冬の間家の隙間という隙間で静かに眠っていたカメムシが、春の暖かな空気とともに動き出す。ペットボトルを使って捕まえるといいとか、昼間窓を開けっぱなしにしておくと勝手に外に飛び出していくとか。カメムシとの付き合い方をいろいろと聞いた。このカメムシ、長男の靴下に度々入り込む。なぜか彼のだけ。その度に大騒ぎしている彼の姿は可哀想だけれどクスッと笑ってしまう。いつもギリギリまで寝ている彼は、その日も大急ぎで靴下を履いて玄関を飛び出していった。しばらくすると外で校長先生の声がする。
「お母さん、Y君の靴下にカメムシが入っていて踏んでしまったみたいです。靴下の替えはありますか~?」
靴下の中でカメムシを潰してしまった息子の絶望した姿を見て、急いで伝えに来てくれたのだ。私はそれほど大きな町で育ったわけではないけれど、子どもの頃に校長先生と話をした覚えもないし、学校生活で関わることはほとんどなかったと思う。わざわざ息子の靴下を心配して来てくれたことにとても驚いた。石徹白のような小さな集落では学校や地域の人々が自然とつながり合い、お互いに顔の見える関係で暮らしている。そのことを実感した出来事だった。

5月に入ると田植えに向けてトラクターが我が家の前を行ったり来たりしていた。何かの合図のようなけたたましい音が、冬の間静まりかえっていた集落に春の息吹を吹きこんでいく。
「米作りが始まるぞ、米作りが始まるぞ」
空気中の粒子がそう囁きながらフワフワと漂い、どこかソワソワとした高揚感を集落を包み込んでいるようだった。そう、スタジオジブリ映画のワンシーンのような。
石徹白では、「結(ゆい)」の作業を通して集落中で助け合い、励まし合いながら農作業や山仕事をして暮らしてきた時代があったのだそう。「たつけ」という農作業用ズボンに絣のハッピ、ピンクの帯をたすき掛けした姿の女性たちが田んぼに集まり田植えをした。その時に歌われた歌が指定無形民俗文化財でもある石徹白民踊のひとつ、「田植え唄」だ。

実際に田植え唄を歌いながら田植えができる農業体験交流があり、私も子どもたちと一緒に参加した。畦側の歌い手と田植えをする側との掛け合い。暑さの中、歌いながら手を動かしていると辛さと楽しさが混じり合った感覚になる。畦側の歌い手との一体感はなんとも言えない高揚感と幸福感をもたらしてくれた。遊びではないと怒られそうだけど、楽しかった。とても。
手を動かしながら繰り返し歌を歌う、その繰り返しの生活の中に小さな喜びを見出し、誇りを持って懸命に働いて生きてきた時代。そういう暮らしの中で自然と労働歌が生み出され、役割を果たしてきたのだと思う。これって民衆的芸術と言っていいよね。
石徹白民踊には他にも「夜づき」や「粉ひき」などの労働歌があり、夏の盆祭りで歌って踊ると聞いた。夏に向けて、ちょっとづつ歌の練習をはじめてみよう。