朝だ朝だ。山に向かってうんんと背伸びしていると、ひょろろろろろろ、高い音から低い音まで見事に下降してゆく美しい歌が聞こえる。どんな鳥が鳴いているのだろう。姿が見えなくて、音だけ聞こえてくるのがよい。この歌声にピアノを合わせるなら、どんな曲が生まれるかな、急いで部屋に戻って窓を開けて電源を入れて録音ボタンを押して、よし1分と掛かってないぞと思ったら、こういう時に限って鳥は歌うのをやめてしまう。夕方にも歌っていたので再び試してみたけれど、録音ボタンを押したら静まってしまった。まだまだ10年早いんだろう。諦めてゆったりと素晴らしい歌声に耳を澄ましてみる。
なんでも物は試しで、今年は草刈りを積極的にやらないことにした。いよいよ夏が近づいて、そこら中、草がぼうぼう茂ってえらいことになってしまったけれど、いままで気づかなかった草花や生き物たちにたくさん出逢えている。わざと刈らずに残しておいた箇所が、海に浮かぶ島のように育ったり、ぽこぽこと小山になって、向こう側に何があるのか近づいてみないと判らないようになった。この新しい景色はワクワクする。危険な生き物がいるかもしれないので用心が必要だし、歩く速度も落ちるけれど、覗く度に新しい出逢いがある。
本当は、目の前に広がるこの草、草、草。すべて雑草なのだと割り切ってスッキリ、すぱすぱと刈り取ったほうが、安全だし、見通しがいいし、広いし、気持ちがいい。躰は疲れるけれど、全部刈り取ってしまうほうが頭が楽だ。いちいち、この草は大きくなったらどんな姿になるのだろうか、この花が種になって増えたなら来年どんな景色になるのだろうか、などと考えていたら、草刈りは全然終わらない。どれを刈って、どれを残して、なんてやっていると時間がいくらあっても足りない。えいや、面倒だ、全部刈ってしまえと、これまではなったのに、なんだか今年は、草刈りなど終わらなくていいじゃないかと、不思議と力が抜けるようになってきた。ひとつひとつの草花の、毎日違う美しさがあって、すごいなあと、今日も少しだけ違うなあと、ただ愛でたくなる。
数日後にコンサートを控えているので、最近は毎日ピアノの練習をしている。この1年間、家でこつこつとりためていた「Marginalia(マージナリア)」という曲たちを舞台で演奏してみようと思っている。それぞれの季節で、窓を開けたら入ってくる音に合わせて、思いつきで演奏した曲たち。改めて同じように弾こうとすると、これがとても難しい。なんとなく覚えているがままに弾いてみると、ずいぶんと単純化された演奏になってしまっている。例えば、ドレミというメロディがあったとして、今弾くと、「ドレミ、ドレミ、ドレミ」、何度やっても正解だけを弾いてしまう。思いついた時の録音を聴き返してみると、「ド〜レミ、ドレ〜ミ、ドッレミ」、同じドレミでもあらゆるパターンを弾いている。一音一音はじめての出逢いをとても用心しながら、あらゆる交わり方を楽しんでいるように聴こえる。どこに辿り着くのかわからない、ただそのことを楽しんでいるように聴こえる。草刈りと一緒だなと思う。
いつもここに立ち返っているような気がする。脳は、ラクをしようとする。冷水と熱湯があったら、ちょうどいい湯加減に落ち着こうとする。安全で、安心で、何も考えなくていいところに落ち着こうとする。そこをぐっとこらえて、冷水と熱湯をただ行ったり来たりするような、あらゆる温度の水を楽しむような、そんな心でありたい。誰にも知られなくていい、ずっと自分の一番素直な中心から、それと同時に、一番遠く自分から離れた宇宙の果てに、その間のどんな時空でも、愛おしいような、そんな心でありたい。昨日の夜、庭の小川を覗いてみたら、蛍がたくさんふわふわと暗闇を泳いでいた。たくさんの光が一斉にゆったりと瞬いて、大きな呼吸をしているみたいだった。