳥山公園。緑豊かな公園で、遊具が充実しているほかおしゃれなカフェなどもあり、家族連れで賑わう公園です。ここは渋沢翁が長く暮らした場所であり、縁の場所であったため「渋沢史料館」が建ちました。また、渋沢庭園と呼ばれる一角であり、私設文庫として使われていた「青淵文庫」などの建物もあります。
飛鳥山公園 https://www.city.kita.tokyo.jp/jutaku/koen/asukayamapark/index.html

まず、渋沢史料館に入りました。常設展示場では、渋沢翁の生涯を細かく追っていくことができます。藍農家の後継者候補として過ごしながら儒学に触れて天下国家について考え始めた少年期から、激動の人生を送り91歳で生涯を終えるまでの一部始終をここで見ることができます。関わった企業や組織の一覧、その多さには舌を巻かずにはいられませんでした。

また、僕がここを訪れたタイミングでは、肖像展も開かれていました。偉大さゆえ、肖像を造られることも多かったのでしょう。それぞれの違いを見るのも楽しみました。
物販コーナーでは、渋沢翁自身の著書はもちろん、渋沢翁について研究した学者や子孫の方による著書、「論語と算盤」から学んだことについて書かれた著書などが販売されています。新しいものだと、野球日本代表チームを率いた栗山英樹氏の著書「育てる力」もここにありました。(余談ですが、栗山氏は大谷翔平氏に「論語と算盤」を勧めたそうです。)渋沢翁が時代や分野を超え、多くの人に影響を与え続けていることを垣間見ることができます。

その後、青淵文庫などもぶらりと見て、次に「紙の博物館」に入りました。紙の博物館がここにある理由は、日本における洋紙製造発祥の地であったためです。ここ王子で創業した製紙工場は「王子製紙」の源流であり、渋沢翁によるプロジェクトでもありました。銀行の次に製紙に携わったのは、出版・印刷は国の将来のために必要であり、そのための紙を確保することを意図したためです。
紙の製造工程や実際に使われた機械の展示があるのはもちろん、紙の種類、製紙に必要なエネルギーのマネジメント、リサイクルしやすくする工夫などについても説明があります。また、世界の紙の種類や歴史についても展示があり、紙についても詳しくなれます!紙の博物館の建設には、日本の製紙業界全体が協力したそうです。
渋沢翁の足跡を見ることは、これからの日本を考えるうえで大切なことだと思います。この緑多い環境に癒されながら学びを得てみましょう!